#10 「蹴飛ばされた風景画」
29
凪がマナを連れて晴香の家へと帰り着いたのは、零時を過ぎた頃だった。
「ただいま」
マナと中に入りつつ玄関ホールの照明を点ける。誰からも返事はない。そのままリビングの扉を開ける。
晴香は真っ暗な部屋でいつもの椅子に腰掛けて、顔をL字デスクに突っ伏していた。玄関からの間接的な光だけが、彼女の背中を照らしている。
「晴香、ただいま」
「……聞こえてる。おかえり」晴香が顔を伏せたまま答える。その声は何故か掠れていた。
彼女はゆっくりと体を起こすが、こちらに顔を向けようとしない。様子が変だ。
「……怒ってる? ごめん……」
「別に怒ってないよ。反射的に謝るのやめて」晴香は目を合わせない。「ありがとね。あんたらのおかげで、運送業者の拠点が突き止められたわ」
どうしてこちらに顔を向けてくれないのか分からない。困ってしまい、思わずマナの方を見る。
マナは目が合うと少し困ったように微笑んで、そのまま洗面所へ行ってしまった。
晴香と二人、リビングに残される。
「……星野は? 今は通話してないの?」
「してないよ。尾行が済んでもう話すこともないから。今日は箱根に泊まるって」晴香はこちらを見ずに答える。
「そう……か」
沈黙が辛い。彼女は怒ってないと言っているが、どう見ても怒ってるようにしか見えない。
段々面倒になってきた。
「あのさ……晴香。いいかげんその感じやめてほしいんだけど。こっち向いて──」
言葉の途中で、いつの間にか洗面所から出てきたマナにバシッと背中を叩かれた。
「晴香ちゃん! もうみんな疲れてるし一旦解散にしよ! 凪くんも今日は帰って」マナが少し慌てたようにまくし立てる。
「え?」
状況が飲み込めないまま、マナの手によって玄関ホールへ押し戻される。彼女はそのまま「おやすみー」と言ってリビングのドアを閉じた。
晴香が何に腹を立てていて、マナにどうして追い出されたのか分からずしばらく呆然となる。
何が何だか分からない。
「……」
何となくリビングに戻ってはいけない気がし、凪はそのまま家に帰った。
*
晴香は目元が腫れた顔をとうとう見せることができないまま、凪が玄関から出ていく音を聞いていた。
子供すぎる自分。募る罪悪感。
「……もう大丈夫。凪くん帰ったよ」マナが言う。
もっと自分がしっかりしていれば、彼女たちを今日のような目に遭わせずに済んだかもしれない。やっぱり、恨んでいるだろうか。
顔を見るのが怖い。彼女は今どんな表情で、どんな気持ちで自分に言葉をかけているのだろう。できることならこうして顔を伏せたまま、いなくなってしまいたい。全部夢だったらよかったのに。
沈黙。ラックから微かに響く計算機の唸り声だけが、二人の間にあった。
恐る恐る、顔を上げる。
真っ暗なリビング。少女の横顔が玄関からの逆光に縁取られている。その顔がこちらを振り向き、そばに寄ってくる。
「ただいま、晴香ちゃん」
彼女は今朝家を出ていった時と同じ、柔らかな笑顔でそう言った。
「……マナぁ」
目頭に熱がこみ上げる。満杯の心はその声に揺さぶられ、とうとう溢れてしまった。手先が縋りつくものを探して勝手に動き、少女の服を掴んで引き寄せる。
今更この子の前で強がってもしょうがない──そのまま、マナの体温に顔を埋める。
「帰ってきて本当に良かった……あたしのせいで、あんたや凪が死んじゃったらどうしようって……本気で怖かった……」
「大丈夫。全部自分のせいだと思い込まないで。みんな自分の意思でやってるんだよ……でも心配してくれてありがとう」
どうしてこの子はこんなに優しく振る舞えるんだろう。まるでかけてほしい言葉を知っているみたいだ。本当は人の気持ちなんて全部お見通しで、自分が辛いのを何もかも我慢して相手がほしい言葉をかけ続けてるだけなんじゃないか。
もう嫌だ。彼女にこれ以上我慢させたくない。辛い思いをさせたくない。
凪もマナもいなくなる──そんな恐怖に苛まれるのは、もう耐えられない。
「もう、やめたい……この先どんなことがあっても大抵のことは我慢できるって思ってたけど、自分以外の人が傷つくのは本当に無理……」
無意識に強く押し付けていた髪を、マナの手がくしゃくしゃと撫でた。
「うん、とにかく今日はもう休もう」
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