28

 凪は頬をはたかれて目が覚めた。


「寝てんな。そろそろ喋ってくれ」


 この汚い顔を前にして目覚めるのはもう何度目だろう。気絶するたびにこうして起こされる。

 鼻の奥がヤスリでこすられたようにひどく痛む。頭も割れそうだ。敏感になった目の表面が染みて涙が止まらない。眼球全体が大きな異物になったみたいだ。喉もボロボロで、息をするのも辛い。常に酸欠の感覚がある。しかし少しでも大きく息を吸ってしまうと、その空気が気道を刺激して激痛を伴う咳が止まらなくなる。


「根性あんな」坊主頭が言う。「目ぇ真っ赤じゃん。でもそろそろ折れてくれ。一生鼻効かなくなんぞ」

「……何をされたって……話しようがないよ……本当に何も知らないんだから」


 喉を庇い、途切れ途切れに発話しながら思う──この状況には絶対屈さない。


「っそ」


 腹に重い拳が入った。胃の中のものが上がってくるが、えずいても何も出てこない。

 吐物にまみれた自分の足が、涙でぼやけて見えた。

 髪を捕まれ、伏した顔を持ち上げられる。また口を塞がれるのだろう──そう思ったところで、外から銀髪が帰ってきた。


「今見張りから電話あって、埠頭周辺の警備用hIEが複数台こっちに来てるっぽいです」

「はぁ!? マジかよ」


 坊主頭が出口に向かおうとする。移動するつもりらしい。

 タバコの煙漬けで鈍った頭が遅れて状況を理解しはじめる。ここで警備に見つかったらこっちも終わりだ。裸で椅子に拘束されたままの自分が見つかったら大事おおごとになるだろう。通報は何としても避けたい。


「待って」枯れた喉から言葉を絞り出すが、掠れて普段の話し声ほどの声量も出ない。


「待たねえよアホ」坊主頭はこちらに目も合わせない。


「拘束を解いて……僕らも逃げたい。警備に見つかりたくないんだ」


 坊主頭はこちらの言葉を無視して足早に立ち去ろうとする。こんなところで終わりたくない。なんとかして引き止められないか。


「見つかって騒ぎになったら……どうするんだよ。警察沙汰にしたくないのはお互い様だろ……」


「そんな余裕あったらお前とダッチワイフごと車に乗せてんだよ」坊主頭は振り返りもせずに言う。


 そのまま二人組は海の見えるシャッターの向こうへ走り去った。


 どうにか自力で逃げ出せないか──体と手首の拘束を外そうと身をよじり、両手首の皮がテープと強く擦れ合う痛みに耐えながら全力で藻掻く。


 突然、後ろから物音がした。


「凪くん!」


 拷問による苦痛の中で、何度も無事を願った少女の声。


「マナ!?」


 驚きから思わず吸い込んだ空気が喉を刺激し、大きく咳き込む。

 肺が裏返りそうな痛みに耐えながら思う──とにかく彼女が無事でよかった。


「もう喋らなくていい。じっとしてて」マナが背後に駆け寄ってくる。体を縛っていたテープが、彼女の手によって剥がされていく。


 ようやく体の拘束が解けた。酸欠でふらつきながらもなんとか立ち上がる。後ろ手はまだ縛られたままだ。


「こっち」


 彼女に腕を掴まれる。コンテナの影まで手を引かれながら移動し、二人でその場にしゃがみ込む。どうやらこの場所は入口から死角になるようだ。


「ここにいれば大丈夫。警備のhIEはここまで入ってこないように誘導しておくから」


 向かい合ったことでマナの顔が視界に入る。その髪や頬は、頭の傷から流れる黒い液体で汚れていた。見続けることができず、目を伏す。

 何も喋れない。マナも黙ったままだ。窓から射す月明かりだけが、そんな彼女の体を青く照らしている。どうにもできない沈黙。顔を伏して、ただ床にポタポタと零れていく涙を見ていることしかできない。


 突然、柔らかな体温が、頬を拭うように触れた。


 その手のひらが纏う優しさの意味が分からない──僕は結局、君を守れなかったのに。


 今自分が向けられている感情が知りたくて、恐る恐る、顔を上げた。


 眉根を寄せた、悲しみとも悔しさともつかないマナの表情。黒く汚れたまぶたから覗く瞳が、暗闇の中で憐れみの色を帯びてぽつりと浮いている。


「凪くん、ごめんね……こんなにボロボロにしちゃって」


 消えそうな声で語られたその言葉は、凪自身が彼女にかけたかったものだった。自分がどれだけ傷だらけになろうが、そんなことはどうだっていいのに。


「……僕は、君を守りたかったんだ。なのに結局今日も……こんなに酷い目に遭わせて……」


「どうだっていいよ、そんなこと……」

 

 さっきから自分の気持ちと同じ言葉が、彼女の口から返ってくる。鏡に映った自分と会話しているようだ。とても苦しいはずなのに、なぜか少し笑ってしまいそうになる。


 そんな奇妙な思いの中で、ふと彼女と目が合う。


 苦しそうだった彼女の表情はいつの間にかほどけていて、こみ上げるおかしさを我慢するような、苦味の混じった微笑へと変わっていた。


「……ははっ、私たち何やってるんだろうね……。二人ともボロボロ……」


 彼女は笑った。

 凪も笑った。


 それが彼女につられたからなのか、内からこみ上げるおかしさに我慢できなくなったのかは、自分自身にもよく分からない。


「……おかしいな……記憶はないはずなのに、前にも凪くんとこうして笑いあったことがある気がするの」


 愛おしさの記憶を手繰り寄せるように、彼女の右手が凪の左頬に触れる。

 そうして、彼女は暗闇の中でぽつりと言った。


「なんだか、同じ傷を共有してるみたい……」

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