#7 「バトンタッチ」

20

 星野と凪が帰宅し、晴香は自宅でマナと二人きりになった。


「あんた今日どこで寝てもらおうかな。連日そのソファーじゃキツいよね」


 マナの体に睡眠は必要ない。しかし制御系内の状態は概日リズムを持っており、それが眠気を発生させるらしい。


「えっ、そんなことないよ。私はここでいい」

「ちゃんと布団で寝ないと疲れ取れないでしょ」

「……それって冗談?」

「わざわざ訊くな」


 マナは少しおどけるように微笑を返した。冗談を打ち返せる程度には落ち着きを取り戻したようだが、その表情はまだ無理やり作ったようにぎこちない。


 これ以上彼女の心に負担をかけたくない──晴香は傍受している風俗店の通話音声が流れないよう、フクロウのスピーカーをミュートにした。その設定をしたところで、マナの中に本当の心があると認めている自分に気づく。


「そもそもあんたの分の布団がまだないんだよね。それは明日までに届けてもらうとして、今日はあたしと一緒に寝ようか」

「えっ、悪いよ」マナはあたふたと両方の手のひらを晴香に向ける。「ほんと、屋根がある場所にかくまってもらえるだけで十分すぎるぐらいだから……これ以上晴香ちゃんに迷惑かけたくない……」


 そこまで話して、マナはふっと苦しそうな表情に戻った。そんな顔をされて放っておけるわけがない。


「大丈夫よ、ベッドデカいし。ちょっと話したいしさ」


 今日は多少無理矢理にでもそばにいてやろう。


     *


 晴香はマナを寝室に促した。


 部屋の半分以上の面積をダブルベッドが占めている。先日空き缶をまとめた袋がその脇へ追いやられたままだ。


「……こないだゴミ全部こっちの部屋に移動したっきりそのままなんだ。凪には内緒ね」

「うん。それにしてもベッドすごい大きいね」

「一度広いのに慣れると狭いやつには戻れなくなるよ」


 今日も疲れた──晴香はベッドにダイブする。うつ伏せの体から空気が押し出され、自然と声が喉から漏れた。

 ベッドの上を転がって仰向けになる。少し照明に眩しさを感じ、目を細めながら手を額にかざす。


「っはぁ最高。マナももう寝よ」


 視線を送ると、マナはおずおずと遠慮がちに隣へ寝転がった。それを確認し、手首の携帯端末に触れて照明を消す。暗くなる部屋。視界が常夜灯の淡いオレンジに染まる。


 隣で寝転がっているマナの様子をそっと確認する。時折深く息を吸い込んでは吐き出して、苦しそうに寝返りを繰り返している。目を瞑っているが、その目元はやけに力が入っていて、眉間に皺が寄っている。


「……眠れないの?」


「あっ、ごめんね。うるさかったかな……」マナが体を起こそうとする。「やっぱり向こうの部屋にいくね」


「いや! そういうつもりで言ったんじゃないよ。ちょっと心配になっただけ」


 起き上がろうとするマナを引き止め、もう一度仰向けに寝かせる。


「一々人に気を遣いすぎ。逆にちょっと面倒くさいよ」笑顔をつくりながら言う。


「……ごめん」


 すぐに謝るのもやめてほしい──若干やりづらさを感じながらも、そういう子なんだろうと一旦受け入れることにした。


 二人でぼんやりと天井を眺める。


「晴香ちゃん」マナが突然口を開いた。


「なに?」


「本当にありがとう。私を人間として扱ってくれて。リスクの塊みたいな私をかくまって、その上こんなに暖かい場所で寝かせてくれて」


「……別に、あたしはあたしの目的のためにあんたと一緒にいることを選んだだけだから、お礼を言われるようなことはしてないよ」


 そう言いつつ、晴香は数日前のレストランでの会話を思い出していた。

 おめでたい──プライバシーとかいう善性への無邪気な信仰を持ち出す凪にそんなことを言ったけど、今マナと添い寝している自分も大概だ。自分にも、そういった人間の基本的な権利のようなものの存在を無条件に信仰していた時期があっただろうか。あったとすれば、それを捨てたのはいつ頃からだろうか。


 そんなことに思いを巡らせているうちに、一つ、ある人とのやりとりを思い出す。

 世界の色が鮮やかさを取り戻すより少し前。一番孤独だった時期に、唯一信頼していた人との話だ。

 

     *


 その日晴香はソファーベッドにもたれて、ラップトップで結城 理沙ゆうきりさと通話していた。


「……まさか本当に一週間もかからず実証してしまうとは、さすがは櫻井先生と鏡子さんの娘ね……」

「親は関係ないでしょ。すごいのは師匠だよ。AS2081を突破する手段を思いついちゃうなんて。あたしは論文をなぞっただけ」


 理沙のことを、晴香は師匠と呼ぶ。


 晴香はしばしば理沙から依頼を受けて大学でアルバイトをしている。この日の通話もそれ絡みの連絡だ。

 この時晴香は、世界中で広く用いられている暗号方式の欠陥を指摘する論文を理沙から渡され、その正当性を実証するための実験を任されていた。

 平文を保護する各種の論理的なプロセス自体は情報理論的安全性が担保されている。しかし鍵交換に関して物理的なレイヤーに脆弱性があり、それを突けば実用的な時間で暗号を解読することができる──そんな趣旨の論文だった。

 この正当性が実証されれば、この世界におけるかなりの割合の通信が傍受及び改竄できてしまうことになる。そして、晴香はその実証に成功してしまった。


「この内容を理解して、必要な計算資源をこの短時間で用立て、実際に実験を成功させた。こんなことウチの研究室の連中の誰にもできないよ。もちろんこの私でもね。だから自信持って」理沙は滔々とうとうと晴香の実力を褒め称える。


「あんまり褒めないでよ。調子狂う」


 理沙に褒められるのは、この時の晴香にとって何よりも嬉しいことだった。しかしそんな気持ちを悟られるのは気恥ずかしく、普段の調子で話せなくなってしまう。


「そんなことより、この結果が示すことって相当ヤバいけど、どうやって公開するの? 核のスイッチを押すより世界にインパクトあるよ」

「発表はしない。自分の考えが正しいって証明されればそれで十分。すっきりしたわ、サンキュ。その力はもう君一人のものだ」

「はぁ?」

「この世界中を飛び交うあらゆる情報を、世界でただ一人、ある女子高生だけが自由にできる。いい感じにぶっ壊れてて最高だと思わない? 小さなかわいい神様」


 理沙は飄々ひょうひょうとしていて、その言葉のどこまでが本気でどこまでふざけているのか分からない。


「あたしはこんなの使わないよ。それに、どうせあたしら以外にもこれに気づいて、少人数で秘匿して使ってる人達がいるでしょ」

「どうあれ、内緒にしとくのが一番いい。私達にとっても、世界とってもね。当たり前の権利が当たり前に保証される──この世界はそういう幻想の上にできていて、それを信仰している沢山の人がいる。その人達の心の拠り所を、むざむざと奪うのは残酷なことだよ」


 そんなもんかと納得しつつも、理沙が浮かべる人を食ったような笑顔に一言いってやりたくなる。


「現し世のことに世界で一番興味がなさそうな師匠の口から、そんな言葉がでてくるとは驚きだわ」

「君は私をなんだと思ってるのかな?」


 ケタケタと笑う、お金にも名誉にも興味のないその人は、この世界の誰よりも綺麗で豊かに見えた。


     *


 気がつけば、マナの呼吸はゆっくりとした規則的なものに変わっていた。ようやく寝付けたらしい。

 横目にそれを確認して、視線を天井に戻す。


「……ごめんね師匠。あたし、嘘ついた」


 暗闇をぼんやりと照らす常夜灯の一つを見ながら、小さく懺悔する。

 父親の無実を証明する目的のために、あのとき託された力を使っているからだ。

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