19

 彼女に裂かれ、作りかけの部分を無理やり引きずり出された。彼女はその中身を確かめ、誰も触れない場所に置いて独り占めしようとした。

 自分と同じ顔をした未成熟な怪物に、震える彼女を食べさせた。怪物の唾液で大切な人が汚れていくのをただ見ていた。


 互いにナイフで切りつけ合うような行為の後にふと目が合い、小さく微笑みあった。

 同じ痛みを共有するような深い繋がりを感じ、初めて恋という感情を掴みかけた。


 未成熟な心の中身はドロドロに溶け合ったままだ。これが愛だとか、そういった華やかな言葉に整理される日は来るのだろうか。

 彼女と自分の心の境目まで分からなくなって、共に過ごす時間をより多く求めるようになった。


     *


──浅い眠りは何度も、それを追体験させる──


 視界に広がる青空には黒い煙が流れていた。

 ゴムの焼ける強い臭いが鼻を突く。


 アスファルトの熱を背中に感じる。

 頭と左腕がひどく痛い。


 ここがどこだが思い出せない。気を失う直前の記憶がない。


 頭を少し動かして、世界がゆっくりと回転するような不快感を覚えた。辺りの様子を確認するため、吐き気に耐えながら少しずつ上体を起こす。


 痛む左腕を確認する。


 服から露出した部分は大きく擦り剥けていた。汚れた皮が所々に丸まってくっついている。皮膚の剥がれた面には小さな石や砂が付着していて、一部は深くまで食い込んでいた。白いシャツの袖は血で染め上げられている。といっても、すぐにはそれが血液だと認識できなかった。日常で目にすることがないほどの出血だったから、まるでもともとそういった色の布であるかのように見えていた。


 目眩で世界が回転する感覚に耐えながら、辺りの様子を見回す。


 横転したトレーラーから積荷が散らばり、その一部が燃えている。可燃性の液体が漏れているようで、段々と火の手が範囲を広げていく。

 歩道に乗り上げた乗用車が建物に衝突して変形しており、その向こうで何かが派手に黒煙を上げている。


 そこでふと、自分がなぜここにいるのか思い出した。今日はチカと買い物をするために街に出てきていたのだ。しかし彼女の姿はない。


 最悪の想像が頭をよぎる。


 チカを探すため、ふらつく体を無理やり起こした。


 視界の端に転がる、女性の上半身── 一瞬血の気が引いたが、断面からすぐにそれがhIEだと分かった。彼女は何も言わずに無表情で、目線のみをこちらに向けている。もう体を動かすことはできなさそうだ。


 壊れた人形から視線を逸らし、再びチカを探す。


 辺りを見回す。歩道に乗り上げ、壁に衝突して変形した車が目に留まる。

 それを視認した時、心臓が跳ねた──車の下敷きになっていたその人が、見慣れた服装をしていたからだ。


「チカ!」


 酷い吐き気に耐え、おぼつかない足取りでそばに駆け寄る。


 青白くなったその顔を見て全身の毛が逆立った。鼻と口から溢れた血が、頬や髪、服を汚している。

 彩度が落ち切った白黒写真のような肌の上を、鮮やかな紅が零れていく。その映像を確かにこの目に映しているのに、何が起きているのかうまく頭に入ってこない。

 感情が霞がかっていく。目の前の現実をこの胸が解釈できずにいる。


 心はやがて沈黙してしまい、凪はしばらく呆然とその顔を見つめていた。


「……凪くん? どこ……?」


 彼女の薄く開いた目が微かに動いた。しかし視線が合わない。うまくこちらの姿を捉えられていないのか。


 「チカ! ここだよ! 大丈夫、そばにいるから!」


 投げ出されたチカの手を取り、力いっぱい声を振り絞る。握りしめた手の感触は、まるでゴムでできた玩具おもちゃのようだった。


 ふと、膝立ちのジーンズに染み込む生暖かい感触に気づく。彼女から流れ出した体温が、アスファルトに血溜まりをつくっていた。


「……寒い……怖いよ……」彼女がうわごとのように言う。


 その言葉に反して、凪は熱せられた焦げ臭い風を肌に感じていた。


 散らばったトレーラーの積荷を中心として、炎が着実に広がっていく。それが辺りを取り囲み、逃げ場を少しずつ塞いでいく。


 夢か現実かも分からない状況。


 心は石のように沈黙しているのに、思考だけは何故なぜかとてもクリアだ。


 彼女の腹部には自動車の前輪が乗り上げている。もともと重量がある上に、前面を壁に強く押し付けた乗用車は、今の凪の力ではびくともしない。


 熱風が激しさを増していく。


「……凪くん」


 ほとんど生気を失った青白い顔。

 焦点の合わない目がまばたきし、一筋の涙が零れる。


 無意識にその手を強く握っていた。彼女はそれを握り返さない。


「……助けを呼んでくる。大丈夫、すぐ戻ってくるよ。だから少しの間だけ、僕を信じて待ってて」


 自然に口をついたその言葉が、本心なのか嘘なのか、自分でも分からなかった。自分と同じ姿をした役者がそう話すのを、映画館でポップコーンを食べながら見ているような感じだ。


 そっとチカの手を離し、目を逸らしたまま背を向ける。


 視線の先にhIEが転がっていた。その上半身には、すでに火が燃え移っている。

 女性の姿をしたその人形は、独りだけ生き残ろうとするこちらの姿を、ずっと目で追っていた。

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