第二章

#6 「腐った蛹」

18

 凪は久々に自宅のベッドで横になり、部屋を暗くして天井を眺めていた。


 体は疲れているのに、頭はまだエンジンがかかったままで中々寝付けない。

 目を瞑ると、今日起きた様々な出来事の感覚が蘇る。フクロウの翼の隙間から零れた光の束、カッターナイフの刃がせり出す音、二階から飛び降りたときに全身で感じた風、マナの叫び声──


 何度目かの寝返りの後で、ようやく意識が閉じていくのを感じた。


 マナの横顔に重なる、あの人の気配が微睡まどろみの意識を包み込んでいく。

 その記憶が、ゆっくりと眠りの底に沈む意識へ溶け込んでいく──


     *


 レースカーテンに弱められた柔らかな陽の光が、部屋を優しい白に照らしている。

 その光に縁取られた、簡素な作りの鏡台に目をやる。そこにはベッド腰掛ける自分と、それに寄り添って座る少女──栗原 智鏡くりはらちかが映っていた。


 彼女の横顔を見る。


 少し癖っ毛で短めの黒髪が、薄桃色の差した透明な印象の頬にかかっている。視線は下の方を向いていて、長いまつ毛がいつも少し潤んでいる瞳を隠している。


 体温を感じるほど近くにいるのに、瞬きをしたら消えそうな、不思議な存在感。


 彼女は物心ついたときからそばにいた。日差しで暖められたこの部屋の空気のように、いつも身近にあって、穏やかな幸せで包み込んでくれる存在。こうして寄り添っていると、心臓の鼓動を共有しているように、互いの心がゆっくりと溶け合うような安心感がある。


 彼女が目を細めて見つめる膝の上には、広げたアルバムがあった。写真、水族館の入場券、リーフレットなど、色々なものが挟まっている。


「……これ、二人で一番最初に見た映画。凪くんは覚えてる?」チカが映画のチケットを指差す。

「ああ、死んだ女の人が、毎年お墓参りに来る彼氏に『私のことを忘れてほしい』って手紙を送るやつでしょ」

「それそれ、懐かしいな。結局その彼氏が別の女の人とくっついて終わるの」

「チカ、そのラストには不満タラタラだったよね」

「私はあの最後ダメだったなぁ。同じ立場だったら、後釜を狙いに来る女の人なんて呪い殺しちゃいそうだよ」


 虫も殺せない彼女は、冗談のようにそう言って笑った。


「はは、チカにはできないでしょ」

「……多分、できるよ。まあ、ラストの展開には納得できなかったけど、二人で映画を観に行けたのは嬉しかったな。だからこのチケットは宝物」


 チカはそんな〝宝物〟が沢山挟まれて少し膨らんだアルバムを、膝の上で眠ってしまった子犬でも眺めるような目で見つめている。


 その穏やかな横顔を見て、小さな罪悪感がちくっと胸を刺した。


「……チカはさ、いつから僕のことが好きだって思うようになったの?」

「えー?」


 こちらを向いたチカと目が合う。そんな質問をされたことが意外だったようだ。


「いやまあ……」思わず視線を逸らす。「何を今更って感じだろうけど」

「……そんなこと聞かれてもわかんないよ。凪くんとは小さい頃からずっと一緒にいたんだから。これまでのどこかに境目があったわけじゃなくて、気がついたらそうなってた」


 その返答は、凪が知りたいことを含んでいなかった。

 彼女はどうしてその気持ちを、〝好き〟という名前で呼ぼうと思ったのだろう。今自分が向けられている気持ちは、一体どういうものなのだろう。


「へぇ。まあでも、自覚したタイミングとかはあったんじゃ」

「……あんまり言いたくないな」彼女は俯いて困ったように微笑む。

「? そういうことなら別にいいけど」

「……どんな理由でも、嫌いにならない?」


 不安げな呟きのあと、彼女はちらりと横目でこちらを見た。その視線に小さく頷きを返す。チカはまた床に視線を落として、少し躊躇ためらいながら話しはじめた。


「……中学に上がって、急にたくさんの女の子が凪くんをチヤホヤするようになったでしょ。それを見るのが、すごい嫌だった……」


 チカが抱いた気持ちを嫉妬と呼ぶことは知っている。でも、その感覚を想像できない。彼女がなぜその気持ちを吐露することを躊躇ちゅうちょしたのかも、よく分からない。だから、どういう反応を返したらいいのかも分からない。

 彼女が今どういう気持ちの中にいるのか知りたくて、そっと顔を確認した。不安そうに何かを言いかけてはやめるような素振りを繰り返している。一体何を考えているのだろう。


 身構えていると、チカはかなり緊張した様子で口を開いた。


「……凪くんは、本当に世界中の女の子のなかで、私のことが一番好き?」


 彼女がその質問をするのは二度目だった。


「えっ、そりゃ……もちろん」


 その言葉に嘘はない。それでも、凪はチカにそう答える時、胸にチクリと刺さる罪の意識を感じていた。


 この世界中にいる女の子のなかでチカのことを一番大切に思う。その気持ちに嘘はない。しかし、チカが自分に感じている〝好き〟と、自分がチカに感じている〝好き〟が別の感情であることは、おぼろげながらに分かっていた。


 正直、恋をするという気持ちがどんなものなのか、まだよく分からない。


 チカのことを大切だと思う。でもそれは、例えば星野のことを大切に思う気持ちと同じ種類のものだ。

 女性に性的な欲求を喚起される感覚がピンとこないというわけではない。でもそういう感覚と、言葉で知っている恋という概念はあまりにも一致しない。


 自分の中で整理がつかないこの気分を、大切な人に向けるのが怖い。


「君が笑っているのを見るのが僕の一番の幸せだよ。君が泣いているのを見るのは、自分が辛い目に遭うよりも苦しい。だからこれからもずっとそばにいて、君が笑顔で居続けられるようにしたい」


 騙しているような気持ちを取り繕うように、今の自分に言うことができる本当の気持ちを必死で並べ立てる。


「どうしたのいきなり」


 チカの顔は、こちらが突然饒舌になったことに驚いているようにも、訝しんでいるようにも見える。焦りが看破されてしまう。隠していた気持ちが悟られてしまう。そんな不安が胸に募っていく。

 まだ目の前の大切な女の子が求める気持ちに答えられるほど、自分の中に沸き起こる色々な気持ちを整理できていない。今まで取り繕ってきたそれがあらわになってしまったら、チカはきっと傷つくだろう。


 彼女を傷つけるのが怖い。

 彼女が幻滅して自分から離れていくのが怖い。

 この穏やかな時間が失われてしまうのが怖い。


── 一体何を言えば、彼女を安心させられる?


「……世界中の女の子のなかで、チカのことが一番好きだよ」


 嘘はついていない。


 でも、その意味が自分と彼女の間で異なる。チカにずっと隣にいてほしくて、ほとんど嘘のようなその言葉を苦し紛れに口にした。


「……」


 チカは黙ってしまった。


 顔を見るのが怖い。でも、気持ちが知りたい。大きくなる不安に耐えきれず、そっと顔を覗く。

 彼女は俯いていた。癖っ毛の隙間から覗く頬の赤みが強くなっている。


「チカ……?」


 彼女は少しの沈黙の後で、ちらりとこちらを見返した。


「……うれしい」


 溢れる喜びが零れてしまったようにはにかんだ口元。その笑顔はまるで太陽のように眩しく咲いていた。


 その顔に緊張を解かれ、思う。

 彼女をあらゆる苦しみから遠ざけて、いつまでもそばに置いて大切に水をあげていたい。

 まだ恋がどんなものかよく分からないけど、この気持ちは本当だ。


 自分が一番最初に恋をする人が、目の前にいる人であってほしい。

 この穏やかな時間が、いつまでもそのままに維持されてほしい。


「君や星野みたいな大切な人達がずっとそばにいてくれたら、後は何もいらないや」


 緊張が解け、無意識にそんな言葉が零れる。



 ふと、先程までほどけていたチカの表情が固まった。

 彼女は瞬きをせず、何かを読み取ろうとするようにこちらの目を見ている。


 思わず目をらし、視線を床に落とした。鮮烈な陽に照らされ、窓際の植物が床へ鋭い影を落としている。速まる心臓の鼓動。じっとりと滲む、嫌な汗──


「嘘」


 感情の読み取れないその言葉が、穏やかな時間を終わらせた。

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