17

 アカネの救出に失敗し、凪と星野は晴香の家へと逃げ帰った。待機組と合わせ、晴香、マナ、凪、星野の四人全員が集う。


「凪くん、星野くん、危険な目に遭わせて本当にごめんなさい! まさかこんなはずじゃ……」マナはソファーの隅で俯いて小さくなっている。


「アカネちゃんの様子が普通じゃなかった。想定外の事が起きたんだ。マナのせいじゃないよ」凪はリビング入口近くの壁にもたれかかりつつそう返す。


「中学のときクラスにああいう女がいたな。毎日親父にボコられて青痣つくってるのに、そいつは親父に好かれることに異常に執着するんだ」ソファーでマナの隣に座っている星野が言う。


「環境要因で正常な判断ができない精神状態になっていた可能性はある。でも、少なくともマナと一緒にいたときは逃げる意思があった……ってことでいいのよね?」デスクに向かっていた晴香が椅子を回転させてソファーの方を向く。


「うん」マナは晴香に目を合わせた。「喋り方も表情もあんなに変じゃなかった。まるで人が変わったみたい……」


「ここ数日で何かがあったと考えるのが妥当か……」


 そこまで話して無言になった晴香を、凪はちらりと見た。彼女は顎に手を置いて沈黙している。深い思考に入っているようだ。


 四人が無言になったタイミングから少し遅れて、突然机の上に置かれたフクロウがギャーギャーと鳴き始めた。


「通話だ」晴香がはっと目を見開いて言う。彼女は風俗店に出入りする通信を傍受しており、通話の音声がこのフクロウのスピーカーから出力されるよう設定していた。


 フクロウが鳴きやむ。一定の低いノイズが、小さく唸るように流れ出す。

 四人の視線が卓上のフクロウに集まる中で、その会話は始まった。


〈もしもし、お世話になっておりますー〉物腰の柔らかい男性の声。何となく若そうな感じだ。〈KCMCの森口です。先程お問い合わせいただいた件でご連絡させていただきました〉


〈あー森口さん。こりゃどうも〉応答するのは明朗な男性の声。


「おじさんの声だ」マナが言う。


〈リースの契約となっている弊社の制御系を搭載した機体がまた誤作動を起こしたということで……。先日の脱走騒ぎと言い、重ね重ねご迷惑をおかけしてしまい誠に申し訳ございません〉


〈いえいえ。アカネちゃんはウチの稼ぎ頭でしたから、あの頭をタダで使わせてもらってるだけ大変感謝してますよ。でもねぇ、前の騒ぎでアカネちゃんにもマナちゃんと同じ不具合があることが分かったって事で、一度調整のため預かってもらったじゃない。んで帰ってきてから、なんというか……どうも受け答えがポンコツになっちゃいましてね。今日も『マナちゃんがフクロウになって帰ってきた』なんて訳分からないことを喚いてたんで様子を見に行ったら、後ろからキャストらに持たせてるスタンガンでバチン! とやられちゃいましたよ〉


 スタンガンでバチンとやったのは恐らく晴香だ。カメラの映像にこちらの姿は残っていないから、それを鑑みて都合よく誤解してくれているのだろうか。


〈大変なご迷惑をおかけしてしまいお詫びの申し上げようもございません……詳細は先程レポートでお送りした通りですが、安全性の観点から緊急度の高い事案と判断し、こちらで当該機体──アカネちゃんでしたかね──その制御系の停止と全データの初期化をリモートにて実行させていただきました〉


「制御系の初期化!?」思わず声が漏れた。


 アカネの制御系の停止と初期化──頭の中身がまっさらにされたということか?

 晴香と顔を見合わせる。彼女はサッと机に向き直り、何かの資料をデスク上に投影して確認しはじめた。

 マナは青ざめた顔でフクロウを見つめたまま固まっている。


〈この後の予定ですが……〉森口はさらに話を続ける。〈本日中に交換用の機体をお送りし、その際に古い機体を回収させていただきます。この度の事態を踏まえまして、再発防止のために開発体制の見直しや出荷前の検品作業の改善を行っているため、どうぞ安心してご利用くださいませ〉


〈いやーブレーカーを使わなくても止められるんですねぇ〉〝おじさん〟の声は終始明るく、そこに怒りのニュアンスはない。〈マナちゃんが逃げたときも先に森口さんに相談しておけばよかったな。まぁ宜しく頼みます〉


〈本当に……今回の件に関しまして多大なご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ございません……重ねてお詫び申し上げます〉


〈いやいやそんなに謝らないでくださいよ。あのねぇ、僕は本当にみなさんの仕事に感謝してるんですよ。アカネちゃんも、こないだ逃げちゃったマナちゃんも、お客さんからの評判が本当に良くてねぇ。嫌がり方というか、特に痛がり方がすこぶるリアルで、『まるで本物の人間みたいだ』なんて言ってくれる客も多いですよ。店がヒューマノイドのキャストを提供している以上、殴るのを目当てで来る客も多いんだよね〉


 かつてマナが語った言葉を思い出す──逃げ出す一番の理由になったのは、暴力。

 彼女たちがどうしてああも苛烈な暴行を受けるのか、その原因にようやく気づいた。もし相手が人間なら向けることを躊躇してしまうような欲望であっても、人形である彼女たちに対しては遠慮なく向けることができるのだ。


「マナ、キツかったら寝室に行ってて」晴香が小声で言う。

「……大丈夫」マナはフクロウの目をじっと見つめたまま肩で浅く呼吸をしている。その手先は小刻みに震えていた。


 彼女は今日まで、倫理的な枷を解かれた剥き出しの欲望をこの小さな体で受け止めてきたのだろう。怯える彼女の姿からその過酷さを想像してしまい、見ているのが辛くなってくる。


〈たとえばさ〉〝おじさん〟は話を続ける。〈hIEのキャストだとちょっと殴っただけですぐにスタンモードになっちゃうでしょ、安全のためだとか言って。あれは本当に客受けが悪い。かといって特注の自律機で同じような演技をさせようとしても高くつくし、それこそ日常的に壊されたらたまったもんじゃない。ぶっちゃけそこまでいっちゃうともう本物を使ったほうが安いんだよね……まぁこれは冗談。店側も客側もリスク高いし、なにより本物だと客側が遠慮しちゃうからね。やっぱりそこは人形だからこそ、罪悪感を与えず安心してご利用いただける〉


「冗談ねぇ……」晴香が呆れたようにボソッと呟く。含みのある響きが引っかかって彼女をちらりと見るが、この位置からは表情が見えない。


〈そこに確かな需要があって、森口さんのところの製品はそれにピッタリとハマってる。だからね、今回のことも含めて、最近のちょっとしたゴタゴタについては全然気にしてません。こっちとしても、プロトタイプの試供品ってことである程度のリスクは納得して使ってるわけですし。なんでまぁ、今後ともどうか何卒宜しくお願いします──〉


     *


 通話が終わり、フクロウの目と口が閉じた。


「アカネちゃんは……」マナが今にも溢れそうな表情で言う。


 晴香が椅子を回転させてマナの方を向く。しかし少し目を合わせた後でまた顔を逸らし、ぎゅっと口を結んで沈黙してしまった。


「晴香ちゃん……?」


 今にも消えそうなマナの声。無言の時間が一秒、また一秒と経過するごとに、その表情に不安と焦りの色が増していく。


「あのね」伏し目のままの晴香がやっと口を開く。「森口によって送信されたレポートの内容からアカネちゃんに行われた処置の詳細を確認した。残念だけど……」


 マナの表情が凍った。


 もう見ていられない──凪は思わず顔を背ける。

 アカネを助けられると思っていた。今回は失敗したが、またやり直せると思っていた。よりにもよって自分たちの行動がきっかけでこんなことになるなんて……。

 もっと上手くやればこの状況を回避できただろうか。そもそもアカネの救助自体、初めからするべきではなかったのだろうか。


 そんなことをぐるぐると考えているうちに、一つの疑問が浮かぶ。


「……店側にしてみたらトラブル続きだし、一旦止めて交換っていうのは分かる。でもどうしてこのタイミングでデータの初期化まで?」


「おそらく機密保持のため」晴香が答える。「すでにマナの機体の行方が分からなくなってる手前、データ流出の再発防止に神経質になってても不思議じゃない。今回のことが第三者による制御系の回収だという可能性に気づいているなら、妥当な対応よ」


 膝に顔を埋めていたマナがキッと顔を上げた。


「私のせい!? 私が逃げたから!?」


 湧き上がる感情が抑えられず、溢れるままに発するような声。その叫びに晴香の体がぐっと強張る。


「そんなこと、言ってない……」晴香の声にいつもの明快さは無く、どこか弱々しい。


 誰もマナにかける言葉を見つけられず、静寂が重くのしかかる。

 マナは膝に顔を埋め、丸めた背中を震わせている。小さな呻きを途切れ途切れに発しながら。


 その嗚咽に、やり場のない怒りがふつふつと湧いてくる。この感情は、一体誰にぶつけたらいいのだろう。


 風俗店の客だろうか? 彼らはお金を払ってその対価を得ていただけだ。アダルトゲームを買って遊んでるのと同じ。たとえキャラクターを犯して左目を抉ったとしても、それは罪ではない。

 では、風俗店の経営者だろうか? 彼らはhIEの代わりにマナやアカネを利用していただけだ。あの明朗な声をしたおじさんは、彼女たちに人間相当の心があるなんて夢にも思っていないだろう。

 だとすれば全ての元凶は、マナやアカネを造り、売り物にしている奴らだ──怒りの矛先を求める心が、そんな結論に飛びつこうとする。

 しかしそこで、いつかした晴香との会話が頭を掠める──マナが人間であるかどうかは、まだこの社会が答えを決めてくれない問題だ。


 もしマナやアカネの生みの親が、彼女たちを単なる機械だと思っていたら?


「一旦帰るわ」星野が突然言う。


 その声に思考が中断され、凪は星野を見た。彼は鞄を持って立ち上がり、そのまま出口へ向かっていく。


「星野」ドアを開けようとする星野を呼び止める。

「ん?」

「今日はありがとう。助かったよ。星野まで危ない目に巻き込んでごめん」


 そもそも星野は本来今回のことと無関係だった。危険な役割をさせるつもりはなかったのだ。


「……そうね、ごめん。今度なんかお礼させて」晴香が弱々しい声色で続く。彼女にも罪悪感があるようだ。


 星野は少し困ったように晴香へ笑いかける。


「好きでお前らに付き合ったんだ。謝ることはないよ。これ絡みで何かあったらまた呼べ」


 星野は小さく「じゃあな」と続け、去り際に凪の背中を軽く叩いた。


 部屋を出る星野を見送り、マナの方を振り返る。彼女は広いソファーの隅で膝を抱えていた。


──彼女に何か、一言でいいから声をかけてあげられないか。


 マナの隣に腰掛け、必死にかける言葉を探す。しかし何も思いつかない。どのような言葉をかけても、今の彼女には白々しく聞こえてしまいそうだ。


 そうして何もできないまま震える背中を見つめていると、マナが突然口を開いた。


「──これからも、私やアカネちゃんみたいな存在が造られては、苦しんで消えていくのかな」


 答えは分かりきっている。でも、その背中に何も答えることができない。


「そうでしょうね」沈黙する凪をよそに、晴香が淡々と短く返答した。


「今日アカネちゃんの代わりとしてお店に来る子も、きっと私たちと同じことをさせられて、そのうち壊されて……消えていくんだろうね」


 何も言えない。晴香も何も言わない。


「……ムカつく……どうしてアカネちゃんが……あいつも同じ目に遭えばいい……」


 聞いているものの心をミキサーにかけるような涙声。


「……なんでこんなことが許されるの? 私たちが人間じゃなくて、おじさんやお客さんたちは人間だから?」


 おそらくその問いに対する絶対の答えは、この世界の誰も持ち合わせていないのだろう。彼女にかける言葉を見つけられないまま思考が虚しく空転し続け、只々やるせなくなる。

 少なくとも僕は君を人と認め、同じ怒りの中にいる──そう伝えてあげられたらいいのだろうか。


「……一体誰が私たちを造ったの? こんなこと……もうやめてほしいよ……」


「それを突き止めたい?」


 それまで黙って話を聞いていた晴香が突然口を開いた。


「え?」マナが少し驚いた表情で晴香の方を向く。まるで誰もいない場所で声をかけられたような顔だ。


 晴香の顔を見る。何かをこらえるように力の入った口元。


「あんたらを造ったのが誰なのか、自分自身がどういう存在なのか、知りたい?」


 いつもより弱く淡々とした、冷たい口調。しかしその声が微かな震えを含んでいることにも、すぐ気づいた。


「……知りたい。その人に直接会って、こんなこと止めさせたい……」


 晴香の声のトーンに少しずつ同調するように、マナの声が冷静さを取り戻していく。


「マナ、あんたとあたしは同じ目的を持ってる。真実に辿り着くためには、今日みたいに危険が伴うことも沢山しないといけない。それでも、あたしと協力してくれる?」


 晴香はマナの目を真っ直ぐ見つめて問いかけた。


 いつか空き教室で聞いた晴香の過去を思い出す。もしかすると、これまで一人で戦ってきた彼女にとって、マナは同じ目的を共有する初めての仲間なのかもしれない。


「もちろん、私にできることなら何でも……どんなに危ないことでもする。今更こんな自分……惜しくないよ」


 マナはその目に強い決意を宿らせ、晴香をじっと見つめ返してそう答えた。


 凪の胸に不安がよぎる。マナの覚悟が、自己犠牲も厭わないものだと分かったからだ。

 その少女の横顔はいつもどこか、瞬きすると消えてしまいそうな雰囲気を纏っている。


──この先、彼女がもし本当に消えてしまったら?


「僕も協力するよ」


 本当は、マナをこれ以上危険な目に遭わせたくない。しかし止めることはできないだろうし、そんな筋合いもないだろう。ならばせめてそばにいて、彼女を守りたい。


 その横顔に重なる過去が、彼女を見捨てることを許さない。

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