16

〈よし、こっちの作業は終了。この建物を出入りする通信は概ね傍受、改竄が可能。各区画のブレーカーはリモート制御が可能なものだったから、いつでも好きな場所の電源を落とせるわ。全カメラの位置も確認済みで、映像の差し替え準備も完了した。カメラの映像そっちに流しとくね〉


 凪の手元の端末画面に三つの映像が追加される。一つはロビー、あとの二つはどこかの通路のようだ。


「いやいやお前手慣れすぎだろ……そのワザ今度俺にも伝授してくれ」隣で一連の作業を画面越しに見ていた星野が心底感心した様子で言う。


〈金取るわよ。じゃあ凪、そろそろ裏口まで来て。昨日の打ち合わせで話した道ちゃんと覚えてる?〉


「うん、待ってる間も確認したから大丈夫」


 立ち上がり、乱れた髪を少し整える。


〈あの……凪くん。気をつけて。危なくなったら迷わず逃げて〉通話越しのマナが心配そうに言う。


「心配いらんよ。こいつは意外とつええ」星野が言う。意外と……?


「まあ任せて。晴香のサポートもあるから大丈夫」マスクを着け、個室のドアを開ける。「じゃあ行ってくる」


「おう。なんかあったら呼べ」星野はひらひらと手を振った。


     *


 カラオケの入った雑居ビルを出る。強い日差しに、凪は思わず目を細めた。


 建物脇の裏路地に入る。道は細く、人が一人通るのがやっとだ。

 道の先に寝そべる野良猫と目が合う。猫はこちらを警戒し、近づくと足早に逃げてしまった。

 しばらく歩き、少し幅のある道に出る。人通りはなく、両サイドは高い建物に囲まれていて日が入らない。


 辺りを見回すと、目的地の裏口らしきドアがすぐに見つかった。ポケットから端末を取り出してカメラを起動し、通話チャンネルに映像を流す。


「多分着いたと思う、このドアで合ってる?」カメラにドアを映す。

〈うん、あってる〉マナが応答した。

〈準備できたね〉晴香が言う。〈今バックヤードから人を追い出すからちょっと待ってて〉


 その言葉の後で、コトコトという独特の打鍵音が通話音声に入った。


 携帯端末の画面上に表示されている建物内の映像のうち、一部区画のものから明かりが消える。グリーンの非常灯のみが僅かにその空間を照らす。

 ほどなくして、照明が生きている廊下の映像に数人の人影が横切った。中年の男が一人、おそらくhIEと思われるエプロンを来た女性が一人。


〈人がいなくなった。入ってきて!〉晴香の声と共に目の前のドアノブからカタンという音が響く。鍵を開けたらしい。


 ドアを開けると、晴香のフクロウが出てきて凪の肩に乗った。


「おまたせ」


『バックヤードのカメラ映像は全部上書きしてある』フクロウのスピーカー越しに晴香が言う。『アカネちゃんのいる待機部屋は二階。正面のドアを開けると左手の先に階段があるからそれを上って』


「わかった」


 いよいよ突入だ──握りしめた手に汗が滲む。


『こっからは時間との勝負よ。さあダッシュ!』

「よし!」


 凪は地面を蹴った。


 流れるように事務室へ入り、正面のドアを抜ける。誰もいない廊下を左へ進み、突き当りの階段を一段飛ばしで駆け上がる。

 窓から射す光が踊り場に陽だまりをつくっていた。手のひらを顔にかざしながら二階へ視線を向ける。


『こっち!』


 晴香のフクロウが肩から飛び立って先導する。羽根の隙間から漏れた窓の光がいくつもの束となって降り注ぐ。彼女は音のしない翼で泳ぐように進み、ドアノブに留まった。

 それを追いかけて二階まで駆け上がる。ドア前に立つとフクロウは再び肩の上に乗ってきた。


 この向こうにアカネちゃんがいる──凪ははやる気持ちを抑えるため、静かに深呼吸した。


『私が先に入って中を確認する。少し開けて』


 晴香の言葉に頷きで応答する。

 静かにノブを回し、少しだけ扉を開ける。フクロウが隙間から中へ入っていく。


『アカネちゃん! 私だよ! マナだよ!』


 部屋の中からマナの声がする。フクロウの音声が切り替わったようだ。


〈大丈夫。凪、入ってきて〉イヤホン越しに晴香が言う。


 部屋に入る。窓際のパイプ椅子に、一人の少女が腰掛けていた。

 学生服のような衣装を着た華奢な体。その肩まで伸びた、艷やかな黒髪。マナと同じ造形の横顔。その輪郭は、窓からの淡い光によって柔らかく縁取られていた。

 少女はぼんやりとした目つきで、膝の上に乗ったフクロウを眺めている。


「……マナちゃん? 帰ってきてくれたの? なんだかすごくかわいい姿になったね」


 アカネの手がフクロウの頭を撫でる。


『置いてけぼりにして本当にごめんね……。今日はアカネちゃんを助けに来たの』マナの声は少し震えていた。


 のんびりはしていられない。早くアカネを連れて外に出なければ。


「僕と一緒にこっちに来て! 今なら逃げられる」


 アカネはゆっくりとこちらを向き、真っ黒な瞳でじっと見つめ返してきた。左目には眼帯をしている。

 背筋に一瞬の寒気が走る──その少女は確かにマナと同じ造形をしているのに、何故かずっと人形めいて見えた。こちらを見据える右目が、ただの硝子玉にしか見えなかった。


「逃げる?……どうして?」アカネが口を開く。


 口調がおかしい。まるで小さな子供が母親に質問しているような感じだ。


『どうしてって、こんなところにずっといたら殺されちゃうよ! お客さんにひどい壊され方をしたの忘れちゃったの?』フクロウ越しにマナが語りかける。


 アカネが膝上のフクロウに視線を戻す。


「……あれは私がいけないの。私がおじさんの言うことをきかなかったから」


 叱られて落ち込む幼い子供のような口調。開いた瞳孔。お面のように張り付いた無表情。様子が明らかにおかしい。


「マナちゃんがいなくなって、おじさんすっごく怒ってたよ。どうして逃げたりしたの? マナちゃんも叱ってもらわないと」


 アカネの手が膝上のフクロウを掴もうと素早く動く。その動作は少しギョッとするほど乱暴で、弱々しい口調とのチグハグさも相まってかなり不気味に見えた。

 フクロウは間一髪のところで飛び立ってその手を躱し、さっとこちらの肩に戻った。


『アカネちゃんどうしちゃったの?』マナが不安そうに問いかける。『一緒に逃げようって約束忘れちゃった?』


「私がいなくなったらおじさんが困っちゃうよ。おじさんに嫌われたくない」


〈凪! 悠長に説得してる時間はないわ! 強引にでも連れてきて!〉施設のカメラで店内を監視している晴香が警告する。


「私はマナちゃんのこと怒ってないよ。ちゃんと罰を受けて、また私と一緒にいて……」アカネの声が縋るような涙声に変わっていく。「ひとりにしないで……」


「落ち着いて!」アカネに駆け寄る。「マナもアカネちゃんも、もうこれ以上傷つく必要はないんだよ。お願いだから僕と一緒に来て!」


 もう時間がない──凪はアカネの腕を掴み、その体を強引に引き寄せようとした。


「やめて! 離して!」


 アカネが立ち上がって身をよじり激しく抵抗する。揉み合う体に弾かれたパイプ椅子が派手な音を上げながら倒れた。

 振り回された彼女の腕がペンスタンドにぶつかり、中に入っていた様々なものがガラガラと音を立てて机に散らばる。彼女の指先がそれをまさぐり、散らばったものの一つを掴む。

 カチカチという聞き覚えのある音──思うより先に体が反応して、アカネの手を離し反射的に身を引く。直後、目の前でカッターナイフの軌跡が弧を描いた。


〈凪!〉イヤホン越しに晴香が叫ぶ。


 間一髪で刃を躱したものの、バランスを崩してその場に尻餅をついた。アカネがその脇をドタバタと通り抜けて出口へ向かう。


「……大丈夫!」


 上体を捻ってアカネの姿を確認する。部屋を出る彼女の背中をかろうじて視認できたところで、ドアがバタンと勢い良く閉じられた。痛む腰に手を当て、立ち上がる。


「おじさん!」扉の向こうでアカネが叫んだ。「マナちゃん帰ってきた! はやくこっちにきて!」


 サッと血の気が引く。もう一階に戻れない。出口が塞がれた。


『これは……マズいな……』フクロウのスピーカー出力が晴香の音声に戻る。

〈凪くん本当にごめんなさい! 私のせいでこんなことに!〉イヤホン越しに、取り乱すマナの声。


 心臓が速く鼓動を打っていた。手をあててそれを落ち着けながら、何かできることはないかと辺りを見回す。

 ふと、通り抜けられそうな窓が視界に入った。駆け寄って地面までの高さを確認する。飛び降りる想像をすると少し背中がぞくりとしたが、上手く着地すれば痛いだけで済むかもしれない。


『ちょっと、何考えてんのあんた!』晴香は考えを察したようだ。

「一回窓から逃げて仕切り直そう。大丈夫、いけるよ」

『バカ! 怪我してそのまま捕まるわよ』


 想像以上に強く反対されてしまった。かといって他にこの場を切り抜ける方法も思いつかない。


「平気だって! これぐらいの高さなら昔飛んだことあるし」


〈中学の時のアレか!?〉星野が慌てて会話に入ってくる。〈あの時は地面が芝生だっただろ! 今俺が向かってるからちょっと待っとけ!〉彼の音声には走る音が混ざっていた。


『そうね、飛び降りるにしても星野の到着を待って! それまでなんとかして時間を稼がないと──』


 ドスドスと階段を駆け上がってくる音。凪とフクロウは会話を止め、その方向を振り向いた。


〈その部屋、確か内鍵がかかるはず! 凪くん!〉


 マナの助言に、急いでドアノブへ視線を向ける──あった。


「ほんとだ! ありがと!」


 ジャンプするようにドアに駆け寄り、内鍵を掴んで回す。ほとんど同時にドアノブがガチャガチャと音を立て、慌てて窓際へ戻る。

 ドアをドンドンと叩く音が部屋に響き、間もなくそれが強い力で蹴る音に変わる。

 衝撃で空気が揺れるたび、体が強張る。ここまでか──凪は女装姿で警察に突き出される自分の姿を想像した。


〈凪! 降りてこい!〉


 聞き覚えのある声に気づき窓を開けて外を見ると、真下でホストにしか見えない男が手を振っていた。


「星野!」


 逃げられる──突然現れた突破口に高揚する気分を、フル稼働中の心臓が全身に押し流す。

 興奮に震える手で窓のフレームを掴む。飛ぶことの恐怖感はもう分からない。


『マジでほんと気をつけてよね!』なぜか晴香の方が泣きそうになっている。

「心配しすぎ!」


 凪は窓に足をかけて乗り越え、そのままの勢いでジャンプした。全身で受ける風。脳を興奮で水浸しにする、寸刻の無重力──


「うわっちょっ!」


 星野の焦った様子に、予備動作無くいきなり飛び出したことを空中で反省した。しかしもう飛んでしまったものは仕方がない。できるのは無事に受け止められることをただ祈るだけだ。


 星野に抱きかかえられる。腕の中で落下の勢いが緩やかに吸収される。

 ナイス!──そう思ったのも束の間、凪を受け止めた星野の体は、勢いを殺しきれずそのまま後ろに倒れた。


「痛え! アホ! 合図ぐらいしろ!」コケて下敷きになった星野がキレる。

「あっごめん……」


 上体を起こす。バクバクする心臓に手をあてて全身を震わせる興奮を抑えようとするも、碌な暇も与えられないまま、二階からドアの蹴破られる音が響いた。


〈人が来た! 顔見られる前に逃げて! こっちはなんとかして時間を稼ぐ!〉晴香が言う。彼女のフクロウはまだ部屋の中だ。

「なんとかって何だよ!」星野がツッコむ。


 直後、窓の方からバリバリという異音がした。同時に響く男の叫び声。

 間もなくして、フクロウが窓から飛び出した。


『ボサッとしてんな! 走れー!』フクロウの姿をした晴香が叫ぶ。


 それに追い立てられるようにして、凪たちは路地の影に逃げ込んだ。

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