14
炎天のもと、これ以上屋外で話し続けるのは限界だった。
晴香と校舎の中へ戻る。冷たい空気が心地よい。
校舎内の通路には誰もいなかった。授業が始まったためだ。
清潔に整備され、それでいて人の気配がない廊下。空調によって適温に保たれた人工的な空気。窓から差し込む青色をした夏の日差し……二人の足音だけが、その空間を反響する。
晴香が物置になっている空き教室を見つけ、二人で中に入った。
扉を閉め、鍵のつまみを引き上げる。密室の生まれる音が二人きりの空間にバチッと響く。
もともと広くない室内は、教材の置かれた棚によって更に狭くなっていた。晴香は少し埃っぽい部屋の奥で、窓際の壁に背中を預けながらカーテン越しの陽を片側の頬に浴びている。
「何? 話って」
「あのね……」晴香はなぜか
「どういうこと?」
「あんたがそこまでマナの力になろうとする理由は何? 単に可哀想ってだけで無条件にそこまでする?」
そう聞かれ、ようやくこれまでの行動が他人にとって不自然なものなのだと自覚する。
困った。マナへの感情についてはまだ自分でも整理しきれていない上に、誰にも立ち入ってほしくない事柄を含んでいる──いつもならはぐらかしているはずの、弱い、醜い、恥ずかしい自分。
ちらりと晴香の目を見る。
壊れやすい、けれど大切なものを見つめるような瞳。自分は脆い硝子細工か何かに見えているのだろうか。
二人だけの密室で向けられるその真っ直ぐな視線に、秘密を曝け出して楽になりたいという気持ちが湧いてくる。同時に、結局晴香に
──どうして晴香は、こんな僕をそこまで大切に思うのだろう。
「……君に隠してもしょうがないか。前に、昔の恋人の話をしたことがあるよね」
「……うん、チカちゃんのことね」晴香の表情には微かな動揺が見えた。
次の言葉を口に出そうとしたところで、目眩がそれを邪魔する。
響く耳鳴り。手先が冷たく痺れて感覚が消えていき、冷や汗が体温を奪っていく。血管に氷水を注射されているようなその感覚に耐えながら、言葉を絞り出す。
「マナは、似てるんだ……チカに」
チカの丸くて優しい声の響きを思い出す。いつも少し潤んでいた、嘘の通じない瞳を思い出す。
「顔がとかじゃない。そばにいる時の気配とか、見つめられた時の感じとか……。名前を呼ばれた時、背筋がぞっとしたんだ」
彼女のくせっ毛を手のひらで掴んだ時の感触を思い出す。控えめな態度に隠れていた、どうしようもなく壊れた一面を思い出す。
「あたしは会ったことがないから分からないけど。そっか、あんな感じなんだ」晴香は表情を変えずにこちらを見つめている。
「チカを見捨てたことを、僕はあの日から今日までずっと後悔し続けてきた」
「その話はしなくていいよ」
話すのを遮るように言葉を被せられる。その反応の過敏さに、晴香も緊張しているのだと分かった。以前彼女に告白された時、チカにまつわる自分の過去について少し話したからだろう。平気なように見せて、内心地雷原を歩くような心地で話しているのかもしれない。
あの少女にチカを重ねる自分は、彼女の瞳にどう映っているのだろう。以前晴香は言った──マナを人間として認めるかどうかは保留する──と。風俗店のダッチワイフに昔の恋人の面影を重ねる自分が他人の目にどう映るかなんて、考えるまでもない。
「……こんなこと言ったら晴香は笑うだろうけど、彼女を助けることで、僕はもう一度あの日をやり直したいんだと思う」
今ここで彼女に幻滅されるなら、それもいいか──そんなことを考えながら思いを打ち明けた。
しかし彼女は少しも表情を変えず、真っ直ぐこちらを見つめて言う。
「笑わないよ。それであんたの気持ちにケリがつくなら、あたしはいくらだって力を貸す」
彼女が引かずに距離を詰めてきたことが怖かった。いっそいつものようにバカにして、この場限りの気まずい話にしてくれればよかったのに。
「優しいね、晴香は」
「……これは優しさじゃないよ」
その声色は微かな憤りを帯びていたが、気づかないふりをした。
少し埃っぽい物置代わりの教室で、彼女と二人きり、心の壁際でお互いを見合うような沈黙が流れる。
このまま踏み込まれ続けるのは癪だ。こちらが一つ曝した代わりに、彼女にも一つ曝してもらおう。
「──あのさ、晴香も僕らに話してないことがあるよね」
いきなりこちらが話しだしたからか、晴香は少し驚いたように目を見開く。
「晴香は昨日『マナの制御系の出処が知りたい』って言ってたけど、その理由は誤魔化してた。それが引っかかっててさ」
「ああ、そのことか。別になんでもない話よ」
やはり晴香はあまり話したくないようだ。なんでもない話でここまで危ない橋を渡ろうとする彼女ではない。
「せっかくだから、今このタイミングで晴香の話も訊いておきたいな。もし話してくれるなら」
互いの信頼のために訊いたつもりだった。しかしその質問を口に出した後で、彼女と秘密を交換することで特別な結びつきを得ようとしている自分に気づく。
長い無言の後、晴香は口を開いた。
「……それが、父の無実を証明することに繋がるかもしれないから」
彼女が話を躊躇う理由に得心がいった。同時に、今から彼女の心の地雷原を歩くことになるのだと悟る。さっきと全く逆の立場になってしまった。
「あたしはね、十歳の時から両親に会ってないの。ある一つの事件があって、そのときに母が死に、父は逮捕された」
おぼろげに晴香の両親についてそのような事情があることは知っていたが、これまで深く詮索しなかった。
ここから先は初めて聞く話だ。彼女の目を見て軽く頷き、続きを話すよう促す。
「母の遺体は、頭部が散弾によって破壊された状態で見つかった。あたしの父が母を殺して林の中に遺体を隠したらしい」
「そっか……でもお父さんの無実を証明したいっていうことは、晴香はそれを信じてないってことだよね」
「うん。もちろん、なんの裏付けもなしに父の無実を信じてるわけじゃない。その事件があってすぐ、あたしは父の使っていたマシンから、母が父に宛てた音声のメッセージを見つけたの。母はその音声の中で、誰かから逃げながら、父に身の安全を確保しろと伝えていた。メッセージの送信日は、母の命日」
「なるほど。お父さんは犯人ではなく、逆に標的になる立場だったかもしれないのか……」
そこまで話して、一つの疑問が浮かぶ。
「ちょっと気になったんだけど、そのメッセージは無実を示す証拠にならないの?」
「メッセージは大学のサーバーに保存されていたもので、父のマシンには残っていなかった。その時あたしはまだ小さかったから、父と仲良しで家にも出入りしてた研究者にそのメッセージを捜査資料として提供するよう頼んだんだけど、子供の話だと聞き流されたかもしれない。あたしが再度メッセージを確認しようとした時には、大学のサーバーから父のアカウントが消えていて、データは全て消去されてたわ」
「そっか、なんだか惜しいな」
晴香は少し乾いた笑いを浮かべ、話を続ける。
「それから父の無実を証明するために、今まで事件の真相を調べてきた」
彼女は悪戯っぽく微笑んで「人に言えないようなことも沢山やったわ」と付け足す。
「その過程で、あたしはある企業と反社のやりとりの中から一つの依頼が記された文書を見つけた。概要は『自律機の制御系が対象の人間の神経頭蓋内部に取り付けられている。そのハードウェアを確保した後、残った人間の体を警察に見つかる形で指定の場所に遺棄せよ』」
一度その説明を聴いただけでは上手く状況が飲み込めず、何度か言葉を頭の中で反芻する。
「……ん? それってどういう状態? 人間の頭の中に機械が入っていて、それを確保しろってこと?」
「そういうこと。その機械が対象の人間の体を維持、制御しているという記述もあった」
「なんだか信じられない話だけど、まあ一旦それを事実だと認めるとして……で、その脳の代わりをしている機械を抜き取ると体が余るからそれを指定された場所に遺棄しろと。わざわざ警察に見つかるような形で……何のために?」
「多分、この脳の代わりをしている不思議な機械の存在を秘匿し、単なる殺人として捜査を終わらせるため。父にその罪を被せた上で」
「え?」
晴香の言葉が上手く飲み込めない。彼女の父親の話とこの話がどう繋がるんだ?
「その遺体を遺棄するのに指定された場所は、母の遺体が見つかった林と同じ……この文書中の〝対象の人間〟はあたしの母よ」
「……そういうことか」
晴香が軽く頷く。
「脳の入出力を模した機械はいくらでもあるし、実際に脳の欠損した部分を機械に置き換えて生きている人だっている。ただ、成長した連合野も含めた脳全体の機能を再現して、生きた人体を操ることに成功した例をあたしは見たことがない。利用が厳しく制限されている
いつのまにか日差しの角度が変わり、晴香の姿は逆光によって柔らかい光に縁取られている。
「でも多分、マナの制御系ならそれができる。その出処は、母の最期に関わっているかもしれないの……あたしがマナの制御系の出処を探ろうとしているのは、それが理由」
校舎の一角につくりだした密室で、二人は秘密の交換を終えた。
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