12

 一番古い記憶は、意識だけが真っ暗な生暖かい空間の中に浮かんでいるような感覚。


 体を自分の意志で動かすことはできなかった。力を込めることができないっていうよりは、動かし方を忘れちゃったような感じ。


 しばらくその暖かさのなかでぼーっとしてたら、急に辺りの景色が色々な場所に切り替わりはじめた。丁度歩くリズムぐらいのスピードかな。ポン、ポンって感じ。


 誰もいない海辺。狭い部屋で雑魚寝する人たち。壁いっぱいに白黒のボーダー模様が入った部屋。裸で絡み合っている男女。逆さ吊りで首から放血する牛。目鼻の配置や大きさがおかしい沢山の顔──目を逸らしたくなるようなものも沢山あったけど、まぶたを閉じることも目を逸すこともできなくて、私はただ景色が切り替わっていくのを見てた。


 そこで一度意識が途切れて、気づいたらあのお店の部屋にいたの。


 目の前には通話してる知らないおじさん。隣に同い年ぐらいの黒髪の女の子。

 部屋の奥の大きな姿見に、隣に座っている女の子と全く同じ顔の自分が映ってた。違うのは髪型だけ。


「今日からお前たちはここで働くんだ。宜しく頼むよ」


 通話を終えたおじさんは私たちにそう言った。これがどういう意味か知ったのは、その日の夜。


 おじさんは私のことをマナ、隣りにいた女の子のことをアカネって呼んだ。


 私たちが言うことを聞かないとき、おじさんはあるお仕置きをする。私とアカネちゃんはそれを〝ビリビリ〟って呼んでた。

 事務室の机には二つのスイッチがしまってある──ひとつはわたし用で、もうひとつはアカネちゃん用。それを押されると、首の後ろから全身にかけて気絶するほど強い痛みがビリビリと走るの。

 私たちは逆らえなかった。おじさんがとても怖かったから。


 それからの日々のことは……ごめん、あんまり喋りたくない。必要なことだけ話すね。


 嫌なことは本当に……本当に沢山あった。でも、あそこから逃げ出す一番の理由になったのは、暴力。

 お客さんには乱暴な人も多かった。体のどこかを壊されるなんてしょっちゅう。『いつか頭まで壊されて死んじゃうのかもしれないな、いっそその方が楽かも』なんて思いながら過ごしてた。先週のある日までは。


 その日アカネちゃんは気を失って、おじさんに引きずられながら待機部屋に帰ってきた。


 一番最初に気づいたのは、顎が閉じなくなってだらんと長く伸びていたこと。前歯はなくなってて、鼻は潰れてた。きっと顔を沢山殴られたんだと思う。でも一番痛々しかったのは、左目が抉られてなくなっていたこと。


 アカネちゃんのそんな姿を見たら、もう『壊されて死んだほうが楽』なんて思えなくなっちゃった。

 体がそんな状態になっていても、アカネちゃんの頭の中身は無事だった。生きてるほうがつらいっていうぐらいの状態なのに、アカネちゃんは死ぬことができなかった。


 このことがあって、私はアカネちゃんを連れてお店から逃げ出すことを決めたの。


     *


 私たちは顔だけじゃなくて、性格も仕草も何もかもがそっくり。でも違うところもある。私にはできて、アカネちゃんにはできないことがあった。


 それは、ここではない〝もう一つの世界〟を感覚すること。


 この世界をそっくり写し取ったような、まるで鏡の国みたいな場所があるの。現実と同じように沢山の物があって、人がいて、hIEがいる。そして私は、そこにもう一つの体を持ってる。

 出会う景色のほとんどは、現実の世界を正確に写し取ったものだった。でもたまに、でたらめなイメージを継ぎ接ぎしたような場所もある。なんとなく、人が多い場所ほど再現が正確だった気はするかも。でも、いつもそうってわけでもない。


 私はその〝もう一つの世界〟の中を自由に歩き回ることができる。でもそこにある物に触ることはできないし、声を上げても、そこにいる人たちは誰一人私に気づいてくれない。ある例外を除いて──


 その世界にいるもののなかで、hIEだけは私のことを認識してくれた。


 二つの世界のhIEの動きは完全に連動していて、もう一つの世界あっち側のhIEに私が挨拶すると、現実こっち側のhIEも挨拶を返してくれる。たとえ現実のその場所に私がいなくても。


 この力を上手く使えば、どうにかお店から逃げ出すことができるんじゃないかって思った。


     *


 私は逃げる方法を思いついたけど、なかなかそれを実行に移せなかった。失敗したときのことが怖かったから。

 でも昨日の夜、アカネちゃんを壊したお客さんが私を指名した。多分顔が同じ女の子がよかったんだと思う。

 その人に自分の体が壊される想像と、潰れた果物みたいにされたアカネちゃんの顔で頭がいっぱいになった。優しそうなその人の目が、怖くて怖くてたまらなかった……。今逃げないと死ぬか、それよりももっと辛い目に遭う。そう、思ったの。


 私は〝もう一つの世界〟にある体を使って、お店の近くにいた警備用hIEに嘘をついた。『ロビーで刃物を持って暴れてる人がいる。今すぐ止めてほしい』って。


 ロビーが大騒ぎになれば、バックヤードが手薄になって事務室から人がいなくなる。私はその隙をついてビリビリのスイッチを盗んだあと、そのままアカネちゃんを連れて裏口から外に逃げようと思ってた。


 〝もう一つの世界〟にある体でロビーの中の様子は確認できた。私の計画通り、警備用のhIEが何人も入ってきて大騒ぎ。おじさんもバックヤードから出ていった。


 現実の世界の私は接客中だったけど、騒ぎの音は客室の入口まで響いてたから、様子を見るふりをして廊下に出られた。まずビリビリのスイッチをどうにかしなきゃと思って、急いで事務室に走ったわ。バスローブを羽織っただけで、髪も濡れたまま。


 おじさんはいつも同じ場所にスイッチをしまっていたから、盗み出すのは簡単だった。


 あとはアカネちゃんを連れて外に出るだけ。私はアカネちゃんのいる待機部屋に行こうとした。……でもそのとき、廊下の向こうからおじさんの話し声が近づいてきたの。


 アカネちゃんを置いていきたくなかった。でも、助けられなかった……。


 結局、私はアカネちゃんを置き去りにしたまま、事務室にある裏口から外へ逃げ出した……凪くんに出会ったのは、その少し後。


     *


「これが、私の一番古い記憶から昨日の騒ぎまでの顛末……」

「……」


 かける言葉が思いつかず、つい黙り込んでしまう。


「ここまで話してくれてありがと。だいぶ現状が整理できたわ」こんな話のあとなのに、晴香の口調はびっくりするほど淡々としていた。「その〝ビリビリ〟のスイッチ、多分うなじに埋め込まれてるブレーカーを作動させるやつだと思うんだけど、盗んだ後どうしたの?」


「バスローブと一緒に……地下街の便器の中」


「なるほど、まあしばらくは見つからないか。でも念の為に後で使えなくしとこう。ソフトウェア制御のものじゃないから、切って機械自体を取り出す必要があるけど」


「ありがとう……。すごいな、晴香ちゃんは。本当になんでもできるんだね」


 マナの表情にはどこか自嘲の色があった。友達を助けられなかった自分と晴香を比べているのだろうか。


「それにしても、やっぱり昨日の花道通りの騒ぎはマナが起こしたものだったのね。ヒギンズにクラッキングできるなんて……一体どうやってるんだか通信の中身を調べてみたいわ。それはそれとして、しばらくはその能力、絶対に使っちゃダメ」


「えっ……どうして?」


「今まで自覚は無かっただろうけど、あんたがやったのはhIEの動作を管理しているシステムへの不正アクセスによるデータの改竄。足がついたらあたしたちはあんたを守れない。だから、少なくともその能力がどうやって実現されているのか確認できるまでは、むやみに使ってほしくない。もっとも今あんたの繋いでるAPからはグローバルに出ていけないから、その力は使えないだろうけど」


「えっ?」マナがぽかんと口をあけて一瞬固まる「……あっ、本当だ」


「だから試しちゃだめだって」晴香が少し呆れたように笑う。


「ああ、ごめんなさい……」


「今みたいに無意識で使っちゃうこともあると思うし、知らず知らずのうちにこっちから情報を送信するようなことがあると怖い。だからしばらくは外部のネットワークに接続できないようにしておきたいんだけど、それでもいい?」


「うん、大丈夫。そもそも今まで自分の頭がどこかに接続してることすら知らなかった。もう一つの体が使えなくなる事以外、私にとって何かが変わることはないと思う」


「オッケー。じゃあ、そうしておくわ」


 そこで一度会話が途切れた。しかし、マナはまだ何か言いたそうに晴香の様子を気にしている。


「あの……」マナは申し訳なさそうに、躊躇ためらいながら話し始めた。「こんなにいっぱいよくしてもらって、さらにこんなこと頼むのは烏滸おこがましいと自分でも思うんだけど……」


「アカネちゃんを助けたい?」マナの言葉を予期していたように晴香が言う。


「……うん。でも、私一人ではもうどうすることもできないから……手伝ってほしくて」


 縋るような気持ちと、断られても仕方ないという諦めの気持ちが混ざったような声。


「いいわ」その言葉を待っていたとでも言うように、晴香は口角を上げた。「ただし条件がある。あのお店の間取り、出入り口の位置と鍵の仕組み、あとできればカメラの位置──これらについてマナが知ってる限りの情報を教えてほしいの」


 まるで言葉を用意していたかのような淀みのない口調。マナにもそんな晴香の返答は意外だったようで、感謝よりも驚きの感情が顔に出ていた。この少女は声が小さい代わりに、表情で沢山のことを物語る。


「えっ、そんなこと……? もちろん教えるよ。でもどうして、そんなに簡単に引き受けてくれるの?」


「あんたの制御系の出処を調べたい。だからあの店の通信を傍受したいんだけど、店に出入りする通信の暗号を破るのは大仕事。でも、マナに協力してもらえれば無人機を店内に忍び込ませて直接ネットワーク機器に細工できる。だから、もしマナがあたしに協力してくれるなら、あたしもマナの頼みを聞いてあげる」


「本当にありがとう……でも、どうしてそんなことが知りたいの?」


「……その話はまた今度ね。話すと長くなるから」


 晴香の返答には間があった。何か話したくない事情があるのだろうか。


「わかった。とにかくありがとう」


 マナはあどけない笑顔をぱっと咲かせた。眩しすぎる。履歴書の特技欄に『笑顔』と書いてもいいぐらいだ。

 ふと、無言になってしまった晴香に違和感を覚え、ちらりと顔を見た。頬をほのかに赤らめ、マナから目を逸らしている。照れた? よりにもよってこの晴香が? 凪は思わずその顔を二度見してしまった。


 マナにはその気弱で臆病な振る舞いに反して、意外と侮れないところがあるようだ。

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