11
凪は誰もいない自宅に帰って着替えを済ませると、少し急いで晴香のもとへ向かった。
家の前に到着する。あらためて外観をまじまじと眺めるが、やはり倉庫にしか見えない。玄関へ近づくと金属のぶつかる音がコツンと鳴り、自動で解錠した。
そのまま入るのはなんとなく抵抗があり、インターホンを押してしばらく待つ──が、誰も出ない。おそらく晴香は寝ているのだろう。
中に入ってドアを閉める。外の音が完全に遮断される。
「おじゃまします」
少し天井の高い玄関に凪の声だけが響く。返事はない。
リビングに入り、荷物を下ろしながら中を見回す。
ソファーにはマナが横たわっている。今朝ここを出たときと同じポーズのままだ。
キッチンカウンターの奥のドアに目をやる。晴香はそこを寝室だと言っていた。
「晴香ー。上がってるよー」近づき、軽くノックをする。
扉の向こうから晴香の声。何かもごもごと言っているが、内容が聞き取れない。
「……起こしてごめん。僕は適当にやってるから、自分のタイミングで起きてきて」
彼女は短く呻き、それっきりまた静かになった。
寝不足なのはこちらも同じだ。ソファーで横たわるマナの隣に腰掛け、少しでも頭を休ませるために目を瞑る。
二十分ほど経った頃だろうか、微睡みの意識にドアの開く音が割り込んだ。
「ふぁ……いらっしゃい。待たせて悪いわね」晴香が欠伸を噛み殺しながら寝起きの掠れた声で言う。
「いや、僕もちょっと寝ちゃってたから」
彼女の部屋着を初めて見る。ダボダボのTシャツがドルフィンパンツの大部分を隠していて、そこからすらりと脚が伸びている。背が高めの彼女の肌はその服装でやけに目立っていて、少し目のやり場に困った。
シャツには何かのキャラクターがコミカルに描かれている。五つの目、長い鼻、緑色の肌……エイリアンだろうか? どこに売ってるんだ。
それはそれとして……。
「めちゃくちゃ具合悪そうだね」まるで今土から生えてきたような晴香の顔色にコメントせずにはいられなかった。
「寝起きはほんとダメ……もうちょいゆっくりしてて。ちょっとシャワー浴びたい」彼女の視線がゾンビのように洗面へ移る。
「分かった。寝てたら起こして」内心笑いを堪えつつ、もう一度目を瞑る。
限界のようだ。意識が眠りの底に急降下する。
壁を隔てた向こうの空間で水が流れる音を聞きながら、凪は眠りに落ちた。
*
晴香は眠ってしまった凪を起こさなかった。凪は十九時を回ったところでようやく目を覚まし、そこからマナの再起動が始まった。
ソファーで凪の隣に横たわっていたマナの目がパチリと開く。
「……うわっ! すみませんちょっと立ちくらみみたいになっちゃって。あれ? いつ着替えたんですか?」
目覚めたマナが慌てて起き上がる。小さな頭の上で寝癖があたふたと揺れた。
「ごめん、ちょっと制御系を止めさせてもらったの」机に向かっていた晴香が椅子を回転させてこちらを向く。「あんたは今十数時間ぶりに目が覚めた所。一瞬意識が飛んだような体感しかないかもだけど」
「……制御系を?……十数時間?」
マナはぽかんとした顔でぽつぽつ言った。説明を飲み込めていなさそうだ。
「あんたの制御系を調べさせてもらったの」
その言葉から数テンポ遅れて、マナの表情が緊張で強張る。
「安心して」晴香も不安を察したらしく、少し口調が優しくなった。「あんたの頭の中にあるものの特異性を、あたしはちゃんと分かってる」
マナはまだ不安と緊張の入り混じった視線を向けている。晴香は椅子から立ち上がり、ゆっくりとマナの座るソファーに近づいた。
「あたしはマナを一人の人間と認める。あんたには聞きたいことがいっぱいあるの」しゃがんでマナと目の高さを合わせ、手を差し出す。「だから、あらためてよろしく」
マナは手先に視線を向け、固まっている。
「……勝手に頭の中を覗いたのは本当にごめん」晴香の声も、少し緊張しているようだった。
少し間を置いて、マナは躊躇いつつも、ゆっくりと手を伸ばした。
触れる手先。震える指が晴香の手のひらを弱々しく掴む。そんなマナを安心させるように、晴香がぎゅっと握り返す。
そうした言葉のない会話の後で、マナは突然眉間と口角を歪めた。迷子の子供が親を見つけたときのような表情。彼女はそれを隠すように、手を繋いだまま体を丸めて顔を伏せる。
小さな背中が微かに震えていた。晴香はマナの頭を肩にそっと抱き寄せ、ささやくような声で、
「あたしたちはまだあんたのことをほとんど何も知らない。きちんと信頼して付き合うために、あんたのことをちゃんと聞かせてほしい。いい?」
「……はい」マナは体を起こしたが、
「聞きたいことは沢山ある」晴香の言葉はゆっくりだ。「あんたの魂がどこで生まれて、これまでどんな日々を過ごしてきたのか。どうしてあのお店で働いていて、なぜ逃げることになったのか。昨日の夜の騒ぎを、なんのために、どのようにして起こしたのか」
マナは伏し目のまま、小さく頷いた。
「……でもそのまえに、ちょっと一つだけお願いしていい?」突然晴香が
「なんでしょう……?」
「あのさ、できればなんだけど、さん付けとか敬語とかやめてほしくて……無駄に距離をつくる感じがしてちょっと苦手」
「? べつにいいです……いいけど、なんだか変わったお願い……だね?」
意外な頼みごとに戸惑っているのか、マナの喋り方が少しおかしくなった。そもそも年上と話すときに敬語を封じられるのはやりづらいだろう。凪はマナに少し同情した。
──まぁでも、そういうことなら。
「僕からも同じお願いしていいかな」
「えっ……えぇ?」
若干申し訳ないと思いつつも晴香に便乗する。なんとなく、三人で会話するときに自分だけ敬語を使われるのは居心地が悪そうだったからだ。
マナは少し戸惑っていたが、やがて顔を上げ、
「……わかった。晴香ちゃんに──」
視線がこちらを向く。
控えめな雰囲気と不釣り合いに華やかな目元。その瞳に見つめられながら、思う──やはり彼女のことを、以前から知っているような気がする。
喉の奥に小骨が刺さったような既視感をやりすごしながら、彼女に話しかけられるのを何気ない気持ちで構える。
「──凪くん、だね?」
ぞっとするような感覚が背筋を駆け抜けた。
──まるであの子に呼ばれたような、その響き──
名前を呼んだその少女に似た〝彼女〟との記憶が、その時々の感情を伴って溢れ出す。
──鉄臭さに混ざった、自分の体液の臭い──
紫色にぼやける視界。足元がぐらつくような錯覚があった。首から上の肌がさっと冷たくなる。
──青白い頬を伝っていった、一筋の涙──
周りの音が遠ざかっていく。堪えた吐き気が冷たい汗となり、全身の毛穴からだらだらと吹き出す。
「──大丈夫……?」
強い耳鳴りのあとで、マナの呼びかけが聞こえた。少しびっくりするほど大きな目で、こちらの顔を心配そうに覗き込んでくる。
「……ああ、大丈夫だよ」込み上げてくる感覚を落ち着けるため、さりげなくマナから目を逸らした。
「……いやあんた本当に平気? 唇紫になってるじゃん」晴香も心配そうに話しかけてきた。
「うん、ちょっと気分悪くなっただけ。たまにあるんだ。すぐに治るよ」
なんでもない、という嘘は通用しなさそうだったので、それらしい言葉で取り繕う。しかしそんな試みも虚しく、マナも晴香もこちらを見たまま無言になってしまった。
「本当に大丈夫だから」無理やり笑顔をつくる。「そんなことより、マナの話を聞かせてほしいな。君が生まれてから、昨日僕に出会うまでのことを」
マナはしばらくこちらを心配そうに見つめていたが、やがてぽつりと話し始めた。
「……わかった。私が生まれたときのことは……ごめんなさい、覚えてないの。本当に最近のことしか思い出すことができなくて……その代わり、一番古い記憶について話すね」
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