9

 卓上の空間に投影された、幾つかのノードとその接続関係を示すダイアグラム。各ノードは上層、中層、下層の三層構造に配置されているようだ。


 晴香は下層のノード群を指差した。彼女の肩越しにそれを覗く。


「運動能力一般を司るモジュールは特に目新しいところのない凡庸なものね。hIEでも広く使われているオーソドックスな仕組み。その他、カメラやマイク等各種入力情報の処理や言語処理などなど、低次の各種機能を処理するモジュールについても特筆するべきものはなし」


「そこいらのヒューマノイドと変わらないありふれた仕組みってこと?」


「ここまで話した部分についてはね」晴香が微笑を浮かべる。「でもこれより高次の情報処理を担う機構については、ちょっと今まで見たことがないユニークなアーキテクチャだった」


 彼女は中層にあるただ一つのノードを指差し、こちらにちらりと視線を送ってきた。


「このノードは、今までの話で触れたいくつかの下位モジュールを、ヒトの中脳や各種一次野として扱うためのアダプターとして機能するもの」


「ごめん……ちょっと分かんない」


「これは例えば……脳卒中で脳の一部がダメージを受けてその機能を代替する機械を埋め込む必要があるときに、脳の信号と機械の信号とを相互に変換するものを想像してもらえば分かりやすいかな」


 最近見たドキュメンタリーを思い出す。事故で脳の一部を機械に置き換える羽目になった男性の話だ。


「なんとなく分かったかも」


「飲み込めたようでなにより。そしてそのノードのさらに上位に接続されていたのは……」


 彼女は視線を三層構造の最上位に向けると、躊躇ためらうように少しの沈黙を挟み、


「……医療用の副脳。あたしが使ってるのと同じ仕組みのものよ」


 突然の告白を上手く解釈できずにぽかんとしてしまう。この少女と晴香の頭に同じ機械が入っている?


「……どういうこと? いや、そもそも副脳が何か知らないんだけど。晴香の頭の中にもその機械が埋め込まれてるってこと?」


「半分当たりで半分ハズレ。副脳っていうのは、脳に接続して処理能力を増強させる機能を持ったインプラントのこと。あたしの場合はちょっと特殊で、脳に直接これが埋め込まれてるわけじゃない。インターフェイスだけが埋め込まれてて、その端子が耳の奥にあるって状態」


 彼女は机の上に置かれたヘッドホンのような機械を掴んでこちらに見せた。


「これでそのラックに乗ってる外部脳に接続するの。思考力にバフをかける必要があるときだけね」


「それヘッドホンじゃないかったんだ」


「さすがに音楽聴くのにわざわざ有線のヘッドホンなんて使わないわよ」


 蛇のように太いコードをヘッドホンに繋いで音楽を聴いていた友人を思い出す。彼はここにいないのにもかかわらず、なぜかヒヤヒヤしてしまう。


 まあそんなことはどうでもいい。


「そっか。まあちょっと面食らったけど、諸々分かったよ。マナの話の続きをしよう」


「そうね、では話を元に戻して──」


     *


「マナの副脳の各部位と、エミュレーションされた下位モジュールの論理的な接続状態を総合すると、そのトポロジーはヒトの脳にほぼ完全に対応してる。そこで、記憶能力と関連の深い部位に保存された情報の傾向を解析したところ、70%程度の実データの隙間を自動生成特有のパターンを持ったデータで補間しているような構造が確認できた」


 晴香の語気が少しずつ熱を帯びていく。


 何か大事な話をしているのだろうが、正直何が彼女をそこまで興奮させているのか分からない。仕組みが人間に近いということか? hIEとは何が違うんだ?


 半透明の脳のモデルが投影される。オレンジ色をした光の波が、その内部のあちこちを慌ただしく流れていた。


「ヒト用の脳活動ビジュアライザにこの子の制御系の信号を流しながら刺激を与えると、実際のヒトに対しての実験で確認されたものと同じ生理学的な特性を示した。ことさら重要なのは、植物状態の人間に意識があるかどうかを判定するためのシナリオの試験結果」


 光の波がスローモーションになる。


「このシナリオにいて、マナの制御系はコンシャスアクセスが発生したヒトの脳に特有の反応パターンを示した」


「……つまり?」


「意識がある人間の脳と同じふるまいを見せた、ってこと」


 晴香の頬は上気したように赤みを帯びていて、その表情は当惑しつつもどこか対象に惹かれ、高揚しているようだった。話に置いていかれているのを感じつつも、目を輝かせて話す彼女を止めることができず、静かにふむふむと相槌を打つ。


 そんな様子に気づいたのか、晴香はやってしまったという表情をちらりと見せて、


「……一旦ここまでの話の要点をまとめます。大事なのは、マナの制御系内で進行するプロセスの生み出すパターンが、人間の意識的な活動に付随して起こる脳活動のパターンと見分けがつかないってこと」


 持って回ったような言い方だ。


「マナは、人間の心を持ってるってこと?」


「モデル化された脳の入出力がヒトの脳と完全に同じであることと、心の存在が同義ならね。でもこれは万人に受け入れられるような仮定じゃない。だから、直ちにそう言えるほど簡単な話じゃない」


 その説明に少し引っかかる。晴香が『仮定』と言ったそれは、一般的な感覚として正しいと受け入れられるように思えたからだ。


「……うーん、言うほど突飛な仮定を置いてるようには聞こえないけどな。ある機械がヒトの脳と全く同じように動くなら、それは本質的に僕たちと同じ心を持ってると言っていいんじゃない?」


「説明が難しいけど、そうね……たとえばメチャクチャ精密な火災訓練のシミュレータの中であたしたちの学校が燃えていたとしても、本当に火事が起きてるとは誰も思わないよね。でもそれを認めるなら、マナはメチャクチャ精密な女の子のシミュレータだから、そこに本当に人間がいるって解釈するのはおかしいって話にもなるわけ」


 なんだか言葉遊びのようで、思わず少し笑ってしまう。


「いや、それは流石に、ただの屁理屈じゃない?」


「真面目に話してるの! マナの脳頭蓋の中で進行するプロセスとあたしたちの脳頭蓋の中で進行するプロセスの間にどれだけ対応があったとしても、その動作が形式的に記述できるものなら、彼女はただ単に形式的な手続きを淡々とこなしてるだけ。これって、あんたが屁理屈って言ったさっきの例えと違わないよね?」


「そういわれてみれば……たしかに……そうなるのか?」


 納得しかけたが、なんとなくまだ空中戦をしているかのようなフワついた感覚がある。

 顎に手をあてて考えを巡らせていると、さらに晴香が話題を切り出した。


「もっと言えば……例えばhIE──彼らの姿や振る舞いはあたしらとほとんど変わらない。あんたがしょっちゅうhIEと本当の人間を見間違えるぐらいにはね。でもhIEを人間として扱うことはない。どうして?」


「それは……みんながそうしてるから……?」


「浅っ! まぁでもそれが普通の感覚か……」晴香は遠慮がない上に人をバカにしたような態度を隠さない。


「はぁ? じゃあ晴香はどうなんだよ」


「hIEの動作原理を考えれば、そこに心がないとある程度納得できるからよ」


 投影されていた脳のモデルが消え、味わい深いイラストがごちゃごちゃと置かれたポンチ絵が表示される。上部には雲のイラストの上に鎮座する開かれた辞書が描かれており、その下でおそらくhIEを表しているのであろう無害そうな顔の人形たちが、それぞれさまざまな仕事に勤しんでいる。


「hIEに人間らしさ演じさせる仕組みを支えているのは、膨大な分量の人間の動作から抽出された行動データに基づく、置かれた環境に対応する適切な行動のマッピング情報。hIEは行動管理クラウドにセンサーで取得した環境情報を送信し、対応する適切な行動を受け取ってその通りに実行するだけ。例えるなら辞書を引いて言葉の意味を調べるのと同じ」


「……hIEに心と呼べるものが存在することを認めるなら、僕が使ってる辞書に心があることも認めないといけなくなるってこと?」


「そういうこと。まあ、個々の機体が置かれた文脈を織り込んだ適切な振る舞いの選択や、機体間の協調行動の実現で発生する組み合わせ爆発を上手く抑制するために超高度AIの頭脳を頼っていたりするから、話はそこまで単純じゃないんだけどね」


 そこまで話して、晴香はポンチ絵が描かれたウィンドウを閉じる。


「あたしたちの一般的な感覚では、単語を入力されてその意味を出力する辞書に心があるとは思わない。ドの鍵盤を叩かれてドの音を出すピアノに、心があるとは思わない。どうして? その振る舞いが曖昧さを持たず厳密に記述できて、心なんてものを持ち出さなくても動作を説明できるから」


 そこまで深く考えたことはない、というのが正直な感想だった。凪自身の心の有無の判断基準はもっと感覚的なところに頼っており、晴香ほど言語化されてはいない。


「でも」晴香が続ける。「そういう性質って、計算機の上で動くものの全てに言えることなんだよね。この観点で言えば、マナとhIEの動作の間に質的な違いはない。ここまで話せば、あたしが言いたいこと、大体分かったんじゃないかな」


 なるほど──ようやく腑に落ちる感覚を得た。


「『マナの制御系と僕らの脳の振る舞いがそっくりだから心の存在を認める』っていうのは『hIEの振る舞いと僕らの振る舞いがそっくりだから心の存在を認める』っていうのとそんなに変わらない……ってことか」


「そう。前者を肯定して後者を否定する理屈があるとするなら、そこにあたしたちが持ってる〝人間の定義の境界線〟を見ることができるかもね」


 晴香の言いたいことは何となく理解できた。マナという存在を人間に含めるか否か──理屈でいくら考えても、この問題に唯一の正解を出すのは難しいのかもしれない。

 一方で、これは判断を誤ってはいけない問題でもある。マナが人間であるにも関わらず、元の風俗店に返されたら? あるいは、法的な基準をクリアしない機体として処分されたら?


 このあとマナを起こしたとして、彼女にどう接するべきなのだろう。一体誰が、この問題に正解を与えてくれるのだろうか。


「……晴香は、マナを人間だと思う?」


 自分の中だけで結論を出すのが怖くて、つい訊ねた。

 いつもは何にでも即答する晴香が、長い沈黙を挟んだ後に口を開く。


「……この子をどういう存在だと捉えどう接するべきかを考えるには、多かれ少なかれ個々人の道徳的な信念を足がかりにする必要がある。これはあたしたちが生きてる社会が正解を決めてくれない問題だから。今から話すのは、一般論じゃなくてあたしの個人的な信念の話だと思ってほしい」


 彼女は念押しするようにこちらへ視線を送ってきた。うなずきで応答する。


「女や子供は人間ではなく、男の所有物である。ある人種は人間ではなく、別の支配階級の人種の家畜である」


 想像以上にセンシティブで過激な信念を打ち明けられてしまった。


「ちょっとまって。反応に困るんだけど」


「そういう反応になるよね。もちろんこれはあたしの意見じゃない」彼女はしてやったりとでもいうようににっこりと微笑んだ。「でも、これまでにそんな時代があって、国があったの。人間という概念が含む範囲は流動的なもので、時代や所属する集団によって大きく変わる。そもそも絶対的に正しい人間の定義を、これまで人間が持っていたことは一度もない」


 晴香はソファーに横たわるマナへ視線を向ける。


「そういう世界に生きている限り、マナみたいに微妙な立ち位置にいる存在には必ず出会う。こんなとき、自分が偽物と本物を選り分ける能力を持っていないなら、偽物も本物も同じように扱うしかない。間違い犯すことを完全に防止するには、はっきり偽物の人間であると証明されない限り、その対象を本物の人間として扱うしかないの。だから、凪の質問に対するあたしの答えは 〝マナが人間かどうかの判断は保留する。でも、人間として接する〟になるかな」


「なるほど」


 その話に一応納得したものの、これは始めに晴香が『個人的な信念の話』と断った通り、唯一の正解を示すものではない。結局、それは他人の言葉なのだ。自分がマナにどう接するべきかは、自分の言葉で決める必要がある。


 しばらく黙り込んで考えていると、同じく沈黙していた晴香が会話を再開した。


「……マナの制御系のハードウェアを構成すること自体は全く難しくない。驚異的なのはこの副脳に記録されているデータ。成長した連合野の振る舞いをここまで精密に再現できるなんて……もしかしたら、マナは人類未踏産物レッドボックスかも……」


人類未踏産物レッドボックス? 超高度AIが作った人間に理解できない代物ってこと? さすがに飛躍しすぎだよ。そんなのが普通にそのへんで働いてるなんて意味分かんないし」


「うーん、まあ、そうなんだけど……」


「生きてる人の脳の活動状態をそのままコピーしたとかじゃないの?」


「凪にしてはいい線いってると思うけど、シミュレーションで使えるほど詳細な人間の全ニューロンの活動状態及び各部位の脳内物質の濃度、電気的な状態の完全なスナップショットを取得するなんていくらなんでも不可能よ。そんな技術はあたしが知る限りこの世に存在しない。それにさっきも話した通り、マナの記憶にはかなりの割合で自動生成されたものが含まれてる。だから、人工的なプロセスを経てつくられたデータであることは確実なはず」


「へぇ。意外と難しいのか」


「そーよ」


 そこまで話して、晴香はあくびを噛み殺すような仕草をした。かなり眠そうだ。


「とりあえず、今日この子を解析して分かったことはここまで」


「ああ、ありがとう。晴香に連絡して本当に良かった。これからマナを起こすの?」


「いやー。ちょっと気になることがあって、これからもう少しだけ調べたい。あと、正直徹夜で限界来てるから、マナの再起動は一旦寝て起きてからにしようと思う」


「そういえば、今何時なんだろ」


 窓がなく音も完全に遮断されているこの部屋では、時計を見なければ全く時間がわからない。


「さっき時計見たときは十時ちょい過ぎぐらいだったかな。あ、十時半だって」

「えっ嘘でしょ! 授業はじまってるじゃん!」

「はぁ? てっきりサボるつもりなのかと思ってた。昨日の今日でよく行く気になるね」

「やんごとなき事情があるんだよ」

「追試?」

「……そうだよ」

「バカは辛いわね。言えばあたしが勉強教えてあげるのに」


 晴香に昔勉強を教えてもらったとき、思考の道筋が天才肌すぎて全く参考にならなかった事を思い出す。


「まあ、気をつけてね。一丁目と西口の先のボロいビル街には近づいちゃダメだよ。何かあったら連絡して」

「分かった、ありがと。学校終わったら一度家に帰って、着替えてからまたここに来るよ」

「あんたの生体情報で鍵が開くようにしておくから勝手に入って。たぶん寝てると思うから」

「うん。じゃあ行ってくる」

「あっ、学校行くんだったら、ちょっとこっち来て」


 晴香に手招きされ、なんだろうと思いながら近づく。


「なに? うわっ!」


 手の中に隠れていた小さな容器から何かが頭上へ吹き付けられた。降り注ぐ柔らかい花のような香り──香水?


「じゃ、いってらっしゃい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る