6

 地下鉄の入口前に現れた晴香の装いは、いつもと違っていた。


 普段は下ろしている髪が後ろで結われている。キャップを深く被った上でマスクをしており、うつむくと顔が見えない。

 ある程度汚れることや動きやすさを意識したのだろうか、暗色のTシャツにジーンズ、スニーカー身につけている。少し大きめのリュックが背中でパツパツに膨らんでいた。かなり中身が詰まっていそうだ。


「凪もこれ着けて。顔見られてるんでしょ」


 晴香はキャップとマスクを取り出し、こちらに差し出してきた。


「あ、ありがと」それらを受け取り、身につける。彼女の用心深さと用意周到さに、少しあっけにとられてしまう。

「今日ジャージ持って帰ってきてるよね。下に着いたら着替えて」

「あっ、うん。分かったよ」


 よく人の持ち物まで覚えているものだ。変な所で彼女の記憶力の良さを見せつけられてしまった。


「どうしたの、さっさと行くわよ」


 関心のあまりぽかんとしていた。晴香はすでにライトを持ち、入口の前に立ってこちらを見ている。


「うん。……あのさ、晴香」

「何?」

「今日は本当にありがと」

「……別に、なんでもないことよ」彼女は視線を地下に戻す。「いつでも頼って」


 ぶっきらぼうなようでいて、晴香はなんだかんだいつも優しい。


──いつも、頼ってばかりだな。


 そんな罪悪感を静かに飲み込み、凪はもう一度シャッターの大穴をくぐった。


     *


 携帯端末のライトに比べ、晴香が用意した懐中電灯は地下通路を格段に見通しよく照らした。


 割れたガラスの破片、水溜まり、剥がれ落ちかけた天井……すでに一度歩いた場所のはずなのに、それまで気づかなかった様々なものが目に入る。自分は本当にこんなところを走っていたのか? どこも怪我をせずにいられたのが不思議なぐらいだ──そんなことを思いながら晴香と共にマナのもとへ急ぐ。

 そうして、あっという間に目的地のトイレまで辿り着いた。小さな光で不器用に進みながら出口を探していたときとはえらい違いだ。


 入口の隅を確認するが、マナの姿がない。


「……マナ、大丈夫? 凪だよ。待たせてごめん」小声で呼びかける。


 ギィと、個室の扉が開く音。奥から現れた少女の影が小走りで近寄ってくる。隠れていたらしい。


「あぁよかった。うわっ」


 駆け寄ってきたマナが体にしがみついてきた。勢いに押され、少し後ろによろける。


「マナ……」


 震えている。ぎゅっと服の背中を掴んでいる手から、強い恐怖に耐えていたことが伝わってくる。


「待たせてごめん……怖かったよね」

「見捨てられたのかと……こんな……暗くて何もわかんないところで……」


 無理もないか。逆の立場だったら自分でもかなり怖い──マナが耐えていた恐怖を思い、震える体を優しく抱きとめる。

 とはいえずっとこうしている訳にもいかない。どうしたものかと迷う視線が無意識に晴香を捉える。左手のリストバンドに固定された携帯端末を操作していた彼女は、目が合うと少し困ったように笑い、すぐにまた何かの作業に戻った──まかせた、ってことか。


 結局、凪はそのままマナが落ち着くまで頭を撫で続けることにした。暗闇の底にいる三人の間に、会話のない時間が流れる。


 少し経って、しがみついたままじっとしていたマナがぽつりと呟いた。


「……迎えに来てくれて……見捨てないでくれて……ありがとうございます」


 マナは凪から体を離すと、携帯端末を操作している晴香に顔を向けた。

 視線に気づいた晴香は手を止めることなくマナに目を合わせ、


「はじめまして。あたしは晴香。あんたがマナね」

「あっはい! はじめまして。えーっと……凪さんの、彼女さん……ですか?」


 晴香は目を丸くし、


「ははっ!」不意打ちを食らったように吹き出した。「……彼女ね。残念ながら違うわ」


 含みを持った否定の後で、彼女は空間に投影された出力へ視線を戻す。程なくして、操作の手が止まる。


「あんたを助けに来たの。今その体の位置情報送信機能を無効化したわ。あと念の為、あたしの端末のネットワーク以外に接続できないようにする設定も入れさせてもらった。こっちは安全なことが確認できたら元に戻すから、しばらく我慢してね」

「嘘でしょ! もうできたの!?」


 手際が良すぎる。こんな場所までマナと逃げ隠れた苦労は一体何だったのか。やはり知識は力だ。


「本当ですか!? すごい……ありがとうございます!」

 

 マナはお礼を言いつつも、まだ信じられないという様子で目を見開いている。


「どういたしまして。全然大したことやってないわよ? 本当に」


 晴香の人差し指が左手首の端末に触れる。空間に投影されていた表示物が消え、一瞬プリローダーが浮かび上がったあと、出力が止まった。


 彼女はリュックを床に下ろすと、以降の段取りを話し始めた。


「さて、あまりここに長居したくないわ。凪とマナには一度あたしの家に来てもらう。外に車を待たせてるから早く準備を済ませましょ。凪はさっさとジャージに着替えて」


 そう促され、トイレの外に移動する。


 通路で着替えていると、晴香とマナの会話が聞こえてきた。


「マナはこの服に着替えて。あとこのマスクと帽子も着けて」


 晴香の声と、荷物を漁るガサゴソとした音。


「ありがとうございます! 着替えてきます」


 パタパタと駆ける足音。受け取った服を持って奥の個室へ移動したようだ。


「今着てる服は便器の中にでも隠しておいて!」


 と、晴香の声。奥から「はい」と小さな返事。


 そんなやりとりを聞いているうちに、着替えが済んだ。


「おまたせ」晴香のそばに戻り、その背中に声をかける。


 彼女はこちらを振り向き、小さく手招きしてきた。


「……? なに?」


 小声で訊くと彼女は耳元に顔を寄せ、


「家に着いたら彼女の解析を始めるから」と囁いた。

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