#2 「二つの聖域」

4

 光の届かない地下通路に二人の足音が反響する。


 可能な限りあの場所から遠ざかりたい──凪は少女の手を引いてしばらく走り続けた。


 長いシャッター街を抜けて細い通路に入る。さらに地下深くまで続く停止したエスカレーターを見つけ、駆け下りる。

 入り組んだ地下には目印となる物が少なく、同じような景色が何度も繰り返し立ち現れた。同じ場所をぐるぐると回っているのか、ある程度遠くまで来たのか、次第に分からなくなっていく。


 十分ほど走っただろうか。


 ふと、通路の中程に設置されたそれが目に留まり、立ち止まった。


「──公衆トイレ……ですか?」少女がぽつりと言う。

「ここ、隠れるのにいいかも」


 入口の構造を確認する。


 扉がなく、外からは仕切りだけが見える構造。裏側に回れば、誰かが来たとしてもこちらの姿は見えない。一方で、少し顔を出せば通路の様子は確認可能だ。


「こっち」


 トイレ入口の死角へ移動し、少女を自分の影へ隠すように立たせる。少しだけ通路へ顔を出して様子を見ながら、周囲の音に集中する。



 定期的に響く、水の滴る音。

 鉄道の走行音が微かに響いては消えていく。線路があるのだろうか。



「……今の所彼らが追いかけてくる気配はないね。上手くけたのかも」

「よかった……本当にありがとうございます」


 少女は緊張の糸が切れたのか、ぐったりとその場にへたり込んだ。その姿に凪もつられ、安堵の溜め息を小さく漏らす。

 しかしホッとしている場合ではない。逃げるのに必死でそれどころではなかったが、そもそもこの子が何者なのかまだ何も知らないのだ。


「聞きたいことが幾つかあるんだ。ちょっと質問させてね」


 その場にしゃがみこみ、少女と目線の高さを合わせる。


 濡れたアイボリーの前髪から覗く大きな瞳。少し臆病そうな上目遣いの視線。

 雨に濡れた子犬みたいだ──少女の纏うそんな印象には、なんだか庇護欲を掻き立てられる。


「そういえばまだお互いに名前も知らなかったね。僕の名前は広瀬凪。凪でいいよ。君の名前は?」

「私は、私の名前は……お店では〝マナ〟って呼ばれてました」


 彼女の答えに違和感を覚える。呼ばれてました、とは? 本当の名前を言いづらい事情があって、源氏名でも答えているんだろうか?


「うーん、なんか歯切れの悪い言い方だね……」

「えっと……それが本当に自分の名前なのかもあやふやで……。思い出せないんです、最近の数ヶ月より前の出来事が……」


 出だしから斜め上の返答をされて、思わず唖然としてしまう。これはなんだ? 実は結構イタい子で、これはそういうキャラ付けなのか? それとも本当に記憶を失っているのか?


「……そっか、じゃあとりあえず〝マナ〟って呼んでもいい?」

「はい」

「ありがとう。じゃあ次の質問を……。君はどうしてあの人たちに追いかけられてるの?」

「どうしてって言われても……お店から逃げ出したから、としか」


 バスローブ姿で、髪の毛先を濡らしたまま歓楽街から逃げてきた彼女の言う〝お店〟がどんなものかは大体察しがつく。

 仮にその想像が当たっていたとして──そもそも大前提として、未成年を性風俗店で働かせることは違法である。無理やり働かされていたということなら、逃げ込む先には交番を選ぶのが自然だったはずだ。あんな人気のない路地ではなく。


「うーん……」ひとまず業務内容に触れることを避けつつ質問を続ける。「ただのアルバイトが一人逃げ出しただけにしてはかなり執念深かったね。それに位置情報の送信機を体に埋め込ませるなんて普通じゃないよ。君は一体何者なの?」

「送信機は、この体が造られたときにそもそも取り付けられていたものだと思います。……そうまでする理由は私も知りません」


 体が造られた……? この子はhIEか何かなのか?

 そのはずはない。hIEは行動管理クラウドとの通信が遮断された場所では動けないからだ。マナがhIEだとしたら、こんな地下深くの廃棄区画で動作できるわけがない。そもそもhIEが労働に不満を覚えて逃げ出すなんて事はありえない。


 そこまで考えて、少し前に晴香とレストランにいた時のことを思い出す──そういえばこの子、髪型も背丈も、あの時見かけた少女にそっくりだ。


「君もしかして、少し前に花道通りのあたりを制服で歩いてなかった?」

「あっ……そうですね。そこにお店があって。たまにお客をとるためにうろうろしてます。今日もそうしてたと思います」


 どうやら見間違いではなさそうだ。

 晴香はこの子をhIEだと言っていた。いよいよ何がなんだか分からない。

 振る舞いがあまりにも人間臭いことや、電波の届かない地下で動作している事実が、その少女を人間だと直感させる。しかし、幾つかの別の事実がそれを否定している。


「変なこと訊いてごめんね……その、君は……君は人間なの?」


 我ながらバカみたいな質問だ──言葉にした後で少し恥ずかしくなってきた。しかし、とにかくこの一点を明確にしなければ話を先に進めることができない。


「私……私は……」


 彼女が動揺した様子で答えに詰まる。伏し目がちになり、視線を慌ただしく動かしてまぶたをぱちぱちさせている。この質問に即答できないというのはどういう状況なのだろう?


 しかし少しの沈黙の後で、彼女ははっきりと答えた。


「私は……人間です」


 まあそうだよな──その返答に少しだけ安堵する。


「なるほど、じゃあ話は早い。警察に保護してもらおう。ここまで呼んでくるよ」

「あの、すみません……警察を頼るのはやめてほしいんです」

「どうして?」何か後ろ暗い理由があるのだろうか。

「私が人間だということを証明する手段がないからです」


 この少女、やっぱりなんだか怪しい。

 警察に引き渡されたくない本当の理由があって、それを隠したいがために嘘をついているのだろうか。


「……うーん、君が何を言いたいのかよく分からないな。もしかして君はサイボーグなの? まあ仮にそうだとしても、ちゃんと生きた脳を持っていると分かれば、警察は誰も君を機械として扱ったりしないよ。だから大丈夫」

「多分……この頭の中にあるのは凪さんと同じ生きた脳ではありません」


 凪は溜め息をグッと飲み込んだ。

 記憶喪失だとか、生きた脳を持っていないだとか、嘘だとしてもあまりに話が突飛すぎる。ここまでくると正直、妄想か何かを語っているようにしか思えない。


 訝しむ気持ちを察知されたのか、マナは少し焦った様子で、


「あっあの! 私の頭の中に入っているのは生きた脳ではないかもしれません……でも、これだけは信じてほしいんです」


 その声にはやけに生々しい焦りの色があり、とても演技には見えない。

 彼女は縋るようにこちらを見つめ、手先を胸のあたりに添えて言葉を続けた。


「私の〝ここ〟は、凪さんや他の人たちと同じように、この世界を感じています」


──突然の既視感。


 彼女のまばたきき。縋るような視線。この目に見つめられた時の感覚を、自分は知っている。

 何か大切な記憶の気配だけは強く感じるのに、触れようとすると逃げてしまい、本体を掴めない。

 でも──この少女を絶対に見捨ててはいけない──そんな感覚だけが、何故か心を強く支配していく。


「……どうしたんですか?」


 その少女の声で、凪は自分が上の空になっていたことに気づいた。


「あぁ! ごめん。……うん。君が人間だということは、話していれば分かる。信じるよ」


 話の真偽はどうあれ、今の状況でこれ以上彼女を不安な気持ちにさせたくない。でも、ここから先どうすれば……。


 晴香ならマナの位置情報送信機能を無効化できるかもしれない。しかし連絡を取るには、彼女をここに残して一度地上に出る必要がある。


 少女の目を見る。眉根を寄せた、いかにも不安そうな顔。少しでもその気持ちが和らげばと笑いかける。


 この状況でマナを一人にしたくはないが、他にいい方法も思いつかない。ちょっと可哀想だが、そうするほかなさそうだ。


「僕はこれから外に出て助けを呼んでくる。警察じゃないから大丈夫、信頼できる人だよ」


 屈んでいた体を起こし、立ち上がりながら話を続ける。


「一人でここに残るのは怖いと思うけど、少しの間だけ僕を信じて待っていてくれないかな」

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