第一章

#1 「Down the Rabbit Hole」

2

 二一〇四年 七月。


「あー、やっと冷房のある場所で落ち着けるわ」


 櫻井晴香さくらいはるかは窓際の長椅子に腰掛けると、手のひらで首元のあたりを扇ぎはじめた。


「雨が降ったからちょっとぐらい過ごしやすくなるかと思ったけど、期待はずれだったね。湿気がつらいよ」


 広瀬凪ひろせなぎは向かいの椅子の前でそう返しつつ、肩にかけていた荷物を下ろそうと手をかける。


「荷物こっちに置いとくから、かして」彼女の手が差し出される。

「ああ、ありがと」


 鞄を渡す。手入れの行き届いた彼女の指先がそれを受け取る。


 二人は熱帯夜の歓楽街を抜けて、やっと空調の効いたファミレスの座席にありついたところだった。凪と晴香の通う高校は都心の繁華街の外れにある。通学路にあるこの店は、放課後の時間を潰すお決まりの場所だ。


 凪は椅子に腰掛け、無意識に小さな吐息を漏らした。冷房の乾いた空気が、肌を覆う湿った不快感をゆっくりと洗い流していく。その心地よさのために少し緩んだ意識で、正面に座っている晴香に目を向けた。


 窓のフレームで切り取られた夜の歓楽街にコラージュされる、暖色の照明を浴びた同級生。彼女はまだ手をパタパタさせながら首元を扇いでいて、その手先に視線が誘導される。汗ばんだ首筋の白い肌を水滴が一筋、伝っていった。


 目を逸らし、偶然視界に入った期間限定メニューのポップをなんとなしに眺めていると、まもなく女性の店員がやってきた。


「失礼いたします」


 洗練された手付きで二人分の水とタオルが机に並べられていく。


「ご注文はそちらの端末で受け付けております。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」

「どうも」


 凪は〝それ〟が人間でないと分かっていながら、不自然な沈黙を発生させるのがどこか気持ち悪くなってつい返事をした。


 この店員は人間ではなく、hIE ── humanoid Interface Elementsと呼ばれる人型の機械だ。生活空間の至る所に存在して、様々なシーンで人の労働力を代替している。丁度こんなふうに。


「そういえば」晴香が思い出したように言う。「このチェーンの運営会社って、クルーを全面的にhIEで入れ替えて店舗運営を完全自動化した最初の企業だったっけ」

「そうなんだ。珍しくもない形態だから意識したことなかったな」

「ジジババ世代が高校生ぐらいのときには、ああいうウェイターはよくある学生の働き口の一つだったんだって。単純作業でも、機械より人間を時間で雇ったほうが安かった時代の話ね」


 ふうん、と返し、少しだけ遠い昔に思いを馳せる。


「なんだか羨ましい時代だよね。スキルがなくても時間と体力があれば小銭が稼げたってことでしょ? 晴香みたいに飛び抜けて何かできる人は例外として、僕らはバイトを探すのも結構大変だよ」

「あんたイケメンなんだから、いくらでもその顔で稼げるでしょ」


 目鼻の配置の話をしているなら、それこそ作り物には敵わない。とはいえ、今は冗談で返す場面だろう。


「そうだね。金持ちのヒモにでもなろうかな」

「金持ちのいい女なら目の前にいるじゃん。強情張ってないでそろそろ好きになってほしいもんだわ」


 じわりと胸に広がる後ろめたさ。


「……前にも言ったけどそうはならないよ、悪いけど」


 こうした会話ももう何度目か分からない。


 その気もないのに彼女に期待を持たせ続けたくない。だから毎度その気持ちを受け取れないことを表明する。言葉の上では。


 本当はこうして毎日のように二人で過ごすこと自体やめたほうがいいと分かっている。そう思う一方で、遠慮のない彼女と過ごす時間は居心地が良く、聡明な頭に整理された豊富な知識から紡がれる言葉は、いつでも時間が過ぎるのを忘れさせた。

 振り切らずに現状の関係を維持する──それが、少なくとも短期的には一番楽な選択肢だ。そうして決断を先送りしているうちに、気づけば今日に至るまで、付かず離れずの関係を維持してしまっている。


 でも、この気分に耐えつづけるのも、そろそろ限界かもしれない。


「……あのさ、こうして僕といるよりもっと他に楽しいことあるでしょ」


 彼女の目元が一瞬緊張したことに気づき、思わず目を逸らす──何か、何か言わないと。


「晴香は頭いいんだからさ、もっと有意義なことに時間使いなよ」


 逃げ場を求めた後ろめたさが言葉にする過程で不器用に歪められて、まるで嫌味のようなことを口走ってしまった。こんなことが言いたいわけではないのにと、直後に後悔する。


「気を遣ってくれてるならありがとう」晴香の声は明るかった。「でもね、イケメンの顔を見ながら食う飯は美味いのよ。あんたの頭がポンコツだとか、話がつまらないとか、実は超クズだとか、そういうのは全部些末な問題。あたしは凪に対して顔以外に一切何も期待してないわ。だからほんと、何も心配しないで」


 すらすらと笑顔でまくし立てられる。本心が完全にその言葉通りでないことぐらい分かる。彼女は彼女で、今の曖昧な関係が途切れるのが嫌なのだろう。


「ルッキズムの権化みたいなフォローありがと。心が軽くなったよ」


 結局自分も助け舟に乗っかり、冗談めかしてやり過ごす。


「そりゃよかった。ところでだけど……そろそろ空腹で死にそう」

「だね。早くなんか頼もう」


     *


「前から思ってたけどやっぱりこの体に悪そうなソースが最高にウマいわ。これだけ売ってほしいぐらい」


 晴香はプレートに残ったソースを名残惜しそうにスプーンで掬っている。彼女はここに来ると毎回同じ感想を言う。


「おいしいけど、この店なんでもかんでもこれで味付けしてるの正直どうかと思うよ」

「生意気言うわね。凪はいつも頼むもの同じなんだから関係ないでしょ」彼女が最後の一掬いを口に含む。


 その後もいくつか毒にも薬にもならないような他愛もない話が続き、やがて会話が途切れた。


 ソフトドリンクが注がれたグラスへ晴香の手が伸びる。彼女はストローを口元に運び、少し飽きたように窓の外へ視線を移した。


 二階席の窓際から見える歓楽街の大通りには、発光する大量の看板がそれぞれ自分勝手な色や大きさを持って、統一感無く遠くまで密集している。色とりどりのガラス玉が入った瓶をひっくり返したような夜が、どこまでも続いている。


「うわっエグ」それまで黙って窓の外を見ていた晴香が不意に呟いた。

「なに、どうしたの?」

「いや、大したことじゃないんだけど」


 窓際の長椅子に座っている晴香が手招きする。

 隣に移動して視線の先に目を凝らす。この辺りでは有名な風俗密集地帯だ。


「その青色の看板のソープ。あそこ」晴香が指で方向を指し示す。

「あのお店? ああやっと分かった」


 中学生ぐらいだろうか。夜の風俗街には場違いな制服姿の少女が、きょろきょろと辺りを見回しながら立っている。道を行き交う人波の中で、その少女は明らかに目立っていた。


「うわ、こんな時間に危ないな。でもあの辺りをウロウロしてたらすぐに巡回警備のhIEが飛んできて補導されるんじゃないかな」

「あの子、今その店から出てきたの。だからちょっと面食らっちゃって」

「えっそれって犯罪じゃない?」

「バカね、あの子もhIEよ。少女愛好家向けの客引き。ああいうのがいい人もいるのねぇ」

「ああなるほど。まあ趣味は人それぞれだよ」


 そう言って元の座席に戻ろうとしたところで、凪はなぜかその少女から視線を逸らすことができなくなった。


 学生服をモチーフとした、胸元が開いたブラウスと短いスカートの衣装。緩くパーマがかかったアイボリーのショートボブ、幼い顔に釣り合わない派手な化粧……辺りを不安そうに見回すその仕草は、知らない街で独り迷子になって怯えている小さな子供のようだ。

 人目を引く装いに反した臆病で気弱そうなその立ち姿に、凪は正体の分からない既視感を覚えた。


「なによ、変な顔であの子のことジロジロ見ちゃって。もしかしてああいうのが好みなの?」

「いや、別にそういうわけじゃないけど……」晴香の言葉に慌てて目を逸らす。


 しかしその少女の姿が何か心に引っかかる。凪は晴香に気付かれないようにもう一度、ちらりと風俗街の方向を確認した。


 だが、すでに少女はそこにいなかった。


「それにしても、行動管理クラウドに繋がったセンサーの塊とヤる人の気がしれないわ。よく誰が見てるかも分からないカメラの前で情けない姿を晒す気になるわね」


 晴香の口調には少しの呆れと嘲りが混ざっている。


 彼女が言いたいのは、リアルタイムで情報をクラウドへアップロードしつづけるセンサーの集積体と喜んで事に及ぶ人の気が知れないということだ。一般的に、hIEは内部に人間らしい振る舞いをするための判断系を持っておらず、常に行動管理クラウドからの他律制御を受けて行動している。そのため、機体のセンサーに入力された情報を常にクラウドへフィードバックしている。


「よく分からないけど、ある程度のプライバシーは守られるんじゃないの?」


 あまり興味のない話題に、言葉を打ち返すためだけの雑な質問を返す。


「ほんと、おめでたいわね」


 彼女はなぜか諦めたような微笑を浮かべていた。その表情の意味も、なぜ突然たしなめられたのかも分からない。


「あんた」晴香は話を続ける。「当たり前のように当たり前の権利が保証されることを、漠然と盲信してるでしょ」


 まだその言葉の真意がよく分からない。薄っすらとバカにされているように感じたが、言い返す気力も出ずに黙ってしまう。

 彼女は少しの沈黙の後で「ま、凪に限った話じゃないわよ」と付け加えた。


     *


 店を出たあと、凪はそのまま晴香を駅まで送った。


「ここまででいい。いつもありがと」


 晴香はいつものように改札口でそう言うと、駅構内の人波の中に消えていった。

 二人の暇つぶしは毎回この場所で終わる。彼女がここからどの路線を使うのかも、どの駅で降りるのかも、よく知らない。

 凪は徒歩で通学しているため、そのまま駅を出て帰路を歩きだした。


 駅周辺の繁華街を少し外れると、寂れたオフィス街のような場所に出る。


 半分取り壊されたまま放置されているビル。壊れたままの街灯。人通りの無い道を舗装するひび割れたコンクリート──まるで人々に忘れられたような場所だ。今はもう廃棄された地下街への入り口がしばしば点在しているが、どこもシャッターが降り、立入禁止のテープが貼られている。


 凪は駅前の雑踏を抜け、この見捨てられた街の静けさに身を置き、少しほっとした気持ちになった。


 いつもより大きく呼吸してみる。

 蓄積した疲れが空気と共に外へ流れ出ていく。


 束の間の静寂。


──突然、誰かの足音が狭い路地に響いた。


 ギョッとして後ろを振り向く。小柄な人影が凪に向かって走ってくる。姿は逆光と薄暗さでよく見えない。

 人影はこちら駆け寄るといきなり左手を掴んできた。暗い夜道での不意打ちに口から心臓が飛び出そうになる。


 揺れるアイボリーの髪──手を掴んでいたのは、少女だった。バスローブのようなものを羽織ってはいるが相当着崩れている。気にする余裕もないほど急いでいたのだろうか。


「すみません! 助けてください!」


 彼女は何かに強く怯えたような表情で言った。声を抑えつつもかなり焦った様子だ。


「えっ! 何! 誰!?」

「追われていて、隠れられる場所を探していて、でもこの辺りのこと全然知らなくて──」


 話し終わるよりも先に物音がした。少女と共にその方向を見る。


 路地の曲がり角に目を凝らす。幾つかのライトが汚れた壁をゆらゆらと這い、一人、また一人と人影が現れる。視認できるのはそのシルエットだけだ。

 そのうちの一人が持ったライトがこちらに向けられ、凪の顔を照らした。


「──分かった! 話は後で!」


 繋いだ手を強く握り返し、身を翻す。

 そのまま少女の手を引き、追跡者たちと反対の方向へ走り出した。

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