鏡文字のラブレター

川添春路

プロローグ

#0 「プロローグ」

1



 私たちが命を削って辿り着いた真実は、永遠に秘匿されるべき禁忌だった。



 腕に抱いた妻の体。その肌から、体温が刻々と失われていく。後頭部は割れ、花が咲くように紅く開いていた。まだ動いている心臓の鼓動にあわせて彼女の臭いと温かさが流れ出し、私の服に染み込んでいく。


 状況を飲み込めないまま、視線が仄暗い室内を泳いだ。


 放射状に弾け飛んだ記憶の器。その欠片が、あちこちの床や壁に張り付いている。共に過ごした掛け替えのない思い出は、みんな、零れ落ちてしまった。


 真実、親友、妻──昨日まで当たり前のように存在していた、私の心を形作るものたち。その全てが壊れる様は、あまりにもあっけなかった。これは本当に、現実なのだろうか。


 自身の腕を貫通した傷に目をやる。ぼやけた感情に反して、痛みの感覚ははっきりとしていた。

 妻の顔にもう一度目を向ける。もうどこも見ていない開ききった瞳孔。真っ黒な表面は鏡となり、私の顔を反射している。


 ふと、娘の笑顔が、妻の輪郭に重なった。


 滲む視界。目元へ込み上げる熱によって、ようやく心が溢れているのを実感する。水滴が彼女の頬へ、ぽつり、ぽつりと落ちていく。


 コツコツと私の背に歩み寄る足音が聞こえた。

 後頭部に押し付けられる、硬い感触。

 親友であった彼は二つの道を示し、そのどちらかを選べと言う。


 一つめは、罪を重ねずに自らの命を絶つこと。

 二つめは、禁忌を犯して時間を巻き戻すこと。


 一つめを選べば、この手は災厄の原因になることを免れるだろう。

 その代わり、私と妻の物語はここで終わる。


 二つめを選べば、腕の中で冷えていく妻の体は再び体温を取り戻すだろう。

 その代わり、悲劇を運命付けられた無数の魂を生み出すことになる。


 今まさに消えてしまおうとしている私の半身は、ここで決断しなければ永久に失われてしまう。もう時間は残されていない。


 地獄の門の前で迷う私の背中に、彼は語りかける。


「君の信念が本当に正しいというのなら、その体にもう一度魂を宿らせて構成した存在を本物と認めることができるはずだ」


     *


 その人物は決断し、妻の温もりを取り戻した。

 数年後、一人の少女の魂が複製され、身体が与えられることになる。



 夏の日。都内のとある密室。

 薄暗い部屋の中で水滴の落ちる音が、ぴちょん、ぴちょんと、定期的に響いている。


 ある男がそれを聞きながら、目の前の少女に微笑みかけた。羽根を広げた蝶のような彼女の目は、少年時代に恋した人を思い出させた。


 少女はあどけない顔で笑い返してくれる。どうして? それがこの場面における適切な反応だからだ。その表情に、彼女の心のありさまは全く反映されていない。


 男は右手を強く握りしめた──欲しいのは、そんな空っぽの振る舞いじゃない。

 少女の腹を殴りつける。拳にぶつかった肌の感触は、想像よりもずっと柔らかい。彼女は短くカエルが鳴いたような呻き声を上げた。

 全身の力が抜けて支えを失った華奢なからだがその場に崩れる。ベッドの縁に頭をぶつけ、室内に鈍い音が響く。


「やっぱり痛がりかたもすっごくリアルだ」


 痛みに悶える少女の姿に、男は確かな共感を覚える。

 痛くて、悲しくて、それを感じられる自分が嬉しくて──


「──こんなに胸の奥が暖かくなるのは久しぶりだよ」


 冷たい床に横たわる、少し力を加えたら壊れてしまいそうな、未成熟で薄い肢体。両腕で腹部を庇い、体を丸めて痛みと恐怖に震える背中を、力を込めて踏みつける。

 直後、鼓膜が破れそうなほどの叫びが空気を震わせた。胸の奥底から体の末端にかけて、黒い快感が電気のように駆け抜けていく。


「……僕の与えた痛みが、僕の存在が君の内側に強く響いてる」


 さらにその悦びを求め、何度も繰り返し背中へ蹴りを入れつづける。自身の与えた暴力に反応して少女が叫び悶えるたびに、征服と共感の悦びが体を走り抜け、芯を滾らせる。


──彼女の痛みを確かにこの心が感じている。彼女の痛みが分かる。僕は確かに今、彼女と繋がっている。


「ずっとこんなふうに、他人の心に触れて暖かくなる感覚がほしかったんだ」


 背中の外装はところどころで裂け始めていた。踏みつけるたび、少女の声帯から言葉にならない潰れた嗚咽が漏れる。


 傷だらけの背中にポタポタと零れ落ちる水滴──それは、自身の目から溢れた涙だった。


「……胸が、痛い。ちゃんと胸が痛いよ……嬉しい。僕だって人と繋がりあえる。僕は人間なんだ」


 そんなことを続けているうちに、少女はぐったりと動かなくなってしまった。かろうじて意識を保っているが、目は焦点があっておらず、体に力を入れることもできないようだ。

 男は動かなくなった少女を抱え、ベッドへ仰向けに寝かせると、頭側のポールに手を縛って固定した。


 無抵抗な幼い躯に、馬乗りになる。


「起きてよ」


 頬を強くはたいた。意識が鮮明になったのか、少女は激しく身をよじって体の下から抜け出そうとする。両手の自由を奪われ、大人の男にのしかかられたまま、華奢な足を虚しくばたつかせている。


 彼女の首元を抑え、力を込めて顔を殴りつける。激痛が内側を反響しているかのように、躯が強く跳ねた。


 その反応に、体の芯が再び興奮を取り戻す。男は一度体を起こして、だらりと脱力している少女の足を掴み、広げた。

 彼女に覆い被さる。密着する肌から体温が伝わってきた。深くまで繋がるため、少女の狭い腰を引き寄せつつ、ぐっと体重をかける。


 もっと嫌がる顔が見たい。心を恐怖と嫌悪で飽和させた表情が見たい。そこに自分の存在が確かにあることを感じたい。そして、その嫌悪にこの心を共感させたい。


──君を汚すことで、汚される感覚をこの心に刻みたい。


 だが期待とは裏腹に、少女は一切抵抗せず、特にこれといった反応も示さなかった。諦めたように虚ろな目で、ただ無感情に、どこか遠くを見ている。


 男は激昂し、少女の顔を何度も執拗に殴りつけた。


 少女の表情に恐怖の色が戻る。殴りつけるたびにその躯が強張り、男を強く締め付ける。服従させ、支配する悦びが全身を駆け巡り、飽和していく。殴打のスピードを早める。あと少しで、絶頂に達せる──


 そう思った直後、急にまた少女の反応が鈍くなった。


「クソっ! 起きろよ!」


 何度も平手で頬をはたく。しかし表情は戻らない。


 少し疲れ、手を止めて、しばらく無言で少女を見つめる。彼女は黙ったまま微動だにせず、まるでゴムでできた人形のように、ただ目を虚ろにさせ、脱力していた。


 欲しいものはすぐそこにあった。あと少しで手が届きそうだった。開放への期待が弾けそうなほどに膨らみ、あとは絶頂の感覚に身を委ねるだけだった。それなのに──その最も重要な瞬間に、彼女は裏切った。


 募る、苛立ち。


「……お金さえ払えば、僕は君をどうにでもできるんだ」


 少女の頬に手を添える。その顔は少しも動かない。まるで目を開けたまま寝ているようだ。

 大きな左目の眼窩に指を這わせる。処女を奪うときのような胸の高鳴り。それを感じながら、眼球の収まる塗れた隙間へ、指先を突き立てた。


 強引に、ねじ込む。


 指の腹を滑るズルリとした感触から一呼吸置いて、少女の悲鳴が部屋の四隅に反響した。


 ビリビリと耳を劈くような絶叫。再び強い快感がせり上がってくる。男は無意識に腰を強く押し付けた。

 奥深くまでぐっと親指と人差し指を押し込み、ピンポン玉程度の大きさの目玉をしっかりと掴んで、ゆっくり引き抜く。ぶちぶちと繊維の切れる感触があった。眼窩にあった器官が圧迫されて破裂し、透明な潤滑剤が男の顔に飛び散る。悲鳴が止まった。華奢で未成熟な子供の躯が、それに不釣り合いなほど強い力で激しく痙攣する。

 少女にきつく締め上げられ、絶頂へといざなわれる。愛しさが飽和して溢れるままに、彼女の躯へどくどくと流れ込んでいく。


 ようやくこれまでの人生で抑圧されていた欲望を他者に受け入れてもらえた。同じ痛みを他人と共有し、本当の意味で一つになることができた。飢え乾いていた心が満たされ、深い満足感が体中を包み込んでいく。


 快感の波が一通り去ったあとで、男は少女にぽつりと言った。


「君が心を持たない機械であることが信じられないよ。これまでの人生で、こんなに他人の存在を強く感じられたことはなかった」


 少女は停止してしまって、もう何も答えない。


 男は自身を少女から引き抜いて膝立ちになり、長い黒髪を掴んで持ち上げた。顎の関節が壊れてしまったようで、口がだらしなく開きっぱなしになってしまう。

 開いた口に汚れた部分を押しこみながら、男は続ける。


「もしも君に心があったなら、この世界は本当の地獄だろうね」

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