事故情報

 喉をせりあがって噴き出る水の不快感と、肺の痛みで意識が戻った。痛い、苦しい。身体の奥から湧き上がる恐怖に僕は身体を起こそうとして、両肩を大男に押さえられた。

 呻き声を上げて抵抗したが、男の力が勝っている。頭が固いベッドの上に押し付けられて視界がぼやけ、声が詰まる。

「おい! 大丈夫か。声は聞こえているか?」

 男が僕の頬を叩いて言う。聞こえているし、視界がぼやけているのはお前が押し倒したせいだ。罵ろうと口をあけても、身体は声を出すより酸素をとりこむのに必死だった。僕にできるのは、とにかく大男に対して頷くことだけだった。

「おい、カタマ! こっちは意識が戻ったぞ。外はどうだ? 先生見つかったか?」

 男が後ろを振り返って大声を出す。その間に、部屋が左右に大きく揺れたので、ここは船だと気が付いた。

 僕は、船の中にいる。助かったのだ。そう思った瞬間、大男に起こされる前の出来事を一気に思い出した。僕は助かった。けれど、彼女は。 

「あの、すみません。ここは」

「今はとにかく休め。水持ってくるから、一気に飲むなよ。拾われた命大事にしろ」

 男は説明らしい説明をせずに外へ出ていく。耳を澄ませば外では何人もの男の声が飛び交っている。彼らは皆、誰かを探している。雨、おそらく夜も遅い時間に船を出して。


 そして、僕は彼らが探している“誰か”を知っている。

 九條心咲(クジョウ‐ミサキ)。彼らが探しているのは、僕と一緒に島の崖から海に落ちた女性だ。共に落水した僕がこうして助かっている。だから、彼女もまた海のどこかを漂っているとの一縷の望みにかけて。

 ベッドの横には海水でぐっしょりと濡れたオレンジ色のライフジャケットが干されている。おそらく僕が身に着けていたものだ。そして、制止を聴かずに先を行く九條に僕が着せたものでもある。

 ラジオ局の職員は、休憩室にあったライフジャケットが二着なくなっていることに気が付いただろう。そして、先ほどの男も、他の救助隊も、僕が着ているライフジャケットがどこで入手したものなのかすぐにわかったはずだ。

 だからこそ、彼らは九條にもまだ望みがあると考えている。

 けれども、それは叶わない望みだ。僕は、誰よりもそのことを知っている。

 崖を落ちていく九條のそれは大きく裂けていた。

 落水の直前、最期に見た九條は、目を輝かせ、屈託のない笑顔だった。だから、僕は怖くなった。その後、自分がどうしたのかはよく覚えていない。

 崖下の流れに逆らって必死に彼女の顔を探していた。そして、僕は海に沈んだ。


「せっかく助かったのに蒼白いな。まるで死人だぞ」

 気づけば、大男とは別の男が部屋を覗きこんでいる。扉に左肩を預けて少し傾きがちに立つ彼は大男とは真逆で頬がこけて痩せた顔だ。見るからにサイズオーバーの白衣が体格を隠しているが、白衣の下も随分と細いのだろう。

 どこかで見覚えがあったが、名前は分からなかった。そもそも、僕が島に来たのはたった3週間前。僕は、島民のほとんどをまだ知らない。

「“なぜ”かについては誰も尋ねない。君が岬で何をみたのかも尋ねる気はない。それは、私の意見というより、船を出している皆の総意だ。もっとも、彼らは口下手だからな。私から伝えてほしいと頼まれてしまった。

 ただね、非常に残念なことに私には何もわからないんだ。だから、こんなことしか伝えられない。君の来訪が何かを変えたわけではない。九條心咲はもっと前から壊れていた。だから、君に責任はない」

 男の話の要点はまるで掴めなかった。彼は、僕を見て苦笑いをし、そして自分のせいだとは考えないようにと念押しした。どうやら詳細を語ることは諦めたらしい。

「ですが、あのとき僕は先生が立入禁止区域に入ることを止めなかった」

「九條は君が止めたところでやめなかったよ。それは君が一番わかっているはずだ」

 男は僕と話す間も、ちらりちらりと甲板を窺っている。良い状況ではないのだろう。ならせめて僕は元気であるところをみせなくてはならない。そう思って起き上がると、男はそのまま水を飲んで休んでいろと僕に指示をした。

「ところで君は最後まで聴いたのか?」

 男の言葉は全て唐突で本当に尋ねられていることがわからなかった。言葉を詰まらせた僕をから目を逸らし、男は部屋を立ち去っていく。

「覚えていないなら問題ない。助かったんだ。余計な詮索は勧めない」

 彼の言葉は、僕にというより自分に言い聞かせているように聞こえた。


 僕が目を覚ましてから3時間後。九條心咲の捜索は打ち切られ、捜索隊を乗せた船舶4隻は、生存者1名を連れて島へ戻った。

 それから4日後、2018年7月28日。立入禁止区域近隣の磯辺で女性の遺体が見つかった。死体の状況は劣悪だったが、破れたライフジャケットから、九條心咲と断定されたという。

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