【カクヨム限定版】その心霊バイト、危険につき【第一部別END】

第五話 たったひとつの、冴えたテルミット

「なん、だ、これは……？」

　黒服の男が呻（うめ）き、その場から飛（と）び退（の）いた。

　周囲の大気が凝（こご）っていた。

　空気が重たくのしかかっていた。身体がひしゃげてしまいそうなほどに重かった。

　開放されたのだ。

　――〝ひとりばこ〟が。

　開け放たれた箱の底。

　見通せないほどの暗黒の最奥（さいおく）に。

　みっしりと、無尽蔵（むじんぞう）な人間の肉が詰まっている。

　ぎょろり、と。

　肉山の中心に座（ざ）す、虹色の瞳が、あたしを見た。

「呆気（あっけ）ない……こんなことで世界はおしまいですか……」

　虚脱（きょだつ）した声で藍奈がつぶやく。

「惚（ほう）けるな。際限（さいげん）なく人を取り込む器（うつわ）だというのなら、オーバーフローさせれば済む話だ。形而疆界学（けいじきょうかいがく）による再定義（さいていぎ）！」

　喪服の男が、あたしに向けてもう一度引き金を引こうとしている。

　だが、そのあらゆるすべてが些事（さじ）に過ぎなかった。

　なぜなら。

『あぎゃあぁああああああぁあああああああああ』

　哭（な）いた。

　鳴（な）いた。

　啼（な）いた。

　箱の中身が、赤ん坊のように、雌鶏（めんどり）のように、鬼のように咆哮（ほうこう）を上げ。

　――あふれる。

　無尽蔵の血液が、汚らしいリンパ液が、すりつぶされた体組織の洪水が、周囲一帯をあっという間に飲み込んでいく。

　触れたものすべてを貪食（どんしょく）し、森を更地（さらち）に変えながら、それはとぐろを巻いて上空へと登（のぼ）り、蛇のように鎌首をもたげる。

　赤黒い雲霞（うんか）の群れ、即（すなわ）ち邪悪。

　狙いをつけたように、邪悪はあたしを見て。

　急降下。

　現れる。

　血液の波頭（はとう）を突き破り、鳥が。

　緋色の鳥が。

　否――鳥とも呼べないような、泣きわめく嬰児（えいじ）の顔をした異形が！

　いまこの瞬間にも死にゆこうとしているあたしの左目を、鳥は勢いよく食い破って――

「日華ァ！！」

　誰かの、巫女の、相棒の悲鳴が轟（とどろ）き。

　そうしてあたしの意識は、途絶（とぜつ）した。

§§

　真っ赤な世界があった。

　中心には巨大な箱が聳（そび）え、無数の腕を伸ばしながら、なにかを収穫している。

　……人間だ。

　草をむしるように、箱は人間を大地から引き抜き、己の中へ取り込み、噛み砕いてすりつぶしている。

　あれは、邪悪だと思った。

　バサリと、倒れ伏しているあたしの前に、一羽の巨大な鳥が舞い降りた。

　嬰児（みどりご）の顔から血涙（けつるい）を流す、緋色の鳥だった。

　三つ足の鳥は、あたしへと齧（かじ）り付き、肉をついばむ。

　全身の骨が砕かれる。筋繊維がミチミチと引き裂かれ、神経と血管がブチブチと千切（ちぎ）られる。

　空虚（くうきょ）な心でただ思う。

　砥上（とがみ）藍奈（あいな）は無事だろうかと――

『それは、あなたの心がけ次第かしら』

　〝うつくしい〟なにかがいた。

　緋色の鳥の足下に、三本足が檻のようになって、〝それ〟を閉じ込めているのが見て取れた。

『すべては些事。けれど、あなたが願うのなら、十五秒の猶予（ゆうよ）をあげましょう』

　……それで、あたしはなにを差し出せばいい？

　十五秒のために、魂を売り飛ばせばいいの？

『覚悟が決まっているのは佳（よ）きことだけど、いきなり悪魔扱いされるのも困りものね。ちょっと間借（まが）りさせてほしいだけよ』

　間借り？

『些細な理由で、居場所がないの。だから、あなたの精神世界（ここ）に置いてくれればありがたいのだけど』

　それで、あたしは。

　あの箱を。

　目前で暴挙（ぼうきょ）の限りを尽くす〝ひとりばこ〟を、なんとか出来る？

　彼女を。

　藍奈を、助けることが出来る？

『だから、それはあなた次第よ。私はただ、あなたの背中を押してあげるだけ。形而下（けいじか）への片道切符を贈るだけよ』

　なにを言ってるのかさっぱり解らない。

　けれど。

　やれるなら――いますぐに、やって。

　あたしにはまだ、やり残したことがあるから！

　いま、やりたいことがあるのだから！

『素晴らしいわ。ならば――お行きなさい』

　まばゆい虹色の光が、あたしを包んで。

　そして――

§§

　箱が、世界を貪（むさぼ）っていた。

　箱の中から伸びる無数の長い腕が、人間を無作為（むさくい）に招き寄せ、暗黒の中へと放り込んでいく。

　咀嚼音（そしゃくおん）は耐えがたいほど悍（おぞ）ましく。

　いま、近隣（きんりん）にある町の半分が、箱の餌食（えじき）となっていた。

　小さかったはずの箱は、一抱えほどまで成長し、周囲の命という命を、区別なく喰らい続ける。

　ひとりの巫女が、その箱へと立ち向かっていた。

　己の無力さを知りながら、なんら打つ手を持たないまま、箱を止めようと足掻（あが）いていた。

　足掻いて。

　足掻いて。

　足掻き続けて。

　けれど都合（つごう）のいい奇跡など起こらず、巫女もまた、箱から伸びる腕によって、内部へと取り込まれようとしていた。

「まだです！　まだ私には、出来ることが――」

「うん。あるよ、やれること」

「！？」

　巫女が、驚愕に目を見開いた。

「生命（にくたい）の再起動だと？　ありえるのか？」

　遠巻きにしていた喪服の男が、驚嘆（きょうたん）に唸（うな）った。

　真っ赤に染まる空。

　箱に貪られる命。

　最悪の地獄が顕現（けんげん）してなお。

　あたしは、ここに立っている。

「ニッカポッカ……！」

　苦しげな巫女の呼びかけ。

　けれど、答える余裕はない。

　左目からボトボト流れ出す血液を拭（ぬぐ）う暇（いとま）すら惜（お）しんで、後生（ごしょう）大事にしまっていたものを、ポケットから取り出す。

　／五秒経過。

「手榴弾か……しかし、その程度のもので、怪異をおさめることは」

「陰険喪服（いんけんもふく）、うるさい！」

　やってみなきゃ、わかんないでしょうが！

　あたしは安全ピンを引き抜くと、恐怖をかき消すように雄叫びを上げ。

　箱へと向かって、手榴弾を全力で投げつけた。

　刹那、目がくらむような光が、手榴弾からあふれ出す。

　とんでもない熱量が、肌を撫でる。

　喪服の男が、瞠目（どうもく）する。

「この高温、局所的熱量の集中……焼夷弾（サーメート）……まさか――テルミット反応か！？」

　金属アルミニウムと金属酸化物の粉末混合物に火が灯るとき。

　それは――酸化還元反応によって、太陽の表面温度（６０００℃）にも匹敵する超高温を一点集中させる、極大の火力へと変貌（へんぼう）する！

　膨大な熱量が〝ひとりばこ〟を焼き尽くし、蹂躙（じゅうりん）する！

　／十秒経過。

「いまならば可能だ。形而疆界学（けいじきょうかいがく）による再定義。汝（なんじ）は――」

　男の、その言葉の先を聞く前に。

　あたしの身体は、限界を迎えた。

　薄れゆく視界の中、最後に見たのは。

　地獄の惨状（さんじょう）のなかで、落下し、地面に倒れ伏すパチモン巫女の姿で――

　／十五秒経過。

　／契約成立。

　／白虹眼（はっこうがん）を委譲（いじょう）する――