午後5時42分の世界にて
影平まこと
或いは、雄弁な死について
「死ぬことって、怖いかな」
その言葉に、本を読むために俯けていた顔をあげる。そう問うたのは、正面に座っていた彼女だった。やわらかな夕陽が窓から差し込み、美しい髪をオレンジに染める。絵画のような情景の中、何でもないことのように零し、僕をまっすぐ見つめてくる。すべての授業が終わり部活動生以外の生徒たちは帰路についたであろう午後5時42分の図書室。僕と彼女だけしかいないこの時間、この場所で、いつもと違う会話が始まった。
「怖いと思うよ、少なくとも僕は怖い」
「どうして?」
怖いなんて感情すら知らないとでも言うように、彼女は首をかしげた。その拍子に流れた前髪が、彼女の左目を覆う。上目遣いで三白眼になった瞳からは、おぼろげながらも力強い意志を感じた。その片目の圧力にひるみそうになりながら、僕は少しだけ考えて、答えを出す。特に死について、なんて。
「分からないから。分からないものは、怖いものだよ」
生きていると絶対に知りえない秘密。きっとその片鱗にだけでも触れてしまえば、自分が自分ではなくなるかもしれないという畏れ。そして、物言わぬ神が唯一僕たちに零す、救い。
「やっぱりあなたと私はよくにてるのね。知りたがりで、怖がりで、」
とっても死にたがり。
死にたがり、死にたがり。死ぬのは怖いって、言ったんだけどな。僕の言葉など聞こえていなかったかのように、彼女はそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。一体彼女には、僕の心の裡の、何が見えたというのだろう。だけど、反論なんて、する気も起きず。彼女が手元の本へと落とした視線が、再び僕を射ることはなかったので、僕も諦めて読書を再開する。また無視されてしまったよ、メーデー。午後5時58分の図書室、どこからか声楽部の歌声が聞こえてくる。どうかこんな僕にも救いがありますように。彼女への想いが報われる日が、やってきますように。だんだんと遠くなっていく音楽に耳を傾けながら、とりあえずはタイムリミットまでこの本を読み進めることにした。変わらず僕を見ることのない彼女と、二人だけの時間を堪能する。
午後6時30分。それまでには、彼女に一矢報いたい。いつまでも言われっぱなしは嫌じゃない?
「僕さ、死ぬなら、聖歌が流れてるような綺麗な場所で死にたいな。知ることも、知らないことも、何もわからないまま、死んでいきたいな」
返事にもなっていない。僕の精一杯の、反抗。
「ここでいいじゃない」
一息ついて、答えが返ってくる。
「私とあなたがいて、音楽が聞こえてくる。私たちはとっても無知。一生のうちで、一番美しくて、一番愚かな青春の道。ねぇ、ほら。二人にとって理想の死に場所じゃない?」
そう言われて、なぜか、すとんと、心に落ち着くものがあった。僕の、唯一できる、君への反抗だったのに。今まで見たことのないくらいに、美しく笑った君を見て、どうでもよくなっちゃった。なんだか、喜ばせてしまったみたい。それに、いま、僕も同じくらい、嬉しいんだ。
「あぁ。ほんとだ。ここで死にたかったんだ。」
この最も美しく、最もはかない青春の一幕の中で、永遠でありたい。やっと気づけた、僕の幸せ。僕の理想。君と生きたい、ではなくて。
「ほらね、やっぱり死にたがり」
極上の笑顔で、彼女は笑って見せた。もう、僕たちには、朝も夜もいらないね。
僕は、君と死にたいみたいだから。
午後5時42分の世界にて 影平まこと @sakura-1993
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