第5話

 世理は夜道の住宅街を京也と並んで歩いていた。

 時間は八時と少しを過ぎている。仕事帰りの大人がちらほらと見受けられたが人通りは少なく、風は少し冷たくなってきていた。

 世理は横目で隣を歩く京也を意識する。特に会話はないが不思議と彼といる沈黙は気にならなかった。やがて、小さく息を吐くように京也が言った。


「春海、寝ちゃってよかったな」


「うん。出なきゃ泊まることになったかも」


「それはさすがに嫌だろ」


「別に構わないけど」


「え、マジ?」


 狼狽える京也を見て、世理は笑みを零した。


「冗談よ。さすがにそれはお断り」


「冗談言うんだな」


「たまにはね」


 世理は他人のための笑顔をしていない自分に気がついていた。

 心臓の音がよく聞こえる。足音や息づかいがやけに鮮明だ。何かに心地良いと思ったのはいつ以来だろう。一人になってからは、一度もなかった気がした。

 だからだろうか。世理は思いつきで口にしたこの言葉をのちに後悔することになる。


「立ち入ったこと、聞いてもいい?」


「親父のことか?」


 世理と京也は目を合わせる。先に逸らしたのは京也だった。


「さっきピンポイントで母親は仕事かって聞いただろ」


「聞き聡いね」


「神経質になってるだけ。知らないやつも多くなったんだけどな。雨宮って相川と白石と仲良いから、聞いてるかなって思った」


「莉子も千尋も、面白おかしく言いふらしたりはしてないよ」


 うん、と京也は複雑そうに頷いた。人の口に戸は立てられないという事実を知っている顔だった。途切れ途切れに、京也は話し始めた。


「親父は、けっこうデカい詐欺グループの幹部で実刑くらってんだ。あと数年は塀の中だな」


「……大変だったでしょ」


「まぁな。近所から嫌がらせもあったし、紫帆も学校ではけっこういじめられて……あいつ中学行ってないんだ」


 セーラー服姿の紫帆を思い浮かべる。カレーを食べながら明るく振る舞っている彼女からは想像しにくい事実だった。


「制服、似合ってた」


「セーラー服が憧れだったみたいでな。でも腐ってはいないんだぜ。家事は全部一人でやって勉強もしてるんだ。高校では友達百人作るってバカなこと言ってる。来年からはうまくいってくれればいいんだけど」


 あの年齢でしっかりしていると思った。同じ年齢だった頃の世理は、来年どころか明日すら見えていなかった。希望なんてものがこの世にあるとすら思っていなかった。


「……大丈夫だよ。時間をあけて、適切な場所を選べば」


 人をこぞって否定する者たちは総じて飽きやすい。他人が忘れてくれる時間をとって、自分を誰も知らない場所に行けば人並みの生活は送れる。学校にも行けるし、友達だってきっと出来るだろう。現在の世理がそれを体現していた。


「なんだが、専門家みたい言い回しだな」


 世理は肩をすくめてみせた。ただの経験則だ。好きで経験したわけでもない。


「橘君のお父さんのことと、春海とは何か関係がある?」


「やっぱ自然には見えないか」

 

 無念そうに京也はつぶやいた。

 聞くつもりはなかったのだけど、ここまで父親のことを話したのだ。今さら気を遣うもなにもないと思った。


「他人の子を預かってるっていうのはいい過ぎになるけど、家族にしては懐いてなさ過ぎるって印象かな」


 春海をよく観察すると、京也たちを嫌っているというよりどう接したらいいかわからず戸惑っているという風に見えた。教室にやってきた転校生の初日といった感じである。世理がそこまで伝えると、京也は「遠からずだな」と苦笑いした。


「ざっくりいうと……母親が違うんだよ。春海の話だとあいつの母親はうちにくる途中まで一緒に来てたらしいんだけど、春海を置いてそのままドロン。ご丁寧に親父とのDNA鑑定書付きでな。最初はギャグかと思った」


「……探したの?」


「最初はな。でも探したところでどうなのよって話になって。簡単に子どもを手放す親だ。そいつに春海を引き渡すことが、春海を不幸にする選択肢につながるかもしれない。だったら……一緒に住もうって皆で決めたんだ」


「……」


 どんな世界でも一割のクズというのは存在するものである。

 百人いれば十人が。千人いれば百人が。一億人いれば一千万人が。日本という国で見れば約一千万人以上のクズがいるということになるのだ。この狭い島国でそうしたクズが親戚や近所にいても不思議ではない。はらわたが煮えくりかえっているのがわかった。


「あれ雨宮、怒ってる?」


「別に」


 彼のなかではもう終わった感情なのだろう。京也は空を見上げながら続けた。


「春海はさ。自分が捨てられたって自覚がきっとあって、俺らを家族とは素直に思えないんだと思うんだよな。だから、初めてだったんだ。あいつがワガママ言ったの」


「私と離れたくないって?」


「そう」


「だから、あんなに頭下げたのね」


「悪かったよ、必死だったんだ」


 橘京也は穏やかに笑う。楽しそうに嘘のない、陰のない笑顔で。


「橘くんは、家族が好きなんだね」


「誰だって好きじゃないのか。まぁ喧嘩したりムカつくことはあるけどさ」


「お父さんのことも?」


 ひどく意地悪な質問だったと思う。けれど京也が少しだけ間を空けたあとで

「あいつは家族じゃないよ」と言った。

 その一言には何も感情が含まれていなかったが、そこに至るまでの葛藤が透けて見えるようだった。苦悩が続いたはずだ。どうして自分がと逃げ出したいと思ったはずだ。

 けれど、彼はなれた。世理が辿り着けなかったものへ。


 決定的に、世理のなかでバラバラと何かが崩れ落ちていく。体温が急激に下がっていくのを自覚した。そんな世理の心の変化に気付かず京也は続けた。


「俺は、俺たちはあいつの帰ってくる場所になる気はない。家族を守るために俺がしっかりしないとって感じだな。割り切ったよ」


「……そう」


「まぁまずは春海に心開いてもらわないと守るも何もないんだがなぁ。今日の雨宮見てたら自信無くしたよ、初対面であれだもんな。子どもに好かれるのって才能なんかな、やっぱ」


 無意識に、世理は足を止めていた。数歩進んだあとで京也が振り返る。


「雨宮?」


 世理は前を向いていた。京也が立つずっと先に母の姿を視認する。

 割り切った、と京也は言った。出来るわけがないと思った。彼には出来ても私には。

 だって、私はあの人だから。


「春海が見ていたのは、私じゃないんだよ」


「雨宮じゃないなら、誰なんだ?」


 世理は応えなかった。

 どうしようもなく憎くても、どうしようもなく好きなあの人。ずっと憧れていたから、母から教えてもらう全てを血肉にした。

 それが雨宮世理だ。変わることなんてできやしない。

 もう全て、いまさらなのだ。


「……ごめん。もう、ここでいいから」


「家の前まで行くよ、この道暗いぜ」


「いいの。もうすこし行けば施設だから。あんまり人と帰ってるところ見られたくないの」


 児童養護施設の名を出すと大抵の人は、驚いたあとで同情か哀愁を漂わせる顔をする。侮蔑に取る大人も少なくなかった。けれど、京也は驚きはしたもののどれでもない表情をしてみせた。

 京也の脇を抜けて世理は、先に立ち続ける母の元へと歩いていく。母は無言で微笑むだけだった。

 そこで背中に声がかかった。


「雨宮、また飯食おうぜ。いつでも家こいよ」


 きっと彼は、家族にだけ向ける笑顔で言っている。

 もう一度だけその笑顔をみたいと思った。


 けれど、世理は振り向くことはしなかった。

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