第2話
音が遠くに聞こえる。
高校の授業が静寂に包まれることはない。
チョークとシャーペンの筆記音が響き、小声の話し声や笑い声は澄まさなくても聞こえてくる。初春を過ぎれば冬の足音はすっかりと消えてしまって、窓を開けるのが当たり前になった。外からはグラウンドのかけ声や車のエンジンノイズが春風に乗って室内へと入り込んできていた。
世理は教室で自分の席に座り、ただ前を見続けていた。教壇では初老の教師が何かを喋っていた。全ての音は無音にはならなくとも認識できない音量へと下がっている。半面、世理の意識ははっきりとしているのだ。無自覚に起きるこの奇妙な現象は頻繁にあることだった。初めて体験した日はいつだっただろうか。
『世理』
声が鮮明に届いた。呟くような細さなのに暴力と思わせるほど頭に割り込んでくる声。世理は投げ出していた五感を意識する。教師の隣りには母が立っていた。
教師もクラスメイトにも見えていない、世理だけが見える幻。
荻野玲子はあの頃と変わらぬ笑顔で世理を見つめていた。彼女は何かを求めて、世理に瞳を向けていた。
――わかってるよ、母さん。
心内で世理は応える。母が何を求めているのか世理はわかっていた。わかっている、というのは多少の語弊があるかもしれない。選択肢など最初から用意されていなくて、自分のすることは一つしかなかった。
「雨宮、雨宮世理。聞いているのか?」
教師に呼ばれた声で世理は持っていかれていた意識を完全に取り戻した。気付けばクラスメイトの視線もこちらに集中していることに気付く。
「……え?」
「なんだ、こっちを見てたから聞いたんだぞ。目を開けて寝てたのか、器用なやつだな」
クラスメイトからの笑いが起きる。
世理は「すみません」と言いながら作為的に微笑んで見せた。
母の姿は、もうどこにも見当たらなかった。
都立宮篠高校はどこにでもある平凡な公立高校だ。なんとなく進学し、なんとなく大学へ行く、裕福でも貧乏でもない家庭の子どもが集まる学校である。
世理が無意味に笑われた数学の時間が午前の最後の授業だった。チャイムが鳴るとあらかじめプログラムされていたかのように教師は授業を切り上げ、生徒たちは昼食へととりかかる。
特別なことがないありきたりな日常だった。世の中の高校生はこんな毎日を退屈に思い、自分の身に起きるドラマに想像力を働かせる。けれど、そんな劇的な事件は起きないのが現実だった。世理にとってはそちらの方がありがたい。目立たず静かにひっそりとしていたいというのが彼女の願いだった。そのために東京都のなかでも都心から離れたこの学校を選んだのだから。
世理は自分の席からは立たずに、鞄から自前のサンドウィッチが入ったランチボックスを取り出した。その際、鞄の底にある白い布で包まれた三十センチほどの物が目に入った。サイズ以上に重くて持ち歩くのが億劫になる代物だ。けれど手放すなんて出来るはずがなかった。
「世理ぃ、ご飯食ーべよ」
そう言って前の席に座ったのは
「相変わらず食べる量が少ないな、世理は」
呆れ口に隣りの椅子を持ってきて座るのは
孤立しないように、けれど親しくもならないようにと毎日を努めて過ごしていた世理だったが入学して以来、この二人とは親しい友人と呼べるまでの間柄になってしまっていた。
始まりは入学式の日に千尋が世理に何度も話しかけてきたからだっただろうか。千尋の幼なじみであった莉子とも知り合いになって、いつの間にか三人で行動することが多くなっていた。
「さっき湯川に弄られてたね。世理」
湯川とは先ほどの数学担当の初老教師である。莉子は不愉快さを全面に出して続けた。
「あいつ無駄に生徒と距離感縮めようとしてくるからキモいんだよね。特に女子に」
確かに湯川にはそういうところが散見して、女子からの評判はめっぽう悪い。女子のネットワークはクラスや仲の良さとは関係なしに広まるものだと知らないのだろう。
「まぁ、今回はぼーっとしてた私が悪いよ」
「世理って時々そういうところあるよな、心ここに在らずというか」
女子の弁当箱とは思えない大きさの量を食べながら千尋がいう。陸上部で活躍する彼女はよく食べる。
「そう?」
「そういうときは話しかけないでおこうっていうのが私たちの世理ルール」
うんうん、と莉子が何度も頷いて同意を示していた。
そこまで意識されているとは思っていなかった。注意しなければ、か。
「そんなことよりっ、報告があります」
莉子のはち切れんばかりの声に世理は首を傾げる。千尋はもう知っているのか、うんざりしたような顔つきになった。どうでもいい内容なのだということはわかった。
義務的に、一応聞く。
「何かあったの?」
「実はー、広瀬先輩にライン聞かれちゃったんだよねぇ」
「ヒロセ?」
千尋に問いかけの目を向けると「サッカー部の先輩」と教えてくれた。
「昨日ね、千尋の部活終わるの待ってたら声かけられちゃってさ。少し連絡し合って今度デートしようってことになって。前からかっこいいなって思ってたし。うひひ」
「へー、やったね」
なるべく感情を込めて言うも伝わらなかったようだ。莉子は世理を見て大袈裟にため息をついた。
「そこはいいなぁって言うくらいじゃないとだめよ、世理」
「ははっ昨日、私も同じこと言われたな」と千尋。
「あんた達は恋に無頓着過ぎるわ。本当に女子校生か?」
莉子は恋に生きる子だ。聞く限りでは失恋の方が多いがめげずに人を好きになるのは素直にすごいと世理は思ってた。
自分が誰かを好きになるなんて信じられないし気持ち悪い。ふと数年前のあの光景が目に浮かんだ。父を愛してやまなかった、母の姿が。
「……人を好きになるのは難しいよ」
「難しいって。好きな男とかいないわけ? 気になる程度でもいいからさ」
「いない」
「即答かよ」
莉子は芸人のようなオーバーリアクションで机を叩く。見かねた千尋が助け船を出した。
「優先順位があるんだよ。私はインターハイ出場目指してそれどころじゃないし。世理もいろいろあるだろ」
「まぁそうだね」
特に何をやっているわけでもないけど。
莉子はそれでも引かなかった。
「じゃあ、強いてあげるならっ! このクラスで付き合うとしたらっ」
「それを聞いてどうするの?」
「私だけ恋、恋、恋いっててバカみたい思えるの!」
今さらだと思うけどな。
世理は千尋と目を合わせたあと、二人して教室を見渡した。学食を利用したり、別のクラスに行ったりと教室に残っているクラスメイトは少ない。入学式の日から約一年をともにしたメンバーだが正直、世理には男子はみんな同じに見えて区別がつかないところがあった。
「私はいないなー、どうもガキに見えるんだよね、全員」
千尋の出した答えは、百パーセントの模範解答だった。ただ右に同じと言えば莉子先生の逆鱗に触れてしまいそうだ。
強いていうなら、か。
世理は教室にいた一人の男子に視線を送った。彼は自分の椅子に座り、丸くなって眠っていた。
「橘くん、とかかな」
恋愛的な意味ではないが、世理は橘京也を少し意識していた。
彼は授業中はよく寝てるし一人でいることの方が多い。学校が終わればすぐに帰ってしまうのだけど孤立しているわけではなく、話かけられればよく話すしよく笑うタイプだった。
ただ、意識したなによりの理由はその笑顔にどこか陰があったところである。気のせいかもしれないというほどの薄く小さなその陰はたまに、世理の目を引いたのだった。
「橘かぁ」
とりあえず男の名前を出せば喜ぶと思ったのに、莉子の反応は微妙なものだった。これが莉子だけならば「この子の好みではないのだな」と流すのだが、千尋も少しだけ苦い顔をしていたのが気になった。
「何かあるの?」
「何かってほどじゃないんだけど。あいつ私らと中学が同じでさ……」
そう応える千尋の歯切れは悪い。いつもはっきりと喋る彼女には珍しかった。
「別にいいでしょ、知ってるやつは知ってることなんだし」
莉子がそういうと、世理に少し身を寄せて小声で教えてくれた。
「橘の親父、刑務所入ってるんだよ」
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