マリオネットは求めない
名月 遙
第1話
遠くの星に手を伸ばす。
それは荻野
届かないことは知っている。けれど、触れないとわかっていても最初から諦めたくなんてなかった。だって、夢も願いも手を伸ばさなければ叶わないのだから。
この世理の根源的な思考は母の存在にあった。人として、女として完璧だった母は世理にとって最も近くにいながら最も遠くにいる理想の人だったのだ。
こんな大人になりたい。
そう思える存在が親であったことは、子どもにとって一番の幸福に違いなかった。
厳しくて、優しくて、一つの隙も見せない完璧なお母さん。
けれど、彼女にとってもっとも輝いていたその星は唐突に光を失った。あのとき目にしたものは、今でも身体に刻み込まれているように鮮明だった。
窓から差しこむ朝日と春のそよ風。生きているように波打つカーテンの向こうには温かな日の光が差しこんでいた。それでも室内は薄暗くて、まるで部屋全体がベールのようなもので覆われているように感じた。
その原因は鼻孔を刺激する腐臭にもあるかもしれない。腹に力を入れていなければ、胃液が逆流してくる錯覚に襲われた。
世理は両親の寝室に特別な思い出はなかった。母が添い寝をしてくれる場所は自分のベッドだったし、両親の布団にもぐり込むようなやんちゃな子どもでなかった。
だから初めてそれを見たとき、世理は異様とは思わなかった。こういう色だったっけ、と勝手に納得してしまっただけで。
並べられた二つのベッド。そのうちの一つは不気味なほど真っ赤に染まってしまっていた。
父が、鮮血のベッドで眠っている。傍らには世理が追いかけ続けていた母、玲子がいつもの笑顔で父の寝顔を見つめていた。玲子はベッドと同じ色に染まった細い手で父の頬に触れる。乾いているのか、父の頬に血はつかなかった。
彼女は愛おしそうに、情の灯った瞳を向けていた。
それは世理の知らない母の、いや女の顔だった。
「…………母、さん?」
辛うじて出た声は、自分の声とは思えないほどに渇いていた。
世理がやってきたことには気付いていたのだろう。玲子は永遠に眠ることを余儀なくされた父から目を離さずに言った。
「世理。今度の日曜日はピクニックに行きましょう。家族三人で一緒に。お弁当を作りましょうね」
世理の目はいつしか母親の手元の方へと向けられていた。
父の頬に触れていない方の手。何度も頭を撫でてもらった白く綺麗なその手には、映画で見るような軍用ナイフが握られていた。それはあまりにも不相応な物で、まるでそこだけが合成写真のように思えてしまう。
「きっと楽しいわ、きっと、きっとね」
きっと。きっと。きっと。きっと。
母はその言葉を壊れたCDのように繰り返す。
絶対に訪れない未来を夢見て。
世理はそこで静かに心を閉じた。もう何も見たくない。何も、聞きたくない。
その数年後、荻野世理は高校生となり、雨宮世理と名を変えた。
いつしか彼女は、夢も願いも何一つ求めなくなった。
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