第29話「覚醒」

 万策尽きたかの見えるミラたちの姿を三十キロ離れた別の山頂から眺めている者たちがいた。

 クリヤルタ山脈で最も標高の高い『クリヤルタの切っ先』に潜んでいるのは、アリテスタ王子率いるアザランド王国の蒼脈師小隊とルーシス公爵だ。


「やばい。超圧倒的すぎる。ここまで熱波が届いてきて頬が焼けそうに熱い。ミディア峡谷を地図から消し去った力、やはり超凄まじい。こちらの出る幕はないな。下手に出れば超やばい巻き添えを喰らうだけだ……」


 ルーシス公爵は髭についた氷と霜を指先で丁寧に取りながら破顔した。


「寧ろよくやったものですな。あの龍人を相手にここまでの損傷を与えるとは。ですがもうそれも終わりですな。あとはスカイギアもろとも消滅してしまうのみですな――」

 龍人から吹き上がる炎は、激しさを増して雪雲を穿ち、天空へと手を伸ばしている。




 ――私の仙法でも防ぎきれないわ……このままじゃカイとジュウロウも……。


 スカイギアの上甲板は赤熱化し、金属の膨張する音がミラの耳まで登ってきた。

 仙法の防御ももう限界。これ以上は耐えられない。

 ミラの膝が揺らいだ瞬間、スカイギアを飲み込まんとしていた炎は赤から紫へ、紫から茶へ色を変じさせ、崩れ落ちた。まるで酸を浴びた生物の皮膚が腐って溶けるかのような光景だ。

 かつん、こつん、ブーツの音が鳴らしながらリディアへ近づいていく者が一人。蠱惑的な鳶色の髪。紅玉を嵌め込んだように美しい瞳が紫色の光を纏っていた。


「大好きで大切な母さんでも――」


 その少女はミラとリディアの間に立ち、紫色の力場を纏った右腕をリディアへと向けた。


「アリアのミラ様を傷つけるのは許しません!」


 娘の登場は予期していなかったのだろう。アリアと相対するリディアの炎は、勢いを失っていた。

 アリアは、リディアの動きに警戒を配りつつ振り返り、ミラに微笑みかける。


「ミラ様、お怪我はありませんか」

「……ええ。あなたのおかげよ」


 龍脈を完全に制御できている。だが何が原因なのか分からない。


「アリア、あなたどうして龍脈を。完全に使いこなしているわ」


 いくら龍人と言えど、アリアの覚醒は不完全であった。これほど操れるようになるには相応の年月を必要とするはずだ。


「ミラ様を守りたいって思ったんです。それだけです。母さんの力を肌で感じて、アリアの中にある力にミラ様を守りたいって強く念じたんです」

「そ、そんなことで?」

「誰かを守りたいって思いはどんなことでも可能にしてしまうんです。ミラ様が教えてくれました。

「アリア……」


 純粋な龍人としての練度ではアリアはリディアに及ばないだろう。しかしリディアに残された母親の部分が娘への攻撃を躊躇させている。

 今のアリアなら状況を打開する切り札になりえる。アリアだからこそこの状況を突破できる。


「アリア、狙うのは機械の部分だけよ。あれさえ壊せば彼女の意識を覚醒させられる」

「はい。カイと……えっとなんでいるのか分からないけど、おじさまも下がってください! まだ力をうまく制御できませんので」

「だってよ、おじさま。下がるさね」

「その呼び方やめろォ! おめぇが言うとサブイボが立つァ!」


 三人が距離を取ったのを確認して、アリアが右腕を掲げる。表皮からポコポコと吹き出すように紫色の力場が膨らんでいく。

 アリアが右腕を打ち下ろすと、まるで粘性の強い薬液のように振るまいながらリディアを包み込んだ。力場に触れた瞬間、リディアを束縛している拘束具と制御装置は、千年の時を数瞬で経たかのように錆びつき、やがて液状化していく。

 凄まじい溶解力を誇るアリアの龍脈だったが、しかしリディアの身体に一切の変化はなく、むしろ縛から解き放たれる感覚に安堵しているかのように安らかな表情を浮かべていた。

 拘束具と制御装置が消滅すると、役目を果たしたアリアの龍脈が徐々に大気へ還元される。最後に残されたのは一糸まとわぬ姿で寝息を立てるリディアであった。


「アリア。これを着せてやれ」


 カイは、アリアに近付いて自身の上着を手渡した。


「ありがとうございます」


 受け取ったアリアは、リディアに駆け寄り、そっと抱き起こして上着を着せる。


「ア……リア?」


 焦点の定まらない瞳で我が子を映し、呟いた。リディアの問いに頷き、アリアは十五年ぶりに触れる母親の感触を両腕に刻み付ける。


「はい。アリアです……母さん」

「大きくなったね。一目でわかったよ……あたしのアリアだって」

「母さん……」

「俺の見立てでは大丈夫さね。すぐ動けるようになる。でも、今は無理をしてはいけません。眠ってください」


 カイの言う通り、リディアの血色は良好だ。やや弱弱しいが呼吸もしっかりしている。龍人の脅威を退けてスカイギアの上甲板に安堵の空気が流れつつあった。

 だがミラにはある予感が過ぎる。


 ――まだ終わってないわ。きっとまだ何か仕掛けてくる。




 三十キロ離れたクリヤルタの切っ先からスカイギアを見つめるアリテスタは、狼狽していた。


「超やばい……アリアのやつ龍人に覚醒した!? これは超やばい! 超やばすぎる!」


 こちらの最高戦力があっさりと無力化されたのだ。慌てふためくのは無理もないこと。だが最も痛手を負ったのは龍人を保有しているドラグヴァン帝国のルーシス公爵のはずだ。しかし彼には動揺が一切見られない。相も変わらずカモメ型の髭を指先で弄っている。


「ルーシス公爵! この超やばいすぎる状況! 超不利な状況で何髭遊びしてるんですか!?」


 アリテスタが苛立ちをぶつけると、ルーシスはカラカラと喉を鳴らした。


「御心配には及びませんな」


 懐に手を入れると、ルーシス公爵は白い球体を取り出した。一見すると掌大の球体だが、アリテスタの千里眼は常人では気取れない微細な部分をも認識している。球体の中心が拍動し、表面が蠢いていることを。


「ルーシス公爵……そ、それは?」

「私が開発を主導した新しいおもちゃですな」


 ルーシス公爵が掌の球体に軽く息を吹きかけると、球体はスカイギアを目指して飛翔した。不意を突かれたことに加えて、あまりの速度から千里眼をもってしても知覚は叶わない。


 ――やっぱり何かが来る!


 迫りくる異変にはスカイギアにいるミラも気付いていた。煮詰まった吐き気のような嫌悪感。背筋を凍った剣の刃で撫でられる不快感。白い球体はスカイギアに辿り着いた瞬間、弾けた。

 ミリミリと肉の筋が擦れ合う音を奏でながら白い球体は瞬く間に膨らみ、形作っていく。赤子のような腕を。丸太のような足を。肥えた男の胴体を。ぬらぬらと天を撫でる触手にくるまれた瞳のない相貌を。全身の肌は雪のように白く、そこを稲妻上に赤い亀裂が走っている。クリヤルタの山々に匹敵する巨体がスカイギアの鼻先に完成した。

 突如誕生した巨大な異形にミラたちは言葉を失った。しかし本能的な危機を察知し、上甲板から艦橋へ続く見張り台に飛び移り、水密扉を開けて艦橋へなだれ込んだ。


「姫様……あれはまさか」

「カイ、私もあなたと同意見よ」


 ミラにはある予感があった。あの怪物に関する正体に思い当たる節がある。だがそうであってほしくはない。予感が当たっているのだとすれば、事はミラたちの問題では済まない。もっと大きな単位、世界の均衡が崩れかねない事態である。


「なんてこと……そうであってほしくはないけれど、そうだとしか考えられない……邪神よ」


 邪神は、天に慈悲を乞うかのように両手を伸ばして吠えた。腐った肉が零れ落ちるような不快な音が空間を揺らしている。

 強大な異形。

 邪なる存在の復活。

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