第28話「開戦」

 アザランド王国とドラグヴァン帝国の国境を隔てる天然の城壁。それがクリヤルタ山脈だ。標高四千メートルの連なる山々の頂は、一年を通して雪に包まれている。今も剣のかけらのような雪が豪風に乗って山頂を吹き荒れている。

 クリヤルタ山脈で三番目に標高が高い通称『クリヤルタの剣』の上空百メートルでスカイギアは滞空している。上甲板にはミラ、カイ、ジュウロウの三人が各々の得物を携えて厚い雲に覆われた空を見つめている。

 待っていた。敵の襲来を。破滅の訪れを。

 そしてそれは雲間を切り裂き、姿を現した。

 龍人リディアが現れた瞬間、スカイギアの全砲門が一斉に砲声を轟かせる。すさまじい弾幕がリディアを撃ち落とさんと迫るが、リディアにかすりもせず雲の向こう側へと消えていく。これに最も驚いているのは三人の中で最も熟達した蒼脈師であるはずのジュウロウだった。


「自動制御とは言え、狙いは見事……悪くねェ。なのに、そいつをすいすい躱しやがらァ……化け物めェ。主殿、まじでやり合う気かァ? 自殺ならもっと楽な方法あるんじゃねぇかァ?」

「ここが最終目的地よ。ここで私は新しい国を創らなければならないの。ここでなければならないの。二人とも迎撃の準備を。間もなく弾幕を抜けて甲板に来るわ!」


 ミラの予測からコンマ一秒後、龍人リディアはスカイギアの対空兵装の着弾を一発として許さず、上甲板に着陸した。

 風雪にたなびく赤髪は、炎のように揺らめいている。口から洩れる呼気は煤の香りが混じっていた。間近で相対すると否応なしに理解させられる。絶望的な戦力差。生物としての格が違う。人などが及ぶべくもない脅威の顕現。眼前にいる者を形容するには化け物だとか、怪物なんて言葉じゃ役不足だ。

 十九年の人生の中で初めてミラは逃げ出したい衝動に駆られている。喉がひりつき、心臓が早鐘のように打つ。呼吸が乱れて、視界がかすむ。本能で理解してしまう。勝ち目のある相手ではないと。それでも理性と根性を総動員して自らを奮い立たせた。

 戦わなければ殴殺されるだけ。足掻かなければ死が待つだけ。恐怖など奥歯で挟み、食いしばって殺してしまえ。闘争に役に立つ感情以外の全てを放棄して、前へ出ろ。


「カイ、ジュウロウ。行くわよ」


 ミラが一歩前へ踏み出すと、カイは左手を懐に入れて青い薬液の入った小瓶を掌に持てるだけ取り出すと短剣で次々に切り裂き、ブラストスピアの連打を放つ。

空間中に存在する雪の結晶を射抜きながら突き進む光の槍の突撃隊は、リディアを囲むように突如現出した炎の壁に阻まれた。

 通常の炎ならば何の障害にもならない。だがリディアのそれは魔力で象られた槍をも焼き尽くし、後には塵ほどの蒼脈も残らなかった。


「俺の魔法を焼いた?」


 リディアの無感情が教えてくれる。表情を変える価値すらない矮小な一撃だったと。歯牙にもかけない小石のようなもの。道端を歩く蟻のほうがまだ驚異的。


「……だからどうしたさね」


 一歩でも退けば心が折れる。折らないためにカイは一歩踏み込んだ。常人ならば生涯を通じて一度も発揮することもなく終わるだろう膨大な勇気を注いだ一歩に、ミラとジュウロウが続いた。

 ジュウロウが引き金を引くと同時に、ミラは拳を握り固め、甲板の床板を蹴る。リディア目掛けて突進するミラを援護するかのように、ジュウロウの放った銃弾が迷路のように複雑な弾道を描き、リディアの周辺を飛び回った。さらに二発、三発、四発、五発、六発と銃撃を重ねていく。

 六つの弾頭は、光の領域まで加速され、リディアを囲む炎の隙間を掻い潜り、拘束具と制御装置の上から額・左胸・右大腿部・右脇腹・左上腕・鳩尾に着弾した。仙法を極限まで練り上げたカイの肉体をたやすく貫通した銃弾は、拘束具と制御装置は射抜いたもののリディアの薄皮一枚で止められている。


「まじかよォ、化け物めェ」


 直撃がノーダメージ。歴戦の戦士であるジュウロウにとっても初めての経験だったのだろう。苦笑の張り付いた顔に、冷や汗が噴き出している。

 そんな状況にあってもミラの速力はいささかも衰えておらず、カイもまた主を援護すべく薬瓶を次々に切り裂いていく。ブラストエッジ、ブラストスピアの連弾に加えてジュウロウの弾丸が再び炎の隙間を縫い、獲物を狙いすます。

 途切れることのない遠距離攻撃を流石にうっとうしく思ったのか、リディアの炎が鞭のようにしなり、カイの魔法とジュウロウの弾丸を次々に迎撃していく。

だがこれは予想通り。迎撃に炎を回した分、リディア本体のガードが薄くなっている。左の頬ががら空き。すかさずミラの右の鉄拳が気法特有の放電現象を纏い、リディアの左頬を打ち据えた。城壁をも砕く一撃に、リディアは身じろぎ一つしない。けれど左の唇の端から細い血の雫が流れ出る。


「気法なら通るわ!」


 打ち終わりと同時に、ミラは後退して間合いを広げた。無理な攻めをすれば即命を狩られる。多少の長期戦を覚悟して立ち回るのは最良の選択だ。

 こちらの破壊力は龍人にも通用する。ジュウロウもミラの拳の威力には面喰っているようだった。


「主殿、なんちゅー馬力だァ……おいらの弾丸を上回る威力かよォ」

「姫様の拳でもあの程度のダメージってことに俺は驚いてるがね。だがダメージはある。長期戦でもいいさね。奴を倒し得る」


 龍人が健在な限り、王国と帝国は兵を差し向けてはこない。いくら蒼脈師でも龍人と同じ戦場に放り込めば、攻撃の余波に晒され、敵ごと消し炭にされるのが目に見えている。増援は龍人が倒れるまでは来ない。アリアの母親だからと手心を加えている余裕はなく、許されるのは全身全霊をもって脅威を排除すること。


「姫様、俺も接近戦でいくさね!」


 カイが取り出した薬瓶には緑色の薬液が収められている。一見すると治癒魔法が収められた薬瓶とも取れるが、よくよく見れば力強さが違う。薬瓶を短剣で切り裂くと、刃に眩い緑色の閃光が塗布されていく。


「小僧、そいつは錬気法かァ?」

「調合が難しいんでとっておきの薬瓶さね」


 気法と魔法の同時行使により、達成される最凶の近接用戦闘術。その破壊力は通常の気法の数十倍以上。ファネルアの森で襲撃者と戦った際、砥汁ガエルを利用して使った錬気法とは比較にならない完成度は、まさに聖剣の領域。


「ほら、おっさん援護頼む。狙いを外して俺や姫様に当てるなよ」

「ぬかせや小僧ォ! 誰に口利いとるんじャ!」


 ジュウロウが弾倉に残った四発を撃ち尽くし、リロードを挟んだタイミングでカイは短剣を逆手に持ち直して突っ込んだ。

 リディアを守護する炎の鞭は、意志を持っているかのようにうねり、主を守らんと打ち下ろされる。カイは、踊るような身のこなしで鞭の警戒網を掻い潜り、間合いを詰めていく。

 距離が近付くと、鞭の迎撃は激しさを増し、吹雪の中であるにもかかわらず炎の熱気で汗が間欠泉のように吹き出して止まらない。とても仙法のガードで防ぎ切れる火力じゃなく、直撃を受けた後に残るのは一掴みの灰ぐらいだろう。

 カイの中に恐怖が湧き出し、撤退の誘惑を生みつつあった。だが信念で蓋をして押し潰した。この重圧の中でも炎を避けながら進むミラの姿がカイの瞳に映っていたからだ。

 王たる者、民を鼓舞して己が勇気を示すべし。道を切り開くのは王の役目。臆病風を許すな。絶えず先陣を切れ。ミラは、恐怖を完全に征服してリディアを射程内に収めた。


「こっちよ!」


 ミラの放った左拳がリディアの後頭部を激しく揺さぶった。数瞬、炎の動きが完全に静止する。すかさずカイは懐に飛び込み、制御装置の上から右胸に短剣を突き立てた。装置は容易く貫くも肝心のリディアの胸は恐ろしく固く、刃の半分ほどが沈み込んだ段階で筋肉の反発により、刃が止められる。

 それ以上押し込むことはせず短剣を引き抜いた勢いのまま∞の剣閃を描き、胸を守る拘束具と制御装置を刻んだ。

 リディアの照準がカイを定めると間髪入れずにミラの左右の拳が拘束具の上からリディアの背中を打ち抜いた。今度はミラを狙って振り返った瞬間、リディアの額を守っていた拘束具と制御装置が弾丸の直撃を受け、弾け飛ぶ。ジュウロウの操作する弾丸の仕業だ。

 僅かに生じた隙に乗じて、ミラとカイは、リディアとの間合いを広げた。

 少しずつだがダメージは蓄積できている。一発貰えば即座に天へ召される圧倒的不利な状況だが、勝ちの目が全く見えないわけじゃない。リディアを縛っている制御装置と拘束具を破壊すれば、彼女が本来持っている意識を覚醒させられるかもしれない。

 龍人の肉体は拘束具と制御装置よりも頑丈だ。だからこそ殺すつもりで攻撃をしても安心である。攻め続ければ突破口を開ける。そんな希望を打ち砕くように山脈が震えた。

 極大の猛炎がリディアの全身が迸り、飛翔するジュウロウの弾丸を気化させ、大気を焦がしていく。息をするだけで臓腑が炭になる熱量だ。一切の呼吸ができない。


「なんて炎なの……息が、できないわ……」


 ミラたちは仙法の出力を最大にして熱波から身を守ろうとするが、これもまるで意味を成さない。持ってあと数十秒。それまでに勝負を決さなければ甲板に三人分の影が刻まれる。

 だが近付けもしなければ遠距離攻撃も意味を成さない。魔法も龍脈の炎の前では油の染みた紙のようなもの。触れた途端に蒼脈すら残さず焼けてしまう。


 ――このままじゃ……やられるわ!!

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