第26話「薬学師の誓い」
スカイギア第四層に設置された集中治療室のベッドに人工呼吸器に繋がれたアリアが寝かせられている。数時間を要したカイの処置がようやく終わり、心拍脈拍共に安定していた。
「傷口は縫合したし、出血も収まった。姫様、もう大丈夫ですよ」
カイの言葉はミラの耳に届いていない。ベッドの傍らに跪き、アリアの手を握りしめて祈りを捧げていた。
「神様……どうかアリアを奪わないでください……アリアだけは」
ミラは、アリアを守ろうと決めて愛する父と決別した。祖国を裏切った。その結果が瀕死のアリアだ。
「ごめんなさい……たくさんの人を犠牲にして……あなたを苦しませただけだった! あなたの言う通りよ。村の人たちも大勢が犠牲になって……何も守れなかった! 私は本当に能なし姫だわ!」
結果的にアリアを傷つけてしまった。それはミラ・クーフィル・アザランドの心を折るには十分すぎた。
主君が心を砕かれた時、従者にできることはあまりに少ない。それでもあるとするならば、たった一つだけ。
「姫様」
主君に寄り添うこと。己の全てを以て。
「俺は、あなたに仕える薬学師です」
九年間、秘めてきた思いがある。初めて出会ったあの日に抱いてしまった抱くべきではない感情。カイは、ミラの傍らに跪き、頭を垂れた。
「そうでありながら、あなたに分不相応な思いを抱いております。初めて出会ったあの日からあなたをお慕いしておりました」
ミラの視線を感じてもカイは顔を上げず、金属の床を見つめ続けた。
「あなたはとても賢い方です。俺の想いなど見透かしておいででしょう」
誰よりも美しく誰よりも聡明な少女のことが愛おしくてたまらなかった。だけど彼女の最も強い魅力は――。
「賢く美しいあなたに恋をした。あなたの揺るがない信念を愛してしまった」
世界を敵に回してでも、たった一人の少女(アリア)を守ろうとする信念が気高く儚い。この人の役に立ちたいと思った。
「姫様。俺の愛する姫様は、アリアを守ろうとしてきた姫様です。そしてあなたはアリアをちゃんと守れています。あなたが連れ出さなければ今頃アリアは帝国に引き渡され、兵器になっていたでしょう。あなたが救ったんです。あなたがいたからアリアはここにいるんです」
「だけど私を庇ってアリアは……」
「アリアにとってもあなたは大切な人なんです。あなたは片時も離れず彼女の側にいて、アリアの孤独を埋めてきたじゃありませんか。アリアはあなたが大好きなんです」
「私なんか……何の役に立たないわ。あなたたちに好きでいてもらう資格なんてない……」
「愛されることに資格など必要ありません。俺はありのままのあなたをお慕いしているのです。誰よりも賢く、誰よりも美しく、誰もより優しいあなたを」
忘れもしない。最初に惹かれたのは出会い頭の言葉だった。
「姫様、あなたと私が初めてかわした言葉を覚えておいでですか?」
あの時ミラは、カイの耳元でこう告げた。
『あなた、私を殺しに来た暗殺者でしょ? 忍の里から送り込まれた』
一目で正体と任務を見抜かれてしまった。カイが太正国とドラグヴァン帝国から課せられた任務は、アザランド王国第一王女ミラ・クーフィル・アザランドの暗殺。そのためにカイはアザランド城に薬学師の見習いとして潜入したのだ。
太正国が風見鶏と揶揄されようとも、表向きは十三大国全てと友好条約と国交を結んでいる中立的且つ穏健な国家。アザランド王国と太正国の人材交流も盛んに行われていた。
そして当時のドラグヴァン帝国と帝国寄りの思想を持つ太正国の一部の為政者の策略を成す道具としてカイ・アスカは選ばれた。
けれど、カイが帯びた密命は、ミラによってあっという間見破られてしまった。死を覚悟したカイだったが――。
『あなたがそうなのね。一目でわかったわ。私にとって必要な人。いずれ私が成すべきことを助けてくれる人ね』
十歳にしてミラは、アザランド王国とドラグヴァン帝国の行く末とアリアの運命に気づいていた。自分よりも年若い少女の聡明さにカイは恐怖を抱くのではなく、憧れた。
そして自分を信用して必要な人だと声をかけてくれたことにどれほど救われたか。生みの親に捨てられ、育ての親にも捨て駒にされたカイにとって誰かに必要とされたのは、生涯無縁だと思っていた至福だった。
「姫様。あなたは俺が必要だと言ってくれました。俺にとってもあなたが必要なのです」
持てる全てを、存在そのものを捧げて奉仕したい。彼女の信念に忠義を尽くすために。
「姫様。俺はあなたにとっての良薬となり、あなたの敵にとっての毒薬となります。どうかお傍にお仕えさせてください」
カイが面を上げると、ミラの双眸が青い煌めきに揺れていた。
「ずっと前からあなたの気持ちを知っていたわ。あなたの気持ちを知りながら……利用する悪い姫だわ。ごめんなさい」
「あなたは国を治める君主です。悪女染みたところがなくては為政者などとても務まりません。正直なだけの君主に使えるほど俺は愚かじゃないですよ。それにあなたは俺のような身分が抱いてはならない分不相応な思いをこうして受け止めてくださる。俺にはそれだけで十分です」
「カイ」
瞳を閉じたミラの顔が近づき、カイの額に触れるような口づけが落とされた。柔らかな感触と気品に満ちた栗色の髪の香りにあらゆる感覚が奪われてしまう。
「今の私があなたにあげられるのは、これだけ……」
想像もしていなかった想い人の行為に頬が熱くなる。はにかみながら破顔したカイは、ミラと目線を合わせた。
「こんな素敵なものを贈られてしまっては一生お仕えしなければ、お返しできませんね。何なりとご命令を、我が主」
ミラは力強く立ち上がり、カイを見下ろした。
「汝の主君ミラ・クーフィル・アザランドが命ずる。生涯変わらず、我が最高の従者であれ」
「御意」
差し出されたミラの手をそっと取り、カイは手の甲に誓いの口付けをした。
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