第15話「霧蜘蛛」

 イズは生存を諦めた次の瞬間、浮遊感の正体を理解した。アリアに抱きかかえられ、蜘蛛の直下から脱出していることに。この事態に最も驚いているのはアリア自身であった。


「な、なんで? アリアは蒼脈を使えないはずなのに……どうして?」


 イズの悲鳴が鼓膜を揺らすと同時にアリアは動いていた。ミラが制止する間もなくテントを飛び出し、巨大な蜘蛛の魔の手からイズを救い出していた。

 意識するより速く肉体が反応し、稼働する。蒼脈師と見紛う自分の身体能力を体感したアリアは困惑の渦に落とされた。

 そこに生じた隙を巨大な蜘蛛は見逃さない。八つの眼にアリアの姿を映し、樹齢数百年の大木染みた足をわしわしと動かして、霧をかき分けて間合いを詰めてくる。

 黒と白の縞模様を持つ甲殻を揺らして迫る巨体を突如閃光の豪雨が飲み干した。峡谷に反響する破裂音にアリアは思わず目を瞑る。


「アリア大丈夫!?」


 アリアがまぶたを開くと、そこには巨大な蜘蛛を見据えるミラとカイの姿があった。ミラは両の腕を手甲で包み、カイは短剣と小瓶を手にしている。両者ともに戦闘準備は万全だ。


「は、はい。アリアは平気です。だけどあの怪物はいったい何なんでしょうか?」


 この疑問に答えたのはカイであった。


「ファネルアの森に住む霧蜘蛛さね。こんなところまで出てくるとは」


 霧蜘蛛の八つの瞳は、ミラとカイを映していない。霧蜘蛛は、生まれながらに蒼脈を持つ生物。二人の強さは十二分に理解しているはず。しかし圧倒的な脅威よりも霧蜘蛛の注目を集めているのはアリアだった。


「ア、アリアを見てるんですか? なんで霧蜘蛛はアリアを?」


 状況を飲み込めずにいるアリアの背後で騒ぎを聞きつけた村人たちが霧蜘蛛を目の当たりにして悲鳴を上げていた。悲鳴が新たな悲鳴を連鎖させ、ミディア峡谷は戦火に焼かれたが如き騒乱に支配される。これ以上パニックが広がり、方々へ散られたら霧蜘蛛の餌食になりかねないうえ、こちらも周囲に気を配って、全力で戦えない。


「アリア! みんなを避難させてちょうだい! カイは私と一緒に」

「は、はい!」


 ミラの指示通り、アリアはイズを抱きかかえたまま村人たちの避難誘導を始めた。村人たちは突如現れた異形の姿に悲鳴を上げながらも、アリアの誘導に従いこの場を離れていく。

 村人たちの避難を確認したミラとカイは、改めて戦闘姿勢を取る。霧蜘蛛は本来分隊規模の蒼脈師が討伐に当たる蟲。二人で立ち回るには骨が折れる相手である。そして気がかりなのは霧蜘蛛がミディア峡谷まで出張ってきた理由だ。


「カイ。あれはファネルアの森からは出ないはずよね。どうしてここに?」

「さて、よっぽどうまい餌でも見つけたのかもしれんさね」


 カイは、村人たちを先導して霧蜘蛛から離れていくアリアの背中と霧蜘蛛の視線を見やる。やはり霧蜘蛛は、眼前のミラとカイより離れた場所にいるアリアを注視している。


「そういうことね。やっぱりアリアの力は覚醒しつつあるわ」

「とにかく駆除しましょう。放っておいたら一秒でここの全員が食い殺されちまうさね」


 先んじて動いたのはカイだった。仙法によって強化された脚力による跳躍は、一足飛びに霧蜘蛛の頭上を取った。

 手にしていた小瓶を短剣で切り裂くと、大気中に零れた魔力が鋭い光の槍と化し、群れた狼のように霧蜘蛛の甲殻に挑みかかった。岩盤だろうと貫く一撃は、甲殻に傷痕すら残せず爆ぜていく。


「さすがに硬いさね」


 再びの攻撃にさすがの霧蜘蛛もアリアからカイにターゲットを変更する。頭上を仰ぎ、カイを見つめるしぐさ。これをさせるためにカイは空中から攻撃した。地上から視線を外すためにあえて上を取った。

 八つの目をもってしても死角となった一番前の右足に拳を握り込んだミラが駆け寄る。二人の意図に気づいたのだろう。すぐさま霧蜘蛛は視線を落としたが、既にミラの拳は霧蜘蛛の右足を射程内に捉えていた。


 轟っ!


 放たれた右の拳が霧蜘蛛の右足を打ち据える。城壁をも砕く膂力の前に霧蜘蛛の甲殻はひび割れ、ひしゃげ、紫色の体液を迸らせた。

 痛みが走ったのか、破壊力に畏怖したのか。霧蜘蛛は殴り砕かれた右足を持ち上げながら一歩退いた。

 すかさずカイが懐から小瓶を取り出し切り裂くと、光の斬撃が夜風に乗ってはばたき、霧蜘蛛の目の一つを抉り取った。

 さらに一歩後退した霧蜘蛛に対して、カイはミラの隣に着地すると同時に小瓶を放り投げ、次々に切り裂いていく。

 斬撃・刺突・散弾。蒼い魔力光は清らかな流水のように姿を変えて霧の隙間を縫い、霧蜘蛛を襲う。いくら頑丈な甲殻と言えど、物質である以上は破壊できる。初撃は無傷で防げても何発も積み重ねれば擦り傷となり、やがてそれは致命傷へと昇華していく。

 飽和攻撃を耐えかねた霧蜘蛛は大きく口を開き、紫色に輝く液体を放射した。


「姫様避けろ!」


 カイの忠告を合図に、二人同時に後方へ飛び退くと、液体に触れた地面が刺激臭と共に腐っていく。

 霧蜘蛛は、生まれながらに毒の蒼脈を持つ生物。体内で生成された毒液を高圧で噴射する技は、この生物にとっての切り札だ。万が一直撃を受ければ治療の間もなく絶命が約束され、骨まで腐る。

 刺激臭が周囲に立ち込めていく。この匂いを嗅ぐだけでも並の生物は気管と肺をやられ、腐り溶けた自らの肉のシチューに溺れることとなる。


「姫様、あれはやばい。息しないでくださいよ」

「ええ。頼まれてもごめんだわ」


 二人が後退した分だけ、霧蜘蛛は巨大な足を戦慄かせる。片目と片足を破壊された手傷にもかかわらず、撤退の意思は感じられない。何としても獲物を仕留めようとする執念が伝わってくる。

 再び霧蜘蛛が口腔を開いた。喉の奥が紫色に輝いていく。すかさずミラとカイは間合いを詰め、霧蜘蛛の右足に狙いを定めた。先ほどミラが砕いた足だ。

 ひび割れにカイが短剣をねじ込みひねると、呻き声を上げながら霧蜘蛛が右足を振り上げんとする。しかしミラの両手腕が右足を抱き込んで許さない。主君が何をするのか察したのだろう、カイはすぐさま短剣を引き抜き飛び退いた。


「この!」


 ミラは全身全霊を両腕に込め、力いっぱい上体を右から左に回転させると、霧蜘蛛の右足の先端がバリバリと音を立ててねじ切れた。

 脚を失いバランスを崩した霧蜘蛛の顎が下がる。すかさずミラは、両腕に抱えた霧蜘蛛の足の先端を口腔目掛けて投げ入れた。たまらず霧蜘蛛はのけぞり、仰向けに倒れ伏す。

 腹も甲殻に守られているが、背中ほど頑丈ではない。疾風と見紛う身のこなしで跳躍したカイは、短剣の切っ先で腹の甲殻の隙間を狙いすました。

 しかし霧蜘蛛も諦めてはいない。口腔を開き、喉の奥が紫色に輝き出す。毒液を吐く用意だ。身体をひねり空中で方向転換しようとしたカイを無数の糸が包囲する。

 霧蜘蛛の尻の先端から夥しい量の糸が飛び出ていた。蒼脈を増幅する効果を持つ糸。霧蜘蛛の切り札。毒液もまた蒼脈によって生成されたものだ。霧蜘蛛の糸の効果範囲内。そればかりか、霧蜘蛛の糸はこの毒液を増幅するために存在している。

 逃げ場は塞がれ、コンマ一秒後には毒液が噴射される。集落全体がさらに汚染され、あらゆる生物が数年にわたり生息不可能の環境ができあがるだろう。

 しかしカイに焦燥はない。死の包囲網の中で冷静かつ迅速に行動は起こされる。懐から取り出したのは青く透き通った薬液の入った小瓶。霧蜘蛛の毒液射出を遥かに凌ぐ起動速度で短剣を振るい、瓶を切り裂く。


「雷切瓶(ライトニングボトル)!」


 真っ二つに割れた瓶から迸るのは極大の稲妻だった。無頼にふるまう雷撃は、霧蜘蛛の糸を伝わり、その規模を加速度的に増大させていく。

 極限まで増幅された蒼い電光が霧蜘蛛の全身と繰り出した糸の両方を焦がし、内臓の焼ける酸っぱい匂いと耳をつんざく爆音が峡谷を支配した。


「蒼脈を増幅する効果があだになったさね。だが、お前さんは薬学師にとっては重宝する存在。だからこそ生態を熟知してるのさね」


 本来は霧蜘蛛の毒ブレスを強化するための布石としての糸。だが先に利用してしまえば痛撃の導火線にしかならない。戦闘において重要なのは敵を知る知識とそれを戦術に生かす工夫だ。


「お前さんの腹にはでかい血管が通ってる」


 落下の衝撃を生かしつつ短剣を突き立てんと振るい上げた。


「そこに短剣をぶっ刺せば――」

「退きなさいカイ!」


 突如聞こえたミラの声にカイは、攻撃を中止して霧蜘蛛の腹へ着地して振り返った。そこには地面に向けた右拳を肩の高さまで思い切り引いて構えるミラの姿があった。


「姫様!?」


 カイは、即座に霧蜘蛛の腹を蹴り、空中へ逃れた。


「蒼脈式魔法――地爆拳(じばくけん)!」


 カイが安全高度に到達するのを確認したミラの右拳が地面で叩く。拳を起点として亀裂上の青い輝きが地面を光の速さで駆け抜けて霧蜘蛛の真下に到達した瞬間、破壊的な奔流が大地を突き破り、噴出した。

 直撃を受けた霧蜘蛛の巨体が突風に吹かれた土人形のように脆く崩れ去り、空に舞い上げられた大量の肉片と流血が隕石のように降り注いだ。

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