第14話「夢」

 ミディア峡谷が夕日からたなびく紅のベールで包まれていく。体調の急変から六時間。簡易診療所のベッドの上でアリアは眠り続けている。

 ミラは、片時もアリアから離れず、ベッドの傍らへ跪き、両手で祈るようにアリアの手を握りしめていた。そんな主にカイもまた寄り添い、幾度目になるか分からない励ましを口にした。


「大丈夫ですよ」


 カイは、ミラの隣にしゃがみ込んで肩に手を置き、幼子を宥めるようにさすった。大した意味もないと知りながらカイはそうせざるを得なかった。


「でも、早すぎるわ……まさかこんなに」

「覚悟していたことでしょう?」


 一転してカイの声色が冷めた。主を律するように。弱音を諫めるように。


「ここにアリアを連れてくれば、おそらくこうなると予想したのはあんたです。スカイギアがこの土地に眠っているのはある意味で運命さね。アリアを救うために必要なスカイギアが、アリアの『覚醒』を促す土地に眠っている」

「だけど、こんな苦しそうに……こんなに苦しめるなんて」


 本当ならば今すぐにでも抱きしめてやりたい。主従などかなぐり捨ててミラを慰めるためだけに自分の持てる全てを使いたい。だけどそれが適切でないこと、それが何より許されない行為だとカイは理解していた。

 必要なのはミラ・クーフィル・アザランドの信念が折れぬよう叱咤すること。折れることを許さないこと。いかなる障害が立ちはだかろうと、いかなる困難を前にしようと、信念を曲げさせないことだ。


「今更揺らいではなりません。信念を曲げてはなりません。これを成し遂げられるのはあんただけさね。俺じゃない。あんたさね。あんただけなのさね」


 カイに課せられた期待を、ミラは身じろぎ一つせずに受け止めた。


「……分かってるわ」


 アリアの手を離し、そっとベッドに戻してミラは立ち上がり、カイを見下ろした。

 カイは、ミラを見上げながら彼女の手を取り、手の甲に口づけを落とした。


「姫様、あんたが作った舞台です。俺はあんたに与えられた役を演じ切ります。あんたも演じきってください。あんたが主役で監督の舞台です」

「ええ。演じ切って見せるわ。あなたたちにふさわしい主君であるために」


 ミラの誓いに呼応するかのように、アリアの閉じた瞳から涙が零れ落ちる。その輝きは紅玉のそれに紫水晶の色味であった。




 寂しくて悲しくて苦しい日、いつもアリアは夢を見る。燃えるような深紅の髪が印象的な女性の夢。とても懐かしい気がするそんな夢。


「母さん」

「どうしたのアリア。怖い夢でも見たの?」


 その女性はいつも、アリアが悲しそうにしていると抱き寄せて、肩を枕にしてくれる。温かい温度と花のような甘い香りは、どんなにささくれた心でも癒してくれた。


「大丈夫。あたしがいるから大丈夫。怖いやつなんか母さんがやっつけてやる」

「母さんが?」

「そうだよ。母さんはすっごく強いんだから」

「ほんと?」

「うん。でもね。アリアはもっと強いんだよ」

「アリアが?」

「うん。アリアの力は特別な力。簡単に使っちゃいけないよ。そうだね。使っていいのは一番大切なモノを守る時。その時は躊躇せずに使いなさい。母さんと約束だよ」

「うん。約束」

「いい子だ」


 幼い時分に交わした約束が本当にあったことなのかは分からない。それでもアリアはこの夢を大切していた。もはや髪の色以外に思い出せない母との思い出のような気がするから――。




 ミディア峡谷が夜闇の生み出す黒い海にとっぷりと沈んでいる。月明りも谷間を流れる深い霧に遮られて、いつもより頼りない。

 イズは質素な木皿を三つ持ち、ミラたちのいるテントを目指して歩いていた。


「村長は持って行けっていうけど……王家の人だもんなぁ、口には合わないよな」

皿の上には水気を失い、木の板みたいになったパンがひと切れずつと、ぼろ紙のように薄いベーコンが一枚ずつ乗せられている。


 さもしくて食事と呼ぶことすらおこがましく感じられる品目だったが、イズたち村人にとっては治療に対する最大限の感謝の印だ。


「それにしてもなんだこの霧。今までこんなのは……」


 濃霧に視界が塞がれて、三歩先の距離にあるものが見えるかも怪しい。イズがドラグヴァン帝国からミディア峡谷に移り住んでから霧が発生したのは片手で数えるほど。ましてや峡谷が埋め尽くされる事態は初めてだった。


「なんだか不気味だなぁ――」


 ざくり。ざくり。音がした。

 土を抉るような岩を切り裂くような音が規則的に鳴っている。


「な、なんだこの音」


 これまで経験したことのない音だ。徐々に近づいてきている。

 ぎち。ぎち。木の幹が軋むような音がイズの頭上から雨粒のように落ちてくる。

恐る恐る見上げると、八つの巨大な月が煌々と照り、こちらを見下ろしていた。八つの月は横二列に規則正しく並び、目を開けていることを躊躇わせるほど強烈な光を放っていた。

 徐々に八つの月が地上に落ちてくる。緩慢だが一定のペースを保っていた。イズを着地点と定めているかのような動きだ。

 さっきまで聞こえていた二つの音は完全に消え失せている。霧に飲み干された峡谷は、音の出し方を忘れてしまったかのような無に包まれていた。


「なんだよ、あれ……」


 みち。みち。再び音がした。

 肉がはがれていくような、そんな音を纏って八つの月がイズの鼻先まで落ちてきた。次の瞬間、視界を埋め尽くしたのは無数の牙で飾られた口腔をばっくりと開く巨大な蜘蛛の顔だった。

 戦火に追われた時も、頭上を魔法と砲火が掠めた時もイズは死を実感していなかった。何とかなる。必ず生き延びられる。これを乗り切ればきっと輝かしい未来が待っている。そう信じて疑わなかった。


「……うわああああああ!」


 今日初めてイズは、自分の死を受け入れた。直後、イズの身体は浮遊感に襲われる。

 これが食われるという感覚か――。

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