第11話「ミディア峡谷」
ミディア峡谷の複雑に入り組んだ地形は、人の侵入を拒絶する。蒼脈師であれば話も別だが、蒼脈を持たない者にとってこの道は過酷だ。けれどアリアは文句のひとつも言わず、大きな背嚢を背負った状態でミラとカイについてくる。
蒼脈こそ持たないアリアだったが、人間離れした身体能力の持ち主で、単純な腕力なら半端な蒼脈師相手ならば負けない代物だ。
不安定な岩場を山羊のようにすいすいと進みながらもアリアの表情は暗い。ミラがちらちらと様子を窺っていると、アリアと目があった。紅の瞳の奥に不信の黒が渦巻いている。
「ミラ様、アリアはどうしてもお聞きしたいことがあります」
ファネルアの森の一件以来、アリアからミラに声をかけてきたのは初めてだ。
「なにかしら?」
「……なんで、あの二人を殺したんですか?」
「それは……」
理由は、それとなく察しているだろう。それでもアリアが欲しいのはミラの口から語られる言葉だ。襲撃者の口にした化け物の意味だ。
彼等の口をふさぐのが遅かった。化け物なんて言い出す前に殺してしまえばよかったのに、いざとなると躊躇してしまった。どんなことでもすると覚悟を決めていたのに、他者の命を奪う瞬間が現実となってそびえ立った時、思考の歯車が錆びついた。
命を奪った罪悪感より、判断が遅れた後悔のほうが強い。アリアが抱いた不信感を払しょくするには、真実を話す以外にないだろう。間もなくスカイギアに辿り着ける。真実を話すか?
いや、まだ早い。無理やりな誤魔化しでもいい。とにかく今はまだ話す時ではない。
ミラは、右手の人差し指を指揮棒のようにひらひらと振るい、リズムに合わせるように舌を躍らせた。
「生かして帰せば追ってくるわ」
声が震えないように、嘘を見抜かれないように、紡いでいく。
「戦った時、こちらの情報も相当収集されたし、殺すしかなかったのよ」
真っ当な理屈。妥当な理由。あの行動は間違っていない。正論ではある。けれどアリアは納得していないようだった。
「ミラ様どうしてですか?」
アリアの追及を見かねたのか、カイの掌がアリアの頭を軽く撫でた。
「好き好んでじゃないのは、お前さんにも分かるだろ」
カイがフォローに回ってくれたことに、ミラは胸を撫で下ろした。納得はしてくれなくともある程度留飲は下がるはず。そう踏んでいたが、予測が甘かったことを思い知らされる。
「アリアは、人が死ぬところを初めて見ましたし、ミラ様も人の命を奪うのは初めてですよね。それなのにどうしてミラ様はそんなに平然としていらっしゃるのですか?」
アリアは賢い。ミラの心の揺らし方を知っている。虚勢の鎧を着込んだところで一五年間、傍に居続けてくれた親友には通用しない。だとしても貫くしかなかった。
「私には覚悟があるのよ」
人を躊躇なく殺せる人間は二種類いる。殺人に快楽を見出す者。信念のために己の感情を殺し、非情を演じられる者。ミラは後者の人間にならなくてはならない。
ミーシャ・クーフィル・アザランドは一度決めた信念を必ず貫く人だった。あの人のようになるには、一度決めたら迷ってはいけない。迷いが弱さになると母は教えてくれた。
「城を出ると決めた時から、何を犠牲にしてもいい。私とアリアとカイを邪魔するどんな障害でも打ち砕いて進む。私はそう決めたわ。それが私の信念よ」
「何のためですか? アリアのためですか? あの人たちアリアのことを化け物って……」
「あなたは化け物じゃないわ。二度とそんな言葉を口にしないで」
「でも、どういう意味なんですか……意味もなく口にする言葉じゃないはずです」
知らないはず。知るはずがない。アリアが何者なのかを彼女自身が知っているはずが。
ある意味でアリアは、ミラ以上の箱入り娘だ。ミラよりも外の世界について知らない。アザランド王国がアリアに知る機会を与えなかったという方がより正確だ。
アリアの仕事は、朝起きて夜眠るまでミラの隣にいること。世話を焼くこと。話し相手になること。友達でいること。一般的な教育や教養は一切与えられず、仕込まれたのは家事全般とミラの身支度の整え方。
そんな立場にありながらもアリアのミラに対する愛情は本物だ。本物だからこそアリアは常にミラの振る舞いや言動に疑問を抱いた時は、まっすぐに気持ちをぶつけてくれた。
「アリアのためならこんなことやめてください。ミラ様は国王陛下に愛されていました。何不自由なく暮らしていたはずです。ミラ様より幸せな人は、この世界のどこにもいないでしょう。それなのに人の命を奪ってまで――」
「安寧を約束された幸せよりも、いばらの道であろうと避けられない信念があるのよ」
「それがアリアのためだと?」
「私自身のためよ――」
エゴなのは理解している。身勝手な気持ちを押し付けているのも分かっている。それでも親友を運命から守りたいと思ってしまった。守るために、ミラはここで辿り着いたのだ。
「二人とも着いたわ」
ミラが立っているのは断崖絶壁。眼下の谷底には細い川が流れており、傍らには小さな集落がある。目を凝らすと、支柱に布を被せただけの簡素なテントが数十張り、不規則に並んでいる。テントの外には人影もあり、目測で百数十人の姿を確認できた。汚染地域に人がいるだけでも驚くべきことだが、それにしても人数が多い。
この辺りに百人単位の人々が居住しているのはミラにとっても想定外であった。思わず眉をひそめてしまう。
「古い地図だからこの通りとは思っていなかったけれど……」
見渡す限り、スカイギアらしき物は見当たらなかった。地上にスカイギアがぽつんと置かれている状況を想定していたわけではない。これまで伝説とされてきた存在。残骸すら見つかっていないのだから、あるとすれば地面の下だ。
恐らく集落の彼等は、スカイギアの存在に気付いていない。知っていれば地上ではなく、地下に埋まっているスカイギアで暮らしているはずだ。そのほうが粗雑なテントより、雨風を凌ぐのに適しているだろう。
そもそも何故彼等は、龍の毒に汚染されているミディア峡谷で暮らしているのか?
男女比は均等。若者が一番多く、次いで子供、老人の順だ。遠目ではあるが、全員痩せこけているのがわかる。栄養状態は良くなさそうだ。二千年前の毒の影響で食べるものも少ないし、長期間の滞在は身体に悪影響を及ぼす。身なりもかなり見すぼらしい。ぼろ布を繋ぎ合わせて無理やり服の形を装っているようだった。
汚染地域として名高いミディア峡谷で暮らしているのだから相応の理由があるのだろう。問題は彼等がミラたちにとって敵か味方かだ。
「……んー。考えても仕方ないわね。とー!」
まるで子供がふざけて川に飛び込むかのように、ミラは崖から飛び降りた。
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