第10話「国王:ジャン・クーフィル・アザランド」
アザランド城最上階にあるジャン国王の寝室は、数人が手を広げて寝そべっても余裕がたっぷりあるベッドのサイズ以外は、異様なまでに質素であった。調度品も必要最低限の家具と机があるぐらいで、これも装飾が施されていないシンプルな品物だ。庶民でも手が届く安価な製品である。
机の上に亡き妻ミーシャや子供たちの写真が入った木製の写真入れが八つ、横一列に並んでいた。
ジャン・クーフィル・アザランド国王は、寝間着姿のままベッドの縁に腰掛け、机の写真に目をやりながら二つの氷嚢で顎を挟んでいる。ここ一週間の起床時の日課だ。
「さすが我が娘じゃ。あれから一週間も経つというに、まだ顎がガンガンする」
誇らしげに言ってのけるジャン国王に、側近の男はせき払いを一つ鳴らして跪いた。
「報告します。捜索部隊はミラ王女一行を発見できず。帝国から派遣された人員ですが――」
「殺されていたか?」
ジャン国王は、己の手柄であると言わんばかりの笑みで得意げに鼻を鳴らした。
「かなりの手練れと聞いてたが、やはりミラやカイには及ばんか。あれと対等にやり合える使い手は、我がアザランド王国にも数えるほどしかおらんからのう」
嬉々とした手つきで氷嚢を揉むジャン国王を、側近は上目遣いで見つめながらおずおずと口を開いた。
「恐れながら陛下。アリアを連れて行ったということは、ミラ様はこちらの狙いに気づいていると?」
愉悦に浸った微笑みを浮かべたジャン国王は、氷嚢でお手玉を始めた。
「信じられんという顔じゃな。あの能なし姫にそこまで回る頭はないと?」
側近の額からぞわりと汗が噴き出した。すぐさま低頭し、赤い絨毯に額をこすりつける。
「いえ! そのようなことは一切」
「よいよい。気にするでない」
お手玉をやめたジャン国王は、氷嚢を床に投げ捨てた。破れた氷嚢からしみ出した水が絨毯に広がり、一段と濃い赤に染めていく。
「ミラがファネルアの森に居たという事実だけでも十分じゃ。あやつの目指している場所の見当もついたわい」
「ど、どこへ?」
「おそらくミラはファネルアの森を抜けて、邪神大戦跡地のミディア峡谷へ……」
ジャン国王は、にんまりと歯を見せて両手を合わせた。
「なるほど……まさかあんな場所にあったとはのう。いや、あんな場所だからか……」
「陛下……アリアを救うためとは言え、ミラ王女はいったい何のためにミディア峡谷など? あそこはいまだに龍の毒素が残っている汚染地域。数日の滞在であれば問題はないでしょうが、長時間留まれば……ミラ様と言えどそれはお分かりのはずです」
「お前さんも知っていような。わしが婿であることは」
ベッドから立ち上がったジャン国王は、朝の青々とした光が差し込む窓の前に立った。
「わしは公爵家の生まれではあるが、王家の直系ではない。故にわしには妻から、亡きミーシャ・クーフィル・アザランド女王からいくつか知らされておらんことがある。おそらくはその一つがあそこに」
「……その一つとは?」
「龍魔弾じゃよ」
「りゅ、龍の置き土産ですか! 悪夢の抑止力があんな場所に!?」
龍の吐息を再現した究極兵器。人類の後の歴史に大きな禍根を残すと知りながらも邪神駆逐のため、龍が人に与えざるを得なかった悪夢の兵器が『龍魔弾』である。その破壊力は、大陸の地形を変え、島国の国土を抉り抜くともされる。
現在の軍事力の定義は、軍に所属する蒼脈師の量と質に直結する。当然蒼脈師の数で劣れば防衛力でも劣るということになるが、そのギャップを埋めるのが龍魔弾による抑止力の構築だ。
十三大国は一国の例外もなく複数発の龍魔弾を保有。さらには十三大国以外の国家に所持と開発を禁じている。大国が独占し、小国には許さない。そして大国間には抑止力が働く。ガラス張りの平和を保つための軍事バランスの根幹を支えるのが龍魔弾だ。
「その悪夢を二千発保有しておる我が国は悪夢の主かのう。じゃがあれの価値は保有の数ではない。保有しているという証こそ、事実こそが武器じゃ」
龍魔弾保有国同士の戦争において最大のタブーは、龍魔弾による先制攻撃だ。龍魔弾の撃ち合いとなれば国民は破滅の息吹に身を焼かれる。
確かに国家の維持に蒼脈師という軍事力は欠かせず、蒼脈師は蒼脈を持たない者よりもあらゆる面で優遇されている。だが同時に蒼脈法を扱えない圧倒的大多数の国民による経済的あるいは文化的な営みが消失しても国家という概念は瓦解してしまう。
故にアザランド王国とドラグヴァン帝国の武力衝突も龍魔弾は用いてはいない。龍魔弾の応酬の果てにあるのは、敵国諸共自国までもが焦土と化す虚無だ。仮に自国の被害を最小限に抑えたとしても焦土と化した敵国では占領する価値も薄れるし、あらゆる資源が失われる。得られるモノがないのなら、血を流してまで戦争をする意義がない。
己が国を守る、そして戦勝国の利益を損なわぬため安易な手段に頼らない。これが王国と帝国が唯一同調している思想。龍魔弾を攻撃手段に用いない正しい戦争だ。
だが敵国に深く侵攻して形勢があまりに不利となれば、世界全体を道づれにしてでも龍魔弾を使用するかもしれない。その怯えが十八年の長きにわたる膠着状態という形になり、アザランド王国とドラグヴァン帝国を疲弊させたのだ。
「そう、龍魔弾とは大国にすら使用を躊躇わせる究極の切り札じゃ。保有したのが小国であっても大国は彼等との交渉のテーブルに乗らざるを得なくなり、同時に脅威ともなる。ミラの目的がアリアのための新しい国家の樹立。そして新国家の承認並びに体制保障だとすれば、十三大国と渡り合うためにも龍魔弾を求めるのは必然じゃ。とは言え、如何に龍魔弾と言えど、ただ手の内に保有しているだけでは宝の持ち腐れだのう。龍魔弾を発射する手段が必要じゃ……こうしたミラの目的を考えれば、あそこにはスカイギアが埋まっているのかもしれんのう」
ジャン国王の提示した可能性に、側近は訝しげな声音で叫んだ。
「スカイギア? ですが、あれは龍魔弾とは違い、実在したかすらあやふやなのでは?」
スカイギアが実在した証拠は何一つない。伝説の存在とされる龍が存在した証拠は、龍から授けられた蒼脈に、龍脈を用いる龍魔弾の製造方法。大地に還元された龍脈が長い年月をかけて結晶化した『龍脈石』など枚挙に暇がない。
だがスカイギアは違う。残骸や破片等、存在の痕跡が発見されていない。伝承以外に存在を証明するものがなく、今となっては子供でも信じるか怪しい伝説上の存在にすぎない。
しかしジャン国王は信じていた。ミラの一切の行動は、スカイギアの存在を前提としている。九年前亡くなったミーシャは、ミラを大層かわいがっていた。そのことからもミラにだけスカイギアの場所を教えた可能性は高い。
アザランド王国は、蒼脈を授かった十三人の英傑の一人が建立した十三大国の一つ。王家のごく一部の者たちがその存在を語り継いでいてもおかしくはない。
「恐らくはあるのじゃろう。そしてミラはある種の根拠があって行動しておる。スカイギアが実在したとしたら事は大変じゃ。なにせ相手は空を飛ぶ。どこから龍魔弾を撃たれるかわからん。飛ばれる前に仕留める必要があるのう」
「し、至急部隊を!」
跪いていた側近がすくっと立ち上がり、踵を返そうとした直前、ジャン国王が左手を上げこれを制した。
「待て待て。やめておけ。いくら貴様らが普段能なし能なしと馬鹿にしているミラとは言え、殺すのは忍びなかろう」
「そ、そのようなことは」
「隠さずともよい」
振り向いたジャン国王の表情は一見すれば柔らかい。しかし皮を一枚剥けばどんな感情が潜んでいるのか、長年使える側近に窺い知るのは容易であった。
「いかに能なしであろうとお前たちにとっては君主の娘。この国の第一王女じゃ。当然だが手が鈍る。わしが抹殺を命じたところで、王家の人間を手にかける覚悟がどれだけの兵にあるか……ならば汚れ仕事は任せようではないか。のうアリテスタ王子」
国王が一瞥した瞬間、寝室の扉を開き、一人の青年が足を踏み入れた。王家の証が左胸と背中に刻まれた白い装束に身を包み、美麗衆目な面立ちと長身痩躯の体型は、まるで庶民の抱く王子像をそのまま具現化したようだった。特に人目を引くのは、血で染めたように赤い白目と紫色の虹彩を持つ右目である。対照的に、左目はごく普通の碧眼だ。
「父上。アリテスタ・クーフィル・アザランド参りました」
アリテスタは、ジャン国王の前で跪き、右手の甲に口づけを落として立ち上がった。
鬱陶しげに右手の甲を寝間着で拭ってから、ジャン国王は辟易と嘆息を漏らした。
「のぞき見は趣味が悪いと言っておろうが。いくらお前の目が特別だとしてもじゃ」
「父上!」
焔のような熱気を放ってアリテスタが一歩踏み込んでくる。国王は顔を背けながら唇を歪ませた。
「なんじゃい騒々しい。相変わらずお前さんは爽やかな顔の割に性格が暑苦しいのう。イメージは大切じゃ。もうちっと王子らしく涼しげに立ち振る舞わんか」
「わたくしめにミラ王女の一件、お任せいただけないでしょうか?」
アリテスタはミラより二つ年下のアザランド王家の長男だ。幼い頃から長男であろうと肩を張っていたせいか文武共に優れながらも、ミラへの根強い対抗意識と融通の利きにくい性格を併せ持った青年に育ってしまった。
「長男の面目を立てたいというところか」
「超立てたいです!」
生真面目な性質とは裏腹のアリテスタの珍妙な口癖に、ジャン国王の纏っていた威厳は綺麗に剥がれ落ち、不出来な息子を見守る父親の顔になっていた。
「……品がないから超をつけるなと、いつも言っとるじゃろうが」
「超失礼しました」
「……まぁ、よいわ。確かにお前なら姉相手に剣が鈍ることはなかろう。そしてお前の〝右目〟は唯一無二。確かに適任じゃ」
国王の子供は計七名。中でもアリテスタが群を抜いているのは間違いない。右目に秘めた異能は、先代女王ミーシャ・クーフィル・アザランドから受け継いだものなのだから。
「いいじゃろう。行け。ただし行くのはもう少し後じゃ」
ジャン国王の意を図りかねたのか、アリテスタは首を傾げた。
「……と言いますと?」
「言ったではないか。汚れ仕事をやってもらうとな。帝国側にこの情報を知らせよ」
「父上!? 帝国に貸しを作るのは超賢明ではないかと!」
「じゃから超をつけるなと……」
「いくら休戦中とはいえ、超野蛮な帝国のこと! 連中がいつ牙を剥くともしれません!」
「アリテスタ」
荘厳な王の声がアリテスタを竦ませた。血を分けた肉親でも逆らえば喉を切り裂かれる。そんな予感をさせる気配がジャン国王の双眸に宿っていた。
「父の言うことが聞けぬか?」
「い、いえ! 滅相もありません!」
一転、国王は好々爺の軽薄さを取り戻して、アリテスタの頭を両手でガシガシと撫でた。
「そうじゃ。お前はいい子じゃ。ミラならば逆らったろうがお前はわしの言うことに背かず疑わず迷わず、素直に聞くいい子じゃ」
アリテスタの頭を開放したジャン国王は、窓越しに煉瓦造りの建物が居並び、迷路のように線路が走る城下町を見やった。
「帝国側に知らせれば、おそらくは『あれ』を投入してくるじゃろう。そうじゃ。蒼脈や龍魔弾に並び、帝国しか保有しておらん龍の遺物をのう」
あれ。この単語が何を指すのか理解したのだろう。アリテスタの白い肌は、真冬に実るアザランドの名産品、青苺のように冷めていった。
「父上! まさか超やばいあれが生きていると!? ですがあれは十五年前にこちらの蒼脈師部隊が……」
「不完全ながら修復が完了した……という情報は耳に入っておる。じゃがまだ調整段階、実戦でのテストもしたかろうて」
「いやいや! もしあれが生きているとして領土内であれが暴れたら超やばいですよ!」
「領土と言っても何もない峡谷じゃ。問題はあるまい。とにかく帝国にこの情報を知らせよ」
アリテスタに向き直ったジャン国王は、父親としての激励と王としての重圧を込めた掌を息子の両肩に置いた。
「王子よ。今後の判断はお前に任せる。お前が判断し、行動せよ。首尾よくやるのじゃ。この役目は『特別な目』を持ったお前にしか務まらん」
「はっ!」
ジャン国王の思いを感じ取ったのだろうか。それとも身勝手な対抗心か。アリテスタの右目は火花のような闘志を迸らせた。
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