第9話「姫と従者」
固形燃料の爆ぜる音がミディア峡谷に帳を下ろした夜気を切り裂き、カイの意識を覚醒させた。
周囲は棘や刃物のように鋭角な岩が複雑に入り組んだ地形で、一時間前ようやく見つけた小さな岩棚で三人は身を寄せ合って仮眠を取っている。
ファネルアの森を抜け、ミディア峡谷に辿り着いて今日で三日目。岩場を歩き続けたせいで、さすがに疲れがたまっているのだろう。見張り役を務めていたカイだったが、いつの間にか微睡の底に落ちていた。
「……懐かしい夢さね」
あくびを喉の奥に留めてカイは、両肩に感じる心地の良い重みに破顔した。右肩にはミラ、左肩にはアリアがそれぞれもたれ掛かっている。小さな声を漏らしてミラがまぶたを薄く開けた。
「カイ、大丈夫?」
「すみません。寝てたみたいです。起こしましたか?」
カイは、アリアを起こさないように極力絞った声量でミラに問いかけた。
「いえ……あなたの肩枕、寝心地悪くて。アリアの柔らかい肩とは違うわね。まるで鋼よ」
「だったら岩でも枕にして寝ますか? 鋼よりは柔らかいかもしれんさね」
「いやよ」
「なら文句言うな」
ファネルアの森の一件からミラとアリアの間には溝ができてしまった。特にアリアの拒絶が根強い。人が死ぬ場面を見たせいではない。ミラが人を殺したショックのほうが大きいのだろう。あれ以降の道中、二人はほとんど口を利いていない。
現在三人は、ミディア渓谷を南下している。未だに二千年前の龍の毒が影響しており、峡谷には枯草や蟲の一匹すら見られない。またファネルアの森とは打って変わって身を隠せる場所にも乏しく、常に周辺警戒と緊張を強いられる。
捜索隊とニアミスしたのも一度や二度ではない。その度に幻鈴花の煙に包まれて、難を逃れたが固形燃料は今燃やしているもので最後だ。
魔力漬けの花弁はまだ十二分に残っているが、幻鈴花はアザランド王国の領土にはほとんど自生していない貴重品。道中での補給ができないことを考えると、いざという時を考えてこれ以上は使えない。目的地は目と鼻の先。楽観視はできないが、悲観は旅路の足を引っ張るだけだ。幻鈴花なしでもうまくやり過ごすしかない。
「ねぇカイ。夢を見ていた?」
ミラの指先がカイの上着の袖をそっとつまんだ。
「寝言でも言ってましたか?」
「ええ。どんな夢?」
「……あなたと初めて出会った日の夢ですよ」
「あの時のあなたは覚えているわ。すぐに私を殺そうとしているんだってわかったわ」
「気配は隠したつもりだったんですがね」
「大抵の人間は騙せるわ。でも、私は感じてしまったの」
「何を?」
「恐怖よ。人を……殺すこと」
象牙のように滑らかな指先は、かすかに震えている。自らの行いを思い返しているのだ。
「あなたはまるで手負いの獣だったわ。怖がっている子犬にできることは安心を与えて愛を教えることだけよ」
カイは、震えるミラの指先に手を伸ばしたかった。けれど分不相応な行いだとすぐさま理解し、感情に鍵を掛けて魂の奥底にしまい込んだ。
「……俺もすっかり飼いならされたってわけさね」
「私の美貌にね」
「そうですね……すっかり悩殺されましたよ」
「悩殺も大変だったわ。あなた、見た目は子犬でも中身は狼だもの」
「その割には安心して人の肩で寝てますね。もしかしたら九年越しに寝首を掻くかもしれんさね」
「あら、怖いわね。あなたはそんなに悪い暗殺者さんだったのかしら?」
「そうですよ。俺は悪党なんです」
「悪党は私よ……裏切らせてごめんなさい。祖国を……故郷を」
やっぱりこの人はいつでもこうだ。こうやって優しいところを見せる。今一番辛いのは自分だろうに。
「そうさね。城の中に入って王女を暗殺。成功したとして俺はまず生還できない。先に切り捨てたのは向こうさね。俺が切り捨てても文句は言わせんよ」
「そういうところよ。あなたのそういうところを私は信用してるもの。信頼してるもの。私の大切な人よ、あなたは」
彼女の言葉はカイにとって蜜だ。一度味わうと二度目三度目を求めずにはいられなくなる。再び甘美で喉を潤したい欲求が生じ、離れがたくさせる。大口を開いて蜜が零れるのを待つだけになる。蜜は最も残酷で慈愛に満ちた依存性の高い毒だ。自覚しているのか、それとも無自覚か。どちらにせよミラの言の葉は、人の倫理を狂わせる。
「確かにあんたは悪党さね……とにかく寝てください」
「見張り替わりましょうか?」
「俺のほうが夜目が利くんでね。それに明日は忙しくなるさね」
「ええ、そうね……見張りありがとう。おやすみなさい」
これだ。いくら九年の付き合いとは言え、自分を暗殺しようとした人間の肩で躊躇なく眠れる。こんな風に無防備な姿をさらされると、彼女の信頼が根深いものだと知らしめられる。今なら命を奪うのも唇を奪うのも容易い。
「まぁ、どっちもせんがね」
この人の信頼だけは裏切ってはいけない。
「夜が明ければ日が沈む前に目的地へ着ける」
実在するかもあやふやと言われている伝説の飛行要塞スカイギア。しかしミラが存在するのだと信じるならば主君を信じ、主君に忠義を尽くすのがカイ・アスカの曲げられない信念だ。
「問題は、ジャン陛下。あなたがどう動くかさね」
反逆姫にとって、最大の障害にして最強の敵。その魔手がすぐ傍まで忍び寄っているのだとカイの直感が叫んでいた。
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