第7話「豹変」

 気を失っている襲撃者を連れてミラ一行が十五分ほど木々の間をすり抜けるように歩いて戦闘の痕が残る地点を離れると、霧蜘蛛の糸に塗れた古木の密集している場所に辿り着く。

 カイは、背負った襲撃者兄弟を地面に投げ捨て、両肩を心地よさそうに回した。


「さて、焚火は間に合わないし、ここで幻鈴花を大量に使うのも……アリア、背嚢の中にある特製固形燃料取ってくれ」

「は、はい」


 アリアが背嚢から青い円状の固形燃料と折り畳み式の鉄皿を取り出し、カイに投げて渡す。


「すまんね」


 カイは鉄皿を手早く組み立て、固形燃料をセットすると懐からマッチを取り出して着火した。煙草のそれのような煙が周囲に充満して、ようやくカイは一息つき、その場に座り込んだ。


「これで一安心です。しばらくはここでやり過ごしましょう」

「ねぇカイ? さっきは、いったい何をしたのかしら? 説明してくれない?」


 カイが戦いながら何か仕掛けをしているとは予想していたが、風の暴走はミラにとって想定外だった。


「そいつはですね――」


 カイは懐から空の小瓶を取り出した。紫色の薬液が数滴だけ残されている。


「この薬液は、干渉制御魔法と同じ効果があるんです。そしてファネルアの森に多く生息している霧蜘蛛の巣には蒼脈を伝搬し、増幅する作用がある」


 敵が風の干渉制御魔法を使ってくるのは予想できた。それは敵が奇襲を仕掛けてくる直前のことだ。


「大気が揺れた。風のこすれ合う音も。あれは弟の殺気が無意識のうちに風に干渉してしまったせいで起きた現象です。優秀な干渉制御系の魔法使いにはよくあることさね」


 風を操る術に長け、風と一体化して戦うからこそ、風もまた術者の微細な感情の機微に反応してしまう。

 世界でも有数の使い手ともなればそうした自らの感情をも制御できるが、襲撃者弟は天賦の才に恵まれていても、まだその領域には達していない発展途上、未完の大器だったのだ。

 そして彼等と戦うには、このファネルアの森が絶好の場所であったのも勝利を得られた大きな要因である。


「本来ならこの一瓶で奴の制御能力は上回れない。ですが、これだけ大量の霧蜘蛛の糸がありますからね。一時的にこっちの制御能力が奴を上回ったってわけです」


 懐に空の小瓶をしまうのを合図に、アリアは震える唇を強引に動かして問い掛けてくる。


「カイ、この人たち何者ですか? こんな部隊の人たち城では見たことがありません……この黒い装束も……」


 アリアは数瞬の思案の後、自分なりの答えを絞り出した。


「まさか忍の者? 太正国にいるとされる戦闘集団! 暗殺を生業とする達人たち!」


 極東の島国太正国は十三大国の中で唯一の島国だ。四方を海に囲まれた列島を国土に持ち、蒼玉鋼と呼ばれる蒼脈法を増幅する特殊な金属を用いた武具を扱う蒼脈師を多く輩出している。

 アザランド王国とも二百年来の国交があり、人材交流が行われることも珍しくない。

 太正国で特に有名なのが、世界最強の戦闘集団と評される特殊部隊『狼牙隊』と隠れ里と呼ばれる土地に暮らす戦闘集団『忍の者』である。狼牙隊と忍の者は太正国と国交のある国々からの要請に応じて派遣されることもある。


「忍の者は世界中に潜伏しているとアリアは聞いたことがあります! この人たちもそうなんじゃ……」


 アリアの推理を真っ先に否定したのは、カイであった。


「二人とも忍の者じゃないさね」


 立ち上がったカイは短剣を鞘から抜いて、地面に転がっている兄弟に歩み寄る。


「俺は、あそこで育ったからよく分かる。忍は、こんなに間抜けじゃないさね。狼牙隊ともなればさらに上等な使い手しかいない」


 言いながら兄弟の被っている頭巾をはぎ取った。彫りが浅く黒髪と黒目が特徴的な太正人ではなく、両名とも白い肌と金色の髪を持ち、彫りが深い北方系の顔立ちである。

 カイは、兄弟の頬を叩いて目を覚まさせると、亀甲縛りに困惑する二人を尻目に短剣を兄の喉元に突き付けた。


「さて、あんたらに聞きたいことがあるんだが、素直にしゃべってもらえるかね? できればこっちも血生臭いのはごめんさね」


 兄に怯えはなく、まっすぐにカイを睨み返してくる。


「誰が吐くもの――」


 兄の決め台詞を断ち切るように、腹の虫の鳴き声がファネルアの森に木霊した。発生源である襲撃者弟に一同の視線が注がれたのは言うまでもない。


「弟よ、お前……」

「……ごめん兄者」

「だから朝ごはんはちゃんと食べろと毎日言っているのに……」


 緊迫した尋問の場面が仲の良い兄弟の会話になりつつある。しかもこの空気にカイまでもが流されそうになっていた。殺気を作り直そうとするも、ほわほわした雰囲気が邪魔してくる。


「緊張感のないやつさね……ある意味大物だがな」


 綿菓子のように緩んだ雰囲気の中、アリアは嬉々としながら両手を叩き合わせた。


「お腹が空いていては話をするのも億劫でしょう! アリアがお二人にご馳走します!」


 アリアは、背負っていた背嚢から食材と調理道具一式を取り出して、にまにまと口元を緩めた。


「実は食材も入れてきました」


 缶詰や干し肉でどれも長期保存に適したモノばかりだが、カイは良薬を口にした時のように苦々しい笑みを浮かべた。


「缶詰はかさばるし、痕跡残るから置いてこいって言ったのに」


 対するミラは、子犬でも愛でるかのようにアリアの頭を撫でている。


「さすが私のアリアだわ! 食の何たるかを心得ているのね! カイの食ゴミや食糞趣味に付き合わせるのはごめんだわ。二人を縛っているあの紐だって、ああするとうんこまみれの紐にしか見えないわ」


 ミラが指差した瞬間、襲撃者弟は顎が外れそうなほど大口を開けて慄いた。


「え!? うんこ!? この茶色いのうんこ!? うわああああ解いてくれ!」

「弟よ落ち着け! うんこでも乾いていれば肥料だ! 問題ない!」


 兄弟の反応を見て、ミラはドヤ顔で胸を張る。


「ほら、御覧なさいカイ。私の言っていることが正しいわ」

「いつか下克上してやるからな」

「楽しみにしてるわ。私の薬学師くん」


 二人がそんな会話をしている間に、アリアの調理の準備を進めている。トマト缶を開けて小さな鉄鍋に空けた。湧水石の入った水筒の水で缶を濯ぎ、残った汁も入れる。

 干し肉を調理用のナイフで細かく刻んで鍋に入れ、蓋をしてから固形燃料の火にかざした。

 五分も待つと、トマトと干し肉の香りが周囲に立ち込めてくる。

 鼻を鳴らして待ち遠しそうにする弟とは裏腹に、兄のほうは抜身の敵意をアリアにぶつけていた。


「こんなところでゆっくりしていると後悔するぞ。我々の仲間がお前たちを包囲している」


 短剣でぺちぺちと兄の頬を叩くカイの表情には余裕がたっぷり含まれている。


「仲間がいたら、お前たちと一緒に襲ってきてるはずさね。ファネルアの森に逃げ込んだのは狙いあってだ。ここは広大かつ密集した木々と霧蜘蛛の巣のせいで複雑怪奇な森。しかも霧蜘蛛を筆頭に強力な獣や蟲もいる。雑兵は徒党を組んで進行するしかないし、逆に手練れは広範囲を探索するために分かれなきゃならんさね」

「……匂いを辿れるものもいるぞ。それにさっき弟が起こした風や俺たちの錬気法の輝きも」

「あそこからそれなりに離れたし、あの固形燃料には幻鈴花という花を混ぜてある。料理の匂いや俺たちの姿は捜索隊にも見えんさね」

「幻鈴花?」

「増援は期待できないってことさね。諦めな」


 カイの態度から嘘を言っていないと判断したのだろう。襲撃者兄はそれ以上何も言わなかった。

 その直後、アリアが木のシチュー皿に完成したトマトスープをよそって襲撃者弟の口元にスプーンを差し出した。


「どうぞ召し上がってください。アリアが食べさせます」


 トマトの芳醇で爽やかな香りと干し肉のコクのある風味が湯気に乗って辺りに漂っている。赤い汁には干し肉から出た油の粒がわずかに浮いており、一層食欲を誘った。

 たまらない様子で口を開けた襲撃者弟を襲撃者兄の声が制した


「敵が作ったものなど食えるか! 毒が入っているに決まっている!」


 アリアは、むっと頬を膨らませて匙に乗ったスープを自分の口に入れた。


「失敬な。アリアの料理には毒なんか入っていませんよ」

「いいから私自慢のメイドの傑作を是非ご賞味あれ」


 ミラは輝く太陽みたいな笑顔を作ってスープを勧める。

 アリアがまずは弟にスープを飲ませ、次に兄も勧めたが口を開こうとしない。

 カイが短剣で頸動脈を突くと、ようやく観念したのか兄もスープを一匙口に含んだ。直後、兄弟は同時にスープを吐き出して、腹に焼けた鉄でも流し込まれたように苦しみ悶えた。


「弟よ! この完璧な見た目でどうやったら破滅的且つ冒涜的で名状しがたい味になるんだ!?」

「舌が溶ける! 味蕾が舌からはがれていくのがわかるよ兄者!」

「まずいんじゃない! これをまずいと呼ぶのはまずいという単語に失礼すぎる!」


 アリアは紅玉のような瞳から涙をぽろぽろとこぼし、幼子のようにしゃくりあげた。


「や、やっぱり……まずいですか?」

「まずいってレベルじゃないわ! 食材への侮辱!」


 兄の一撃が急所を捕らえたのか、ついにアリアはシチュー皿をそっと地面に置いてから、両手で顔を覆い蹲ってしまった。

 ミラは、アリアの背中を優しくなでながらシチュー皿を拾い上げ、襲撃者兄弟の前にしゃがみ込んだ。


「アリアそんなことないわよ。ねぇあなたたち?」

「まずいっつってんだろ!? 試しに自分で食ってみろ!」

「兄者の言う通りだ!」

「アリアを泣かせるんじゃないわよ。このおバカ!」


 襲撃者兄の顎を鷲掴みにして驚異的な握力で強引に口を開かせると、地面に置いたシチュー皿から休む間もなくトマトスープを押し込んでいく。成す術なくいいように弄ばれる兄に対して襲撃者弟ができるのは目を背けることだけだった。

 十匙を超え、二十匙を超え、スープが残り半分となったところで襲撃者兄はたまらず泣き喚いた。


「分かった話す! 何でも話すから! お願いです許してええええ! もう拷問スープは嫌だああああ!」

「さすがアリアの作る飯。見た目以外は拷問器具だとやつも認めたか。まぁ味が凄まじいだけで体に害はないさね。安心しろ」


 アリアの恨めし気な視線がカイの背中にチクチクと背中に刺さる。けれどカイは気にも留めずに腰を落として襲撃者兄と目線を合わせた。


「話しな。雇い主は?」


 襲撃者兄は、弟を一瞥する。弟が頷くのを確認してから兄は口を開いた。


「……俺たちは、ドラグヴァン帝国に雇われた」

「やっぱり……あなたたちはアリアを狙って」

「そうだ。そういえばお姫様、あんたは知ってるのか? そこのメシマズがどんな化け物か――」


 襲撃者兄の声を寸断するように、鮮血が古木の樹皮を染め上げた。ミラの繰り出した両拳が襲撃者兄弟の心臓に突き立てられている。


「……え?」


 目の前で起きた惨劇にアリアの理解は追いついていないようだった。首をかしげて鼻の頭と頬に返り血の化粧を施したミラの顔を見つめるばかりだ。


「……ミラ様?」


 次第に現実感を伴ってきたのだろう。呆然としたアリアの表情は恐怖と困惑が零れ始めていた。


「ミ、ミラ様!? な、なにを!? なにをしているんですか!?」


 ミラは、息絶えた兄弟の胸から拳を引き抜き、唇を強く噛んで震えを押し殺してから偽悪的な微笑を浮かべた。


「だって……情報を得たのよ。これ以上生かしておく意味はないわ。それに逃がすわけにもいかない。こちらの手札を知られたの」

「で、でも殺すこと……」

「ここに縛ったまま置いていけばいずれは霧蜘蛛の餌だし、縄を解けば捜索隊に合流される。こうするのが一番合理的よ」


 むしろ殺す判断が遅すぎた。覚悟が甘かったせいで、アリアに聞かせてしまった。もう歩き出してしまった。立ち止まる選択肢はない。

 これからもっとつらい判断をしていかなければならない。大切な人(アリア)を守るためには幾度となく。

 心を殺せ。感情など捨てされ。必要なのは役割に徹すること。


「これしか……なかったのよ」


 自らに言い聞かせるべく呟いたミラに、アリアは恐怖を抱いたのかそれ以上何も言わず、カイは亡骸となった兄弟の開かれたままのまぶたをそっと閉じさせた。

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