第4話「能なし姫の母」

 ミラ・クーフィル・アザランドにとってミーシャは他国から恐れられる絶対零度の女王ではなく、心優しい母親だった。

 寝入り端に彼女が聞かせてくれる彼女自作の絵本を読み聞かせがミラの最も安らぐ時間だ。


「母上! 絵本を読んでください!」

「いいですよ」


 ミーシャの瞳は左右で色が違う。右は血で染めたように赤い白目と紫色の虹彩を持ち、左はミラと同じに普通の白目と海のように蒼い虹彩を持つ。

 ミーシャの瞳を不気味と陰口を叩く者もいたが、ミラはミーシャの二つの瞳が大好きだった。右目はミーシャの強さを、左目はミーシャの優しさを象徴しているように思えたのだ。


「どの本にしますか?」

「これ!」


 四歳になったばかりのミラがミーシャに手渡したのは、一番お気に入りの絵本。


「スカイギアのお話ですね。ミラはこのお話が本当に好きですね」

「だってお姫様がすっごくかっこいいのよ!」

「ええ、母もこの絵本のお姫様が大好きよ。ミラに似ているわ」

「本当ですか母上!」

「ええ。さぁ母のお膝の上に」

「はい!」


 ミラがミーシャの膝に飛び乗ると、ミーシャはミラの頭を撫でてから絵本を広げた。


「スカイギアはお空を泳ぐお舟。ミラのためのお舟です」

「ミラのお船!」

「ミラのスカイギアには悪い奴等をやっつける秘密兵器が搭載されているのです」

「秘密兵器!」

「どうすれば使えるのか覚えていますか?」

「えっと……黒いレバー! かんきょーにある黒いレバーを引くの!」

「そうです。艦橋にある黒いレバーを引くとスカイギアの秘密兵器が使えます。いいですかミラ。この黒いレバーを引くのはミラの一番大切なモノを守る時です」

「大切なモノ? なんだろう?」

「そのうちにわかりますよ。そうだミラ。明日はね、ミラに会わせたいお友達がいるの」

「ともだち? 母上、私にはお友達はいないわ」

「その子とはきっとお友達になれるわ。母は信じているの」


 その数日後ミーシャは、ミラと件の女の子を引き合わせた。


「ミラ。この子はアリアよ。仲良くしてあげてね」


 出会った頃のアリアは、いつも何かに怯えている臆病で慎重な性質。はつらつさと元気が人間の形をしているような性格のミラとは対照的だった。


「は、はじめまして……アリアです」

「ミラよ。よろしくね」


 最初ミラがアリアと仲良くしていたのは、大好きな母上たっての願いという側面が強い。それでも同世代の友達はアリアが初めてで、ミラは彼女のことを知りたくなった。


「アリアのお家はどこにあるのかしら?」

「……遠くです」

「アリアの母上は?」

「……いません」


 どこから来たのかだけではなく、母親の顔さえ曖昧でよく覚えていないと言う。

 アリアの抱える事情を教えてくれたのはミーシャだった。初めは驚かされた。まさか現在戦争中のドラグヴァン帝国から亡命してきた元敵国の民であるとは思いもしなかった。そしてアリアは、亡命の道中で母親とはぐれてしまったのだと。

 アリアと過ごすうちにミラの中に芽生えたのは、この儚くて今にも消えてしまいそうな少女を守りたい、そんな思いだった。

 ミラの気持ちを察したのか、アリアも少しずつミラに心を開き始め、数年後にはミラとアリアはお互いにとって掛け替えのない親友になっていた。


「ミラ様! どこですか?」


 アザランド城の薬草園は、ミラとアリアのよい遊び場であった。城から出ることを許されない二人にとってここだけが唯一自然と戯れることのできる場所。配下や騎士たちの監視の目さえ気にしなければ、子供らしく振舞うことを許される場所だった。


「アリア、ここよ!」

「あ! ミラ様! 騎士さんの背中にしがみつくのは禁止です!」

「ふふふ。甘いわよアリア。勝つためには手段を選ばないのが王なのよ! それじゃあ次はアリアが隠れる番よ。でも騎士の背中に隠れるのは禁止」

「えー! ミラ様はやってたのに!」

「だって禁止って言ったのはアリアよ。自分で言ったことを守らなくちゃいけないわ」

「うー……」


 いつでもそばにいてくれて一緒に遊んでくれる人。一緒に笑ってくれる人。同年代の子供らしい幸せをミラとアリアは互いに提供し合った。

 やがて二人の関係性にもう一人が追加され、いつしか三人で形作る輪になっていた。そのもう一人が太正国から訪れた薬学師見習いのカイ・アスカだった。見習いといっても人材交流でアザランド王国を訪れているだけあって、その技量は子供でありながら城に勤める薬学師の大半を凌駕している。


「かくれんぼも飽きたわ。カイ! 近くにいるんでしょう!」

「いませんよー」


 カイは、花壇の前に座り込んで薬草を凝視している。


「いるじゃない。さぁ三人で今日も勇者と魔王ごっこやるわ」

「また俺が勇者役ですか?」

「当たり前よ。アリアがお姫様役で私が魔王役よ。勇者役をやれるなんて光栄に思いなさい」

「いやですよ。絶対魔王に負ける勇者の役なんて」

「だって勇者が勝つばかりじゃ面白くないわ。それにお姫様が勇者と一緒に居るべきだなんて誰が決めたのかしら?」


 三人の姿を誰よりも微笑ましげに見守ってくれたのは、ミーシャだった。


「ミラ」

「母上!」

「女王様!」

「陛下」


 慌てて跪アリアとくカイに、ミーシャは優しく微笑みかける。


「楽になさいアリア、カイ。そんなことをする必要はないわ。ミラ、お友達に意地悪をしてはいけませんよ?」

「してないわ」

「真顔で嘘をつけるところは、お父さんにそっくりね……げほっ」


 口元を両手で覆い、ミーシャはその場に崩れ落ちた。


「母上、大丈夫ですか!?」

「……平気ですよ。げほっ! いつも……のせきです。ごほ……げほ」


 ここ数年、ミーシャの体調は芳しくない。せき込むことが増え、最近では一日中ベッドの上で過ごすことも珍しくない。こうして外に出てくるのも一ヶ月の間に、一度か二度あればいいほうだ。


「カイ! すぐに母上のために薬の調合を!」

「はっ!」


 カイの作る薬はとてもよく効き、すぐにミーシャのせきを収めてくれたが、彼は決まってこう付け加えた。


「あくまでせきを止めているだけです。抜本的な治療にはなっていません。そして抜本的な治療は恐らくどんなに優れた医者や薬学師であったとしても――」


 十歳の時分、その意味を知るところとなる。

 冬のある夜のことだった。


「愛するミラ……よくお聞きなさい」


 ベッドに横たわる憔悴しきったミーシャの傍らで、ミラは祈るように母の手を握りしめていた。


「母上……」

「いいですか。絵本の表紙の中に地図があります……その地図を大事に持っていなさい……誰にも見せず、そう、お父様にもです。誰も見せずあなただけが……」


 それがミラにとってのミーシャの最期の言葉だった。

 元々身体が弱く病床に伏せることも少なくなかったのに、七人もの子供を授かったことも無関係ではない。それでもミーシャは医者の忠告を聞かずに子をなし続けた。仮に安静にしたところで元々長くは生きられないと悟っていたのかもしれない。

 だからこそ弱った身体に鞭を打ち、国を受け継ぐ子供たちを一人でも多くと願ったのだろう――と、ジャンから聞かされた。普段何事にも動じないジャンもこの時ばかりは少し寂しそうな顔をしていたのをミラはよく覚えている。


「母上……」


 もう二度と大好きなミーシャには会えない。思い返すのは出会った頃のアリアのこと。母親の顔すら忘れてしまった彼女のこと。もしかしたら自分もミーシャの顔を思い出せなくなってしまうのかもしれない。

 不安でたまらなくなって何日も眠れなかった。ミラは夜になると薬草園を訪れてただ茫然と薬草たちを眺めていた。

 ミーシャが亡くなり、ジャンが国王としてアザランド王国を治めることとなった。そしてミラの王位継承権は第一位に。次期女王にしてアザランド王国の君主となる時が目の前に差し迫っている。

 ましてミラは長女。七人の子供たちの中でも年長者だ。継承権第一位として、長姉として、もう子供ではいられない。この場所でかくれんぼをして騒ぐなんて出来る立場ではなくなる。


「母上……私」


 やがて訪れる未来への恐怖と混乱で押し潰されてしまいそうな時、ミラに寄り添ってくれたのはアリアとカイだった。


「姫様、この薬の匂いを嗅いでみてください。太正国の国花、桜花を煎じたものです。不安を少し和らげる効果があります」


 カイは、様々な薬草を調合してミラの気分を落ち着けてくれる。


「……ありがとうカイ」

「ミラ様。アリアの肩を枕にしてください」

「アリアの肩を?」

「アリアの母さんもアリアが悲しい時してくれたんです。母さんの顔はもう覚えていませんけど、そのことだけはよく覚えているんです」


 だから大丈夫。きっとミーシャのことは忘れない。アリアがそう言おうとしてくれているのが嬉しかった。


「アリア、ありがとう」


 アリアの肩に顔を埋めてたまり続けた涙を全て流し尽くして、泣き疲れたミラはカイのくれた桜花の香りに包まれ、数日ぶりの眠りについた。

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