第11話 練習台
エンリーケは、背中と尻の下に感じる硬い感触と、身じろぎしようとした瞬間腕に食い込む痛みで目を覚ました。顔を上げると、そこは巨大な倉庫。建材のような大きな物体が天井まで積み上がり、小さなライトがあちこちでか細くこの巨大な空間を照らしている。あまりに広大で太陽の熱が伝わらないのだろう、ひんやりとした空気が満ちていた。
首を巡らせると肩に焼けるような痛みが走り、エンリーケの記憶が蘇る。確かスーパーに車を停め、車から降りようとしたときに車の窓越しに撃たれた。割れたガラスから外の様子を窺うことができず、車のドアを開けると複数の男に襲われて、そこから記憶がなかった。
思い返してみれば、エンリーケはいつも決まった場所に車を停車させる癖があった。先客がいない場合、駐車場の向かって右端に陣取るのだ。自分の定位置を決めてしまうと、追跡者は行動パターンを先読みしてしまう。確か組織に入ったばかりの時に厳しく注意された、エンリーケの最大の欠点である。
「しくった……。きっとあのせいだ。くそっ、どこだここは……?」
小さな独白だったが、その声に反応して複数人の男たちが建材の陰から姿を現した。
「おお、目を覚ましたようだな」
「誰だお前ら」
「お前と同じだよ。組織の暗殺部隊のメンバーさ。覚えておいてくれ」
男たちはエンリーケの目の前にやってくると、椅子に固定され縛られて動けないエンリーケを見下ろした。
「頭は誰だ?」
「知りたいか?新しい頭だ。お前はまだ会ったことが無かったはずだな。このお方だよ。ファビオさん!」
すると奥から一人の男が現れた。その顔は見知った顔だった。確か薬物部門の頭だった、故・ジャイル部長の部長補佐だった男だ。
「ファビオさん……?」
「久しぶりだなエンリーケ。俺は新しい薬物部門の頭・ファビオだ。お前は確かジャイルにとても可愛がられていたのを覚えているよ」
エンリーケは奥歯を噛みしめながらファビオを睨んだ。
「なんの真似だ?」
「なんの真似だとはお言葉だな。それはこっちのセリフだ。なぜファティマを殺さず一緒に逃げた?面倒を増やしおって」
エンリーケは強がって笑って見せた。怯えた様子を見せれば負けてしまう。
「意外とカワイ子ちゃんだったから戴こうと思ってな」
「組織の命令は絶対だ。ファティマを始末しろ。そして、裏切り者のヴィクトールも殺せ。あいつにはもう用はない」
「なぜあいつらを殺す必要がある?」
「あいつらの存在は組織の存在を世に悟られる穴になりかねん。組織の存在を知った娑婆の人間は消すのが掟だ」
エンリーケは組織の末端で活動していた工作員に過ぎなかった。そんな掟は聞いたことがない。だが、厳重に存在を秘匿されていたのだろう。エンリーケが想像する以上に、組織は巨大な組織なのかもしれなかった。
「嫌だと言ったら?」
「やりたくなるようにするだけだ」
ファビオは懐から一枚の写真を取り出した。
「この写真はお前にとって見慣れた写真だろう?」
「!!……それは……!」
その写真はエンリーケの故郷で、子供のころに撮影された写真だ。DV夫と離婚し、女手一つでエンリーケを育てた母と、年の離れた妹が写っている写真だ。妹はDV父が母に産ませた最後の子供で、母は妹を死なせまいとDV夫から必死に逃げ出した。エンリーケにとって命より大切な妹。遠く離れた故郷にあった写真だが、なぜこいつらがそれを持っている?
「お前が故郷に置いてきた母と妹。実は組織で預かっている」
「何!?」
「組織はお前の家族の生殺与奪の権利を握っている。お前は従うしかないだろう?」
エンリーケは狂ったように笑い出した。そんなバカな。エンリーケが組織に入った時にはすでに遠く離れた地域に住んでいた家族だ。今どこで暮らしているか、エンリーケですら把握していないのに、組織に分かるわけがない。
「ハッタリだろ?俺だって家族が今どこに住んでるか知らないんだぜ?俺の荷物に紛れていた写真見せて、ビビらそうとしてるんだろ?」
「撮ったばかりの新しい写真もあるぞ?」
するとファビオは新しい写真もエンリーケに突き付けた。そこには顔かたちは変わったが、確かに面影のある女性が二人写っていた。
「マジなのか……てめえら……」
「マジに決まっているだろう?どうだ、ファティマとヴィクトールを殺すか、俺にこの場で家族もろとも殺されるか、選べ」
「う……うわああああああああああ!!!」
新しい街に逃れてきたヴィクトールとファティマは、借りた宿の一室で何をするでもなく沈黙に包まれていた。
ヴィクトールは何度もエンリーケのスマートフォンに連絡を入れてみた。だが、電源が切られていて通じない。焦燥感と後悔で身も千切れんばかりに苦しんでいた。
落ち込むヴィクトールを見て、ファティマも気が気ではない。エンリーケの脱落は、いよいよ組織の魔手が身近に迫ってきた証拠だ。次は逃げきれないかもしれない。楽しかった逃亡生活の突然の終焉に、ファティマも焦りを感じていた。
「ヴィク、ター……」
「なんだ?」
「これからどうする?」
「どうって……逃げるしかねえだろ」
「逃げ切れるの?組織、本格的にピンポイントであたしたちの居所掴み始めたんだけど」
「読まれねえところに逃げるしかねえ」
ヴィクトールの朗らかな雰囲気と、優しさを感じる口調はすっかり失われていた。今ならファティマを簡単に殺しそうな、近寄りがたい雰囲気だ。
「ヴィクター、怖い」
「俺だって怖いよ」
ファティマはヴィクトールの様子が怖いと言ったのだが、ヴィクトールはファティマが不安を感じていると誤解して、吐き捨てるように言い返した。どうにか、この重苦しい空気だけでも軽くできないだろうか。いつまでもこの空気のまま逃亡生活を続けるのは精神衛生上辛いものがある。
「ヴィクター、練習しよう?いつもの」
「はあ?」
「あたしの男性恐怖症を治してよ」
「ああ……、そうだな。やるって言ったからな。やろう。今日は何する?」
「手を握る練習したい。手を繋いで逃げる時に、怖がっていたら不便だから」
ふうっと一つ息を吐いて、ヴィクトールの険が取れたように見えた。
「解った。アラームセットして、一定時間手を握ってみよう」
隣り合わせに並んだベッドに、向かい合って座った二人は、お互いの手を握り合った。ファティマの手は冷たくしっとりしていて、細くしなやかで白かった。肌理の細かい若い肌が、すべすべして手触りがいい。
(こんな手をしていたのか……。小さいな)
一方ヴィクトールの手は大きく、乾いていて暖かかった。指も太く、がっしりしているが、肉付きが良くふっくらしていて、男らしいごつごつとした手というよりは、中性的な丸みのある手だ。
(暖かい……。優しそうな手……。意外と、嫌な感じはしないわね)
「大丈夫か、ファティマ?」
ヴィクトールはこの訓練の時間、必ずこの言葉をかけてファティマを気遣う。
「意外と平気。ちょっとドキドキするけど、何とか大丈夫」
ファティマの順応性の高さには目をみはるばかりだ。あんなに嫌がっていたのに、この一カ月ほどの間にここまで進展した。
不意にヴィクトールがファティマの指の間に指を絡めるように手を握ってきた。密着度が高くなる手に、反射的に手を放して小さな悲鳴を上げるファティマ。
「あ、ごめん。嫌だったか?」
ファティマはハッと我に返り、
「ごめん。練習だから嫌がっちゃいけないのよね」
と謝った。謝らなければならないのはヴィクトールもだと考えた。
「いや、俺が悪い。無理はするな」
手を握りなおして、ヴィクトールはファティマに提案した。
「なあ、ファティマ」
「なあに?」
「この練習の目標点を決めよう」
「目標点?」
エンリーケが脱落し、ファティマとヴィクトール二人きり。男性恐怖症を克服しようにも、ヴィクトールただ一人が配慮すればもう逃げ切れるはずなのだ。だがファティマは治療を続けてほしいという。ならば目標点が必要だ。
「どのぐらいまで恐怖症を治したい?一緒に逃げるのに不自由しないぐらいでいい?それとも、他の男とも気軽に付き合えるようになるぐらいまで治したい?」
考えたことがなかった。ファティマは、男性恐怖症を克服して、一体どうなりたいのだろう。
「ん……どうしようかな……」
「一緒に逃げるのに不自由しないぐらいだったら、もう合格だと思うんだけど」
「え……?」
それは、この治療法をもうやめるということだ。なぜだかファティマにとって、この時間が失われることがとても寂しく感じた。出来れば、もっと続けたい。まだまだ、男性への苦手意識は払拭しきれていない気がするのだが。
「そ、そうね……。それなら、いっそ、他の男性とお付き合いしても困らなくなるぐらいまで治してほしいわ」
「そうか」
「ヴィクトールを利用して悪いけど、これからも練習台になってくれる?」
(練習台……。そう、だよな。こいつは逃げきったら、いつか普通に娑婆を生きて、どっかの誰かと結婚してもいいんだ。俺みたいな悪党と一生つるむわけじゃないもんな。練習台、か……)
「いいぜ。付き合ってやるよ」
「ありがとう」
そこで、スマートフォンのアラームが鳴った。手をつなぐ時間は終わりだ。ヴィクトールはぱっとファティマから手を離した。
「今日はこれでおしまいだ。また明日もやろう」
ヴィクトールは気にしていない風を装って、「食材買いに行こうぜ」と、ファティマを買い物に連れ出したが、「練習台」という言葉がボディーブローのように効いているのを感じていた。
(俺はあくまで練習台なんだ。これから何やっても、俺の為じゃない。ファティマの人生のため、他の誰かのため。決して、俺と仲良くなりたいわけじゃない。俺はしがない悪党だ。ファティマみたいな将来有望な天才と、仲良くなって良いわけないんだ)
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