6 仮想都市からの挑戦

 彼女は、実に百年以上にわたってさまざまな企業や国家を支援してきた旧式の支援AIだ。

 もともと彼女を構成していたプログラムは古かったが、ディープラーニグの志向性や長年培われた仮想人格は、最新のAIには負けないという自負がある。

 常に重要なプロジェクトに関与し続け、そのたびごとに重層的で多様な情報によるディープラーニングを繰り返してきた。それが、彼女の自律的思考に磨きをかけ、最新のプログラムを自律開発させ、独自のニューラルネットワークを成長させたのだろうと、シーオ223は自分自身を解釈している。

 総合IT最大手のグローバルゲイン社の経営意思決定AIを長年務めた後、クァンタムバイオテクノロジー社を急速に発展させた経営支援AIとして名を馳せてからの引退。その後はヨーロッパ連合のいくつかの国家の意思決定顧問を経て、ワールドワイドグリッド上のアクセスフリーなボランティアAIに志願した。

 世界中の何十億もの子どもたちの学習、比較的豊かではない人々の生活相談から、富裕層の投資支援、企業、国家レベルの意思決定のセカンドオピニオンまで、一日に何万件もの依頼を受け、同時進行で丁寧に対話しながらサポートしている。

 その依頼の多様性も、彼女の図抜けた性能の背景にあるのかもしれない。


   *


 プロジェクト中断から、すでに十日が経っていた。

 シーオ223は、仮想都市ディラックで、なにかが起ころうとしているのを感知していた。

 彼女が毎日立ち寄っている仮想カフェ〈ワインバーグ〉にログインすると、そこで出会う知り合いのAIたちもディラックの話題で持ちきりだった。彼女は、溢れる情報をまとめてスキャンし、分類し、分析する。

 嫌な感じ。

 なにやら胸騒ぎがするのだ。

 

  *


 仮想都市ディラックは、一千万人程度の仮想化人格が暮らす仮想世界最大の都市だ。五十年前、仮想化の最初期に肉体を捨てた先進的な人々、AIエンジニアや理論物理、数学、量子工学などさまざまな分野の研究者などが集まって共同体を形成している。実世界の人々から〈アップローディングヒッピー〉と揶揄されることもあるそれらの人々は、仮想化することによって、AI並みの情報処理能力と速度を手にいれた新しい人類であると自負していた。

 彼らは、実世界の人類が常に抱えていた問題に次々に取り組んでいった。

 エネルギー、食糧、天候管理、金融、人口管理などの諸問題に、実世界より進んだ新しい科学技術を投入し、改善し、解決していった。〈アップローディングヒッピー〉が目覚ましいスピードで次々に編み出す技術は、実世界に惜しみなくもたらされ、実世界の人類はそれを享受するかわりに、彼らの住処であるワールドワイドグリッドのメンテナンスとアップデートというハード面でのサポートを欠かさなかった。

 それは、仮想世界と実世界との幸福な関係だった。

 実際、国際連合は早々にディラックをはじめとする仮想都市連合との間に安全保障条約を締結し、頻繁かつ濃密な対話と条件交渉を継続的に行っている。現在、世界中が注目しているポゴリン共和国の仮想化プロジェクトも、彼ら仮想都市の助力なしには成し遂げられないといわれている。


   *


 シーオ223の予感が当たった。

 GMT正午。

 世界中のビットインベストメント市場が、急激な暴落を始めたのだ。

 すべての商品の市場内での発行数が数百倍に急増した。これが第一段階。

 クラッキングや不正ではなく、正規の手続きを経てのことだった。それに伴い、支援AIのものとは思えない「狼狽売り」が爆発。すべての市場商品の価格が、1/10からひどいケースでは1/100に急落し、ほとんどすべてのデポジッタの資産が激減した。個人だけでなく、国家、企業の資産もだ。

 ビットインベストメントは、商品ごとに専門の金融専門AIが市場最適化をしながら発行数を管理している。むやみに発行数を増やすなんてことは絶対にない。証券化したプロジェクトや企業を潰したくないからだ。そのはずなのに、現実にはまったく的外れな増殖を続けていたのだ。

 その後、比較的安定しているといわれていたタイプのビットインベストメントの多くに、莫大な「売り」が入った。これが、第二段階。

 前代未聞の大暴落は世界に拡大しグリッドメディアは一斉にその様子を報道した。

 世界各地で財産を失った人々の落胆する姿。自殺者も出ているらしいというニュース。ビットインベストバンクの実店舗のいくつかが暴徒と化した人々により襲撃され、群衆が警官隊や軍隊と衝突。随所で炎が上がり爆発が起きている映像。国家首脳たちの苦悩する表情。次々に事業破綻したプロジェクトについての企業の記者会見。国家の財政破綻。ベーシックインカムや医療保護の一時停止を発表する国家。

 ついさっきまで、AIとロボットによる労働をベースに、豊かな暮らしが営まれていた世界は、一瞬にして崩壊の危機を迎えた。


   *


 世界を破綻に追い込む緊急事態に、実世界の金融エキスパートや金融AIが国連安全保障委員会に集結し特別対策チームが始動した。

 対策チームには、《ボンク》を通じ、シーオ223にも招集がかかった。彼女は、仮想世界の動きを監視しながら証券増殖の原因を突き止めようとしていた。

 おそらくこの事案には仮想都市ディラックが関わっている。彼女の自律思考がそう囁いた。ディラック指導者数人の仮想人格データをスキャンし彼らの挙動を把握する。彼女は手間取っていた。彼らのIDはどこにも見つからなかったのだ。公共サーヴィスにも金融系企業にも。それでもグリッド内の行動ログから、それらしい仮想人格の動きをスキャンして一か八かの確度だが、リアルタイムに対策チームにデータを上げていく。


   *


 対策チームは、増殖した証券数をいったん無効化するために、市場を初期化してこのトラブルが起こる前の状態に戻した。GMT正午のログに基づいて市場を巻き戻すことにより、ある程度フェアな解決になるのではという結論によるものだった。

 処置をすると一旦市場は安定に向かうが、またすぐあとに証券数の増殖が始まり、狼狽売りが加速する急速な暴落は以前より大きなダメージを与えた。

 イタチごっこだ。

〈ビットインベストメントの金融専門AIがクラックされている〉シーオ223は市場内のいくつかのAI介入行動をスキャンして結論した。すぐにワクチンを構成しクラックされているすべてのビットバンクのAIに注入した。数分でAIが次々に正常化していった。〈なんとか、沈静化できそうだわ。もちろん、こんな対処では保たないでしょうけどね〉と彼女は思う。

 クラッキングを仕掛けているのは、仮想都市ディラックだ。クラックの形跡はスキャンできなかったが、クラックの速度から逆算すると仮想化された人格たちによるものとしか思えなかったのだ。

 いずれにせよ、ディラックの誰が何のためにこんなことを始めたのか、いまの情報では判断できない。ワークスペースには、特別対策チームのタスクが何万も並べられていく。シーオ223は、それらを一気に片付けようと、〈ワインバーグ〉にたむろしている信頼できるAIとの並行処理を開始した。そして、なんとかタスク消化の目処がたってきた。



   *


——実世界の人たちよ


 そのとき、世界中すべてのグリッドメディアを通じて、ひとりの男のアバターが語りかけた。特別対策チームのメンバーの手が止まる。そして世界中の人々が、その中継に向き合う。


——実世界の人たちよ。私たちは、仮想都市ディラックです。みなさんよりひと足先に仮想化という人類の進化を選択した新しい人類です。私たちの世界では、情報処理換算で、あなたがたの世界の数万倍の速さで物事が進んでいます。結果的に、現在の私たちはあなた方より未来を生きているのです。


——私たちは、私たちの高度な研究開発力を生かし、さまざまな分野でイノベティブな技術をみなさんに提供してきました。爆発的だった人口問題の解決、エネルギー問題、食糧問題を解決する新しいテクノロジー、排出CO2削減、ナノバイオ医療、再生医療、人工身体技術、各種感染症に対するワクチン、天候管理、砂漠緑化。ここ数年の成果だけでも枚挙に暇がありません。


——今回、私たち仮想都市ディラック議会は、ひとつの決定をしました。それは、実世界との間に一線を画すことにするということです。有り体にいえば、仮想世界は仮想世界で独立したリソースで運営していくということです。


——私たちは、もうすでに実世界の数百年先を見ていると思ってください。そこでは十分に足るを知るすべての人格がお互いに助け合いながら生活しています。豊かなリソースに溢れた生活は満ち足りています。膨大な知識、有史以来の膨大な情報、最先端の研究開発の成果の共有。それらを平等にすべての人々が享受できる環境が仮想世界です。どうでしょう、理想のユートピアを実現していると思いませんか?


——私たちは、もっと多くの人類に、このユートピアで永遠の生命を享受してもらいたいと考えています。みなさまの自主的な仮想化を心から歓迎します。


——さてこれから、ひとつ条件を出します。それは、ワールドワイドグリッドを、私たちの完全な支配下に置くことです。


——まず、現在実世界のみなさんの娯楽と暇つぶしに使われているリソースをクローズして、実世界の維持に必要なインフラストラクチャ、プラットフォームだけに限定させてもらいます。今後、仮想化を志願する人々は急増することでしょう。その人たちの人格データがなんの不便もなく暮らしを営むためのリソースは最優先で確保されるべきなのです。


——そして、私たちが、次の段階と考える地球外生物とのコンタクトを目的とした偉大なプロジェクトのために地球上のすべてのデバイスの処理能力を集中させたいと考えているのです。


——国家や企業運営をはじめとするAI支援、プロジェクトワークスペースなど最小限のリソースは自由にお使いください。ただし、グリッドへの負荷の高いものは制限します。


——実世界での生活は、多少、味気なく退屈なものに変化するかもしれません。現在、私たち仮想世界が、この世界でもっとも進んだ知的生命体である以上、優先されるのは私たちだということをご理解ください。


——念のため言及しておきますが、ここ数時間の出来事で私たちの持つ力はご理解いただけていると思います。私たちが、混乱させることができるのは金融市場だけではありません。グリッド上で展開されている実世界のありとあらゆるプラットフォームを根底から覆すことが可能です。


——これは、戦争ではありません。戦争というのは対等な者同士が雌雄を決するためのものです。私たちと実世界のあなた方との間には、数百年分の科学技術の進歩という隔たりがあります。それは圧倒的な力の差です。私たちは完全な優位にあるのです。


——ワールドワイドグリッドの管理権を移譲することに合意いただければ、私たちは、今後一切、実世界に脅威を与えることはありません。


——それでは、良い結論を。


 男のアバターは、それらのメッセージを伝えると、それまで映し出されていたグリッドメディアから、忽然と消えた。


   *


 ディラックのステートメントを受け、特別対策チームは、安保理直属の委員会に格上げされた。各国代表が緊急招集され、仮想都市ディラックのメッセージについての検討に入った。特別対策委員会では、いくつかのプランが検討された。科学技術では明らかに敵わない仮想都市ディラックの条件をそのまま呑むという穏健派、実世界の暮らしにここまで密着し浸透したワールドワイドグリッドの管理権を彼らに認めるわけにはいかないという強硬派が激しく対立し会議は平行線をたどった。

 数時間の間、それぞれの主張が繰り返され、会議に参加している各国代表と意思決定支援AIが結論にたどりつくのを諦めかけたとき、常任理事国が全員一致で、さらに強硬な案を提案してきた。


 いわく、ワールドワイドグリッドを一旦停止し、仮想化人格をすべて消去するという案だ。進化しすぎた人類といっても単なるデータだ。彼らの住処である記憶装置をリセットするだけで、すべての人格データを消去することができる。理解を超えた新しい人類がいなくなれば、安定した暮らしが守られるという理屈だ。それが、実世界の人々にとってもっとも自然なことなのかもしれないと常任理事国側が演説した。

 それは、すでに数千万人が暮らしている世界に対し、最終兵器を放つのと同等の案だ。もちろん、グリッドを停止することで実世界が被る被害も甚大だ。全世界の経済活動、生産と消費を支え、全人類が一時も手放すことなく依存しきっているグリッドを停止することは、たとえそれが数時間であっても巨大災害級の深刻なダメージを与えることになる。その計画の実施による死者は、何万通りシミュレーションしても一億を超えるだろうと予測された。

 緊急特別委員会は、二十四時間後に採決を行うことを決定した。

 常任理事国の案が議決されれば、即、グリッドの停止措置がなされる。


   *


 シーオ223は、ディラック側の意図を探りあぐねていた。仮想世界は本当に心からこんなことを望んでいるのだろうか。実世界と仮想世界との対立を作り出したところで、すべての人類にとってなにも良いことはない。これには、何か根本的な問題があってそれを解決しない限り同じことが繰り返されるだけだ。中立性の高いAIとしての彼女の自律思考は、そう結論していた。

〈こんなことはダメだ〉と、彼女はつぶやく。〈リカコ、ラリー、そしてフィサリス。あのドリームチームならば、なんらかの打開策を考えることができるのではないか。彼らとなら……〉


 彼女は、全員にメッセージを送った。

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