第2章
翌朝、宿の朝食を食べて9時に出発した。世間は日曜らしく、街は静かだ。ひきこもり生活のせいで曜日の感覚が失われて久しい。僕の運転で1時間ほど走って石川県に入り、一度給油する。しばらく走ると日本海に出た。高速道路を使っていいかと聞くと「この車70キロくらいしか出ないし、乗れない」とのことだった。このペースだと新潟市まであと2日くらいかかりそうだ。小松市を通過し、国道沿いの道の駅に立ち寄る。
自動販売機で缶コーヒーを買っていると、突然後ろから声をかけられた。
「あの、すみません」
振り返ると、ウインドブレーカーを着た小柄な女性が立っていた。大きなリュックサックを背負っている。近くに停めたダットサンを指差して言う。
「あの車に乗ってた方ですよね?」
「そうですが」
「行き先はどちらですか?北陸方面だったりします?」
「まあ、一応、新潟まで」
新潟、と答えた途端に女の顔はパッと輝いた。
「やった!……えーっと、途中まで乗せてもらうことってできますか?私、中村といいます。高田まで車で乗せてくれる人探してて」
「それは……どうかな、連れの車なもので……」おどおどと佐々井の姿を探しつつ、少し何かに期待している自分に気付いた。
そこへ喫煙所から佐々井が戻ってくる。
「こちらの美人は?」
「えーっと、中村さん。いま知り合った。車に乗せてほしいって、いいか?」
「もちろん!」即答だった。
ダットサンへ案内すると、彼女はかわいい!と可愛い声を上げた。気を良くした佐々井はトランクを開け、甲斐甲斐しく荷物を受け取って積みこむ。
運転代わるよ、と言って奴がハンドルを握る。後部座席に彼女が乗り込み、ダットサンは発進した。奴の方を見ると、にっこりと笑みを浮かべて僕を見ている。会話はお前に任せる、と言いたげだ。
「中村さんは……おいくつですか?」
「おいおい、いきなり女性に聞くことか?」
「全然!気にしませんよ、27です」
「じゃあ僕らの2つ上ですね」
僕は佐々井とは同級生であること、貰った車で新潟へ向かっていることを簡単に説明した。
女性はナカムラミナと名乗った。普通の中村に美しい菜の花と書いて美菜。東京を出発し、かれこれ2週間ほどヒッチハイクで旅行していると言う。
「美菜さんかあ、いい名前だ」
「お前それ女性全員に言ってるだろ」
「俺は全ての女性の名を美しいと思ってる」
美菜を見るとクスクス笑っていた。
「さっきのサービスエリアまでは旅行中の親子に乗せてもらったんです、でもなんか私のこと根掘り葉掘り聞くんで、面倒になって降りちゃいました」
ひとりでヒッチハイクの旅行をする女性の身の上を根掘り葉掘り聞きたい欲求を抑えつつ、バックミラー越しに彼女を盗み見た。ショートカットに大きな目の勝気そうな顔。美人の部類に入るのは間違いない。話しかけられたとき、もし僕が一人旅の途中でも車に乗せただろうか、と考える。乗せただろうな。しばらくは喋りが得意な佐々井が話題を振り撒き、会話が弾んだ。
飲み物を取り出そうと自分の鞄を開くと、社用携帯が目に入った。アパートに置いてくればよかったのだが、万が一連絡がつかないせいで騒がれても困るし持ってきてしまった。職場のことを思い出してしまい、深いため息が出る。佐々井がチラッとこちらを見た。
「なんだよ」
「仕事辞めたい…」
「やめろ辞めちまえ。お前は働くために生まれたんじゃないだろ。労働に自分の人生を明け渡すな」
「うむ…」
「本来の目的に立ち返れ。だいたいお前は何のために働いてるんだ?」
「金のためだよ。生活費稼いで、奨学金返して、新作のゲームとか買うためだよ」
「なんで新作のゲームを買いたい?」
「えっ、単純に欲しいと思うから…。やってて楽しいからだよ」
「そう、『楽しいから』が一番だろ。その『楽しい』を得るためにゲームを買いたい、そのために働いて稼がないといけない。でも働いて稼ぐ過程でダメになって、3か月も休職してる訳だ」
「ああそうだよ」
「そうなんですか?」
黙って聞いていた美菜が食いついた。
「こいつ、医療事務なんですけど職場でいじめられて3人分の業務押し付けられて、鬱病やっていま休職中。ゲーム廃人なんですよ」
「身も蓋もない言い方だな」
「実は私も診断書貰いましたよ。修也さんはお仲間ですね」苦笑いをして、彼女は話し始めた。
美菜は先月まで経済産業省に勤務していた、いわゆるバリキャリだった。霞ヶ関での激務に追われる生活に疲れ果て、体を壊し、誰にも相談しないまま勢いで退職したのだと言う。東京を離れようと思い、とりあえず西へ向かって長崎へ辿り着き、電車やヒッチハイクで3週間ほど旅をしてきて、今に至るとのことだった。
「鬱になって一番辛かったのは、ご飯の味がしなくなったことですね。最初は風邪でもひいたと思ったけど、味覚がバグってる、と気付いてから何食べても一緒かって食事に気を使わなくなって・・・。食べることの意味がないように感じて」
よく理解できた。休職の前後はずっとそんな感じだった。様々な感覚が失われて、何のために生きているのかわからなくなる。
「両親にもまだ言えてないんですよ、仕事辞めたこと」
窓の外を眺めながら美菜は言う。
「今この車って国道8号を北上してるじゃないですか、このままだと着いちゃうんですよね、私の実家」
美菜は新潟の直江津出身だった。確かに日本海沿いを走る8号線は直江津を通る。
「寄りたくないなら、素通りして旅を続ければいいじゃないですか」佐々井が言った。
「うーん、まだ迷ってるんですよ…。いずれは話さなきゃなと思ってるのでせっかく近くに来たこの際に、ってのもあるし」
美菜は軽くため息をついた。
「とりあえず保留です。お腹空きませんか?」
車は金沢市に入っていた。せっかくだし美味い魚が食いてえ、と佐々井が言うので市場の近くに車を停め、海鮮丼を食べた。美味い気がする。佐々井は大盛りを注文したくせに、俺貝類食べれないんだよね、と言って勝手に僕に押し付けてきた。
しばらく街中をぶらついたが、目的もなく観光するには暑すぎる。堪らずに車に戻る。まだ午後3時だった。日が暮れるまで時間があるのでとりあえず富山県まで移動することになった。僕の運転でドライブを再開する。
新潟まであと317キロ。
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