避行

高里 嶺

第1章

 兄から不要になった車を貰う、滋賀まで受け取りに行って帰りはそれに乗って帰る、ひとりで500キロも運転するのはキツいし話相手が欲しいから付き合ってくれないか。


 佐々井からそんな誘いを受けたのは6月の半ば。そして僕は暇だった。正確に言うなら鬱病で動けず、部屋に引き篭もっていた。休職は2か月目に突入し、寝るかネットゲームするかの二択しかない生活に嫌気が差していた。このきっかけを逃せばいつまでも外に出られない気がする。しかし「行く」と返事をしたところ「とりあえず明日滋賀に来て」と言われた。酷い。新潟から滋賀って何時間かかるんだ。鬱病患者にとっては外出も億劫なのに。2日間待ってくれと伝えて、旅の支度を始めた。旅程を調べるのに半日、ただ服を鞄に詰める荷造りに丸一日かかった。

 意を決して外に出ると、太陽の日差しが眩しい。季節は夏の入り口に差し掛かっていた。



 指定された喫茶店に着くと「修也!」と呼びかけられる。奥のテーブルで佐々井が手を挙げていた。馬鹿でかいメロンソーダを飲んでいる。子供か。

「いやあ、来たなひきこもりの鬱病患者が!心配したぞ途中で自殺しないか」

 これ以上ないほど辛辣な挨拶に怒る気も湧かなかった。こいつと2、3日一緒かと思うと先が思いやられる。

 久しぶり、と言いながら奴と向き合って座る。よく日に焼けた顔に彫りの深い涼しげな目元。脚を組んでゆったり煙草を吸う姿は売り出し中の若手俳優です、と紹介されても大抵の人は信じると思う。正体はただの大学院生なのだが。


 佐々井は大学の同期だ。映画研究会で知り合った。人付き合いが得意ではない僕にとって、こいつは片手で数えられる程しかいない友人のひとりだ。4年間で一番喋った相手だと思う。全くタイプが違う人間なのに。奴は映研の代表もやってたし、友達が多く、常に彼女が途切れない"陽側"の人気者だった一方、僕は学生時代を映画とゲームに捧げた"陰側"だ。正反対の性格だったが不思議と馬が合い、自宅から通学していた佐々井は事あるごとに僕のアパートにやってきて、2人で数え切れない程の映画を観た。僕が講義が終わって部屋に帰ると奴が勝手に侵入し映画を観ていた、なんてことも何度もある。僕が就職し、奴が院に進学してからも時々飲みに行く仲だった。今日会ったのは3ヵ月振りくらいか。

「疲れたよ。車は?」

「そこに停まってる。兄貴から昨日引き取ってきた」

 指差す方を見ると、駐車場の端に小さなレトロカーがあった。ボロいというか、ものすごく古そうだ。映画でしか見たことがない。

「まさか、あれ?」

「日産ダットサン211型。1963年製だって」

「ちゃんと走るの?骨董品みたいだぞ」

「最近まで兄貴が乗ってたんだし大丈夫だろ。車検も通ってる。運転は基本俺がするし」

「お前の運転も不安要素だよ」

 店を出て車を見る。元は10年前に亡くなった佐々井の祖父が所有していたもので、兄が相続し、要らなくなったので佐々井が貰うことになったらしい。外見からかなり時代を感じるが、車内もなかなかの古さだった。四角い窓の開閉は手回し式で、シンプルすぎるメーターや異常に細いハンドルからゴーカートを連想する。乗るには少し頼りないが、このレトロな質感は悪くないなと思った。

 とりあえず佐々井が運転することになり、僕は助手席に座った。キーを回すと、数秒間苦しげに喘ぐような音を立ててからエンジンがかかる。燃費も悪そうだ。

「じゃあ、行こうか」

 奴がエンジンを踏み込み、車を発進させる。こうして新潟までの長い旅が始まった。


 左手に琵琶湖を見ながら、湖に沿って整備された県道を走る。天気は快晴だ。夏の日差しで湖面が眩しい。ダッシュボードを開けるとサングラスがあった。佐々井がかける。

「どう、似合う?」

 割と似合っていてむかついたので「似合わん」と言った。

 それから互いの近況を話した。もっともひきこもりの僕に近況なんてないのだが。佐々井はまだ大学にいた。博士課程の1年目。研究室の留学生の話、海外の学会に参加した話、映研の同期が結婚した話などを聞かされる。なんだか遠い世界の話に感じる。

 車のオーディオは奴の兄の手で新しいものにカスタマイズされていた。何枚かCDがあったので適当にかける。知らない映画のサントラだった。車窓の風景に合って良い感じだ。ひきこもり明けのせいか、全てが新鮮に感じる。


 休憩しつつ4時間ほど走ると日が傾いてきた。僕が適当に宿を予約し、福井市のホテルにチェックインする。ホテルというより地方の公民館みたいな外観だ。荷物を置き、すぐに徒歩で街に出る。


「で、なんで鬱やっちゃったのよ」

 1杯目のビールを呑んで佐々井は聞いてきた。運転中に話題にしなかったのは奴なりに気を遣ったのかもしれない。

「その話題は止めようよ、面白くもない」

「別に面白さは求めてねえよ。話したくないなら無理にとは言わんけど、普通気になるだろ。話せよ」

 仕方なく話し始めた。話し始めると止まらなかった。本当は僕も誰かに話したかったのかもしれない。ここしばらくの惨めな状況を。


 年度替わりに同僚が2人辞め、同時に職場のシステムが変わり、自分の担当業務が数倍に膨れ上がった状態が1年以上続いたこと。毎月100時間を超える残業をして不眠症になったこと。人手が足りないので業務を分配するか職員を増やしてくれ、と上司に直訴したが聞く耳を持ってもらえなかったこと。間に合っていない業務の責任を負わされ、会議で吊し上げられたこと。

 ハッと気付くと30分以上ひとりで話していた。佐々井の灰皿は吸い殻でいっぱいになっている。

 ひどいなそれ、といいながら佐々井は新しい煙草に火を点けた。

「そんな職場、休職して正解だろ」

「そうかもな。休んで1週目は毎日電話が来て、僕が担当してた業務のやり方とか、決まってた段取りとか聞かれた。僕がいないと仕事回らないだろ、ざまあみろって思ったよ」

「いい気味だ」

「でもマニュアルの在処と簡単な引継書をメールで送って以降、何の音沙汰なしだよ。替わりはいくらでもいるって言われてるみたいだ。所詮、誰でもできる仕事を、僕しかできないって勝手に思い込んで頑張ってただけなんだよ。馬鹿馬鹿しい」僕はウーロンハイを注文した。

 佐々井はしばらく黙って俯いていたが、一点を見つめながらいつになく真剣に話し始めた。

「替わりが効くって、そりゃ世の中ほとんどの仕事がそうだよ。その仕事をやるために生まれてきた人間なんていない。逆だよ。生きるために働いて金を稼いでるんだろ」

「まあそりゃそうだけど」

「あんま必死になることないんだよ。世の中の仕組みが、自分自身よりも社会とか仕事とか、そんなもんが大事だと思わせるように出来てる。天職だと思って働いてる一部の人間以外にとって、仕事なんてただ金を稼ぐためのツールだろ。やりがいとか人助けとか、建前だよ。そんなもんのために働くからおかしくなるんだ」

 まるで社会の荒波に揉まれたような台詞を吐くが、この男は就職はおろかバイトすらろくにしたことがないのだ。医者の息子のボンボンで、言ってしまえば世間知らずな学生である。

「じゃあさ、お前はなんのために研究やってるのよ。お前にとって研究ってなに?」

 佐々井はニヤッと笑って言った。

「まあ、庭の散歩みたいなもんだよ、楽なただの暇潰し」

 そして煙草に火を点けながら付け足した。

「正確には、庭の散歩だった、か」

「なんで過去形なんだよ」

 奴はそれには答えず、メニューを広げ揚げ出し豆腐を注文した。

「とにかくお前は不幸慣れしすぎなんだよ。そう悩むな。禿げちまうぞ」

「お前を見てると羨ましいよ。悩みなんてないだろ」

「そう見えるか?」

 ジョッキを傾けながら佐々井は言った。

「悩みばっかだよ。宝くじ買った日には1億当たったらどうしようって悩むし。最近元カノから急に連絡来てサシで呑もう、って言われた時もめっちゃ悩んだ」

「おめでたいな。お前になりたいよ、代わってほしい」

「俺も自分を辞めたい。入れ替わってくれ」

「口噛み酒でも飲むか」

「だな」


 宿に戻り、風呂に入ってその日は寝た。疲れているのか、睡眠薬を飲まずに眠れた。


 新潟まであと394キロ。

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