第2話:【正太】二人の関係─2

 あれは百七十七日前のこと。こちらの世界へ来て、たしか五日目だ。もうすぐ農耕期だからと、アーシェさんは家の裏にある畑へ立った。

 学校のグラウンドくらいが柵で囲われ、その外側は木のまばらな草原。さらに向こうは低い丘から高い山へ、段々と背を伸ばす。見渡す限り、人も建物も見当たらない。


「目覚めなさい。星屑たち、大地の礎。深呼吸をする時間よ」


 魔法を使う姿は、もう何度も見ていた。小説なんかにある、朗々と厳かにという感じはしない。魔法少女ものみたいに、楽しげな雰囲気でもない。

 なんというか、そこに友だちが居てちょっと頼みごとをしている。そんな印象だ。

 だから、なのか。身体の動きも、突飛でややこしかったりしない。それ、と指さし。この辺り、と手をぐるっと回す。僕にもすぐに真似できそうな言葉と動きしかなかった。


 ただまあ、服装はなんとかならないかなと思う。お決まりのローブとレース編みを脱ぎ捨て、豊かな胸をバスタオルみたいな布で縛っただけ。

 腰から下はゆったりと動きやすそうなズボンだけど、陽の光で透け透けだった。僕が言うのもなんだけど、若々しい女性のそんな格好は刺激が強すぎる。


「わあ、一瞬ですね」


 アーシェさんを見ないように、魔法のかけられた畑を凝視する。と、小さく地面の揺れる感覚があって、畑の底から大きな石が幾つも飛び出した。


「うふふ、すごいでしょ」

「埋めておいたんですか?」

「そうよ。前の農耕期の終わりに、高いところから打ち込んだの。その石を取り出せば、土起こしがすぐに終わるってわけ」


 真っ白で長い指が、空から地面に線を引く。なるほど魔法で石を飛ばせば、簡単な作業なんだろう。


「魔法って便利ですね。複雑な図を描いたり、特別な杖を使ったり、ややこしいものかと思いました」

「よく知ってるわね。昔はそういう魔女も多かったよ。最近はベスの他に魔女を見ないから、分からないけど」


 僕の言ったのは、学校の図書室で読んだ本の話なのだけど。アーシェさんは感心した風に頷いてくれた。

 名前の出たベスというのは、最寄りの町に住む知り合いだそうだ。


「でも魔法にはね、決まった形なんてないの。どんな言葉も、動きも、道具も。魔法を使う人が、土や風にどう語りかけるか。それは自分の内から、湧き上がってくるものなの」

「へえぇ」


 言いつつ、柵の外へ石が積み上がる。アーシェさんは自分の手で触れて、崩れないかたしかめた。


「さあ、今度は土作りよ」


 ひょいと、鍬が差し出された。もう一本アーシェさんの手にもあって、二人でやろうと。極端な薄着は、この為だったようだ。

 土に肥料を混ぜたりするみたいだけど、これは魔法を使わないらしい。


「えぇと魔女さん、やったことがないので教えてください」

「だからぁ、魔女って呼ばないでよ。あんたの世界じゃ知らないけど、こっちじゃ魔女は嫌われ者なんだから。誰かに知られたら、すたこら逃げなきゃなんないのよ」

「あっ、すみません」


 彼女が八百歳近い魔女であること。名前をアーシェということは、出逢ったその日に聞いていた。

 でもどうしても、呼ぶのに抵抗があった。

 人見知りとは違うと思う。いくら名前を知っていても、大人の女性を呼ぶのに使うなんて。身近な大人の呼び方は、誰それ君のお母さんとか、交通安全の小父さんとかだ。


 それからたぶん、二時間くらい。アーシェさんは順調に畑を耕し、僕は存分に擦り傷を作った。

 お手伝いどころか、邪魔にしかなっていない。もちろんそれでもクタクタに疲れてはいて、アーシェさんの「休もうか」という声に頬が緩んでしまう。


「泥だらけだし、そこで火を熾してベーコンでも焼こうか」


 言い終わるのと同時に、たくさんの水が降ってきた。シャワーなんて可愛らしいものじゃなく、バケツを勢いよく振り回したみたいに。


「ええっと、僕。使い魔なのに、役に立てなくてすみません」


 濡れたのを、強い風が吹き付けて乾かす。そうまでしてもらって、休憩はともかく昼ごはんまでもらうのは図々しい気がした。

 だから遠慮をしようと思ったのだけど、アーシェさんは「んん?」と首を捻った。


「あんたの世界じゃみんな、知らないことをすぐに出来るようになるの?」

「いえ、そんなことは」

「なら、一つずつ出来るようになればいい」


 でしょ。と、朗らかに笑う。それだけで単純に、いい人のところへ来たなあと胸が苦しくなる。

 僕ばかりが得をして、アーシェさんに割を食わせているようで。


「あの。僕なんかが使い魔で――」

「うん?」


 問いかけたとき、家の表側で音がした。車輪が土を噛む音。自動車や自転車は無いから、馬車だろうか。そのなにかは通り過ぎず、家の前に止まる。


「お客さんだ。お昼は後まわしだね」

「は、はい」


 水色の裏口から家に入ると、そこは納屋だ。農具やら保存食やらが整然と片付けられた脇を通って、もう一つ扉をくぐる。


「お待たせしました、店主のアーシェです。どんなご用件で?」


 僕と話すより、ちょっとハキハキした声。表の戸を入ったところへ立つ人たちに、アーシェさんは向かった。


「この辺りで困りごとの相談に乗ってくれると聞いたんだが、ここに間違いないだろうか?」

「ええ、そうよ。困りごとというのは、あなたの?」


 ドッヂボールも出来そうな広い部屋。三方の壁に、たくさんのガラスが嵌まった窓。白い光が燦々と降り注いで、温室みたいだ。

 アーシェさんはここで、いくつかの商売をしていると聞いた。


「いや、母なんだ」


 やって来たのは三人。最初に口を聞いた人がいちばん若くて、それでも四十歳くらいに見えた。

 その小父さんが、隣のお婆さんの肩にそっと触れる。反対の肩は、旦那さんらしいお爺さんがずっと支えていた。


「なるほど。それならあなたは、外で持っていてもらえる? 困りごとは、当事者だけに事情を聞くことにしているの」

「ああ、話しにくいこととかあるものな。分かるんだが、母は……」


 丈夫そうな真新しいシャツを着た小父さんは、アーシェさんの言い分に頷いた。その上で気まずげに、声を萎ませる。


「大丈夫。まず話してみて、どうにもならないようなら、あなたを呼ぶわ」

「うぅん、分かった。そういうことなら」


 小父さんはまた頷いて、表の戸から外へ出た。お婆さんに「俺は外で待ってるからな」と、優しく気遣う声をかけて。

 孝行な息子というのがよく物語に出てくるけど、本当に居るとは知らなかった。


「まあまあ、小さなお子さんが居るのね。息子にはね、お昼どきには迷惑よって言ったの。ごめんなさいね」


 花の形に編まれたショール。花柄の長スカート。少し背を丸めたお婆さんは、にこにこと微笑んだ。

 隣に立つお爺さんも、ずっと笑っている。怒れば怖そうだけど、お婆さんがちょっと歩けば心配そうな顔を浮かべた。


「いいえ。それでご用は、その荷物かしら」


 くすっ。とアーシェさんも笑って、お婆さんが両手で抱えた包みを指さす。

 なにか箱を布で巻いているらしい。僕の頭くらいの大きさで四角かった。


「ええ、そうなのよ。ずっと昔に譲ってもらったのだけど、開け方が分からなくなってしまって」


 近くの丸テーブルを、アーシェさんは勧めた。お婆さんは丸椅子に腰かけ、布を解く。

 お爺さんはやっぱりお婆さんの腕に触れたまま、隣に立った。


「魔女の隠し箱、ね」

「そうなの。みんなそんな物知らないって言うのよ。噂を信じて、来てみて良かったわ」


 開けてくれそうだ、とお婆さんは感じたのだろう。ぱあっとマーガレットの咲くみたいに顔を輝かせる。


「やってみないと分からないわ。最悪は、箱を壊すことになるかも」

「なるべく壊さないでほしいけど、でも仕方ないわ。この中には、とても大切な物が入っているはずなの。なんだか分からないけど、きっと私の命よりね」


 不安そうな顔を引き締めたお婆さんは、両手を祈りの形に組み合わせた。

 アーシェさんは恭しく胸に手を当て、深く腰を折って答える。


「このアーシェが、全力を尽くしましょう」


 彼女は箱を取り、上下左右をぐるぐると見回した。


「うん、やっぱり隠し箱ね。持ち主の決めたたった一つの言葉以外では、どうやっても開かないそうよ」

「言葉?」


 お婆さんは頬に手を当て、眉を寄せる。なんの言葉かだけでなく、言葉が鍵ということさえ忘れてしまったらしい。


「それが分からないと、壊すしかないのかしら」

「そう言われてるわ。でも隠し箱は、最初から一つの塊だったように閉じてしまう。これは鉄製みたいだし、壊すのもなかなかね」


 一旦、箱はテーブルに置かれた。アーシェさんは部屋の奥のカウンターに向かい、背の壁に作られた棚から革包みを取る。

 縛った紐をぐるぐると解きつつ戻ると、それをひょいっとテーブルに広げた。


「でも、やってみる」

「お願いするわ。あなたなら、きっとなんとかしてくれるもの」

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