第3話:【正太】二人の関係─3
革包みにはペンチや叩きノミ、鋏に彫刻刀といった工具が入っている。細いハンマーを取ったアーシェさんに、お婆さんはぎこちなく笑う。
こうなると僕には出来ることがない。しかしとりあえず、お客さんにはお茶を出すべきだ。僕は二階の厨房へ向かい、クセの少なそうな薬茶を淹れた。
「お口に合えば、どうぞ」
「やあ、これはこれは。儂にまで申しわけないね、ありがとう」
アーシェさんとお婆さんにお茶を出し、隣のテーブルから奥さんを眺めるお爺さんにも勧める。
「君はここの子かい? 歳を聞いてもいいかな」
「ええと、居候です。九歳です」
「ほう。儂の子や孫は、その時分に茶の淹れ方なんか知らなんだよ。湯も沸かせなかったのでないかな」
大きく口を広げ、眼を丸くして褒めてくれる。僕が子どもだから、大げさに言っているのだろう。
それでももちろん、自分のしたことにお礼を言われるのは嬉しかった。
「この店の主人は、魔女だね」
「えっ。いや、そんなことはない気がしますけど」
「はっはっ。隠さんでもいいよ、儂みたいになるとそれくらいは分かる。嫌う者も多いが、儂は好きだしの」
箱を傷付けないよう、アーシェさんは丹念にハンマーで叩いていた。あれでなにが分かるのか、僕には分からないけど。
お爺さんはお婆さんばかりを見ていると思ったのだけど、今は細めた目をアーシェさんに向ける。
「なにせ、あの箱を魔女からもらったのは儂だからの」
「えっ。じゃあ、お婆さんが譲ってもらった相手って」
「そう、儂だよ。たぶん儂のせいなんだろうが、婆さんは多くのことを忘れてしまった」
なんのことか分からず、「はあ」ととぼけた返事をしてしまった。でもやがて、その意味に気付く。
「あの。お爺さんのせいなんて、そんなこと」
「ありがとうよ。誰のせいかなど、言っても詮ないからの。婆さんが鍵を思い出してくれるのを、儂は祈るよ」
自分を慰めるようにニヤッと笑い、お爺さんは空いている丸椅子を僕に勧めた。待つ間、話し相手になれと。
振り返るとアーシェさんは、腰に付けた小袋をひっくり返したところだ。テーブルに小さな石が、両手にいっぱいも転がる。
「傍へ居てもなにも出来ないので、ここに居させてください」
「ああ。なにも出来ん同士、ここでおとなしく見ているとしよう」
丸椅子に座ると、僕の足は床へ届かない。困りましたね。と笑おうとしたけど、お爺さんほど器用でなかった。
「君は、歳に似合わん気遣いがあるな。誰か本当に好きな人ってのが居るのかい?」
「えっ」
「違ったなら、すまんよ。その人の為なら、なんでもしてやりたい。気遣いってのは、そういうもんと儂は思っとるでな」
しばらく作業を眺めて、お爺さんは急にそんなことを言い出した。
歳を取ると、照れも無くなるのか。どぎまぎしてすぐに答えられなかったけど、落ち着いて考えてみる。
「……好き、ってよく分かりません。でも居るとしたら、アーシェさんかもしれないです。だって僕を、ここへ置いてくれたんです」
たった五日やそこらで、本当に? と我ながら思った。でも他に当ては無い。
「そうかい、若いのはいい。知らない感情がどんなものか。その気持ちが本物か。探してたしかめるのに、十分な時間がある。君の人生に、とても大切なことだ」
自信の無さを見抜いたのかも。お爺さんは僕の肩を強く握り、二度頷く。
すると僕も不思議なほど気持ちよく、「そうですね」と頷き返してしまった。
「ただし、中に間違いのあることを認める勇気も必要だ。自分の気持ちだけは本物に違いない。思い込んで、しがみつかなきゃ生きていけなくなるんだ、歳を取るとな」
きっと過去に痛い目を見たのかな、と思わせる苦笑が落ちた。
いやまさか、お婆さんのことを? という不安が過って、図々しく聞く。
「え。じゃあ、お爺さんの本当に好きな人は?」
「儂は婆さんを愛しとるよ。儂だけの勘違いでないと願っているが、こればっかりは分からん」
今度は苦笑でなかった。ちょっと照れたように、それでいて嬉しそうに、お爺さんはお婆さんを眩しげに見つめる。
「いやいや、年甲斐もなく喋り過ぎた。儂も息子と、外で待っていよう」
「そんな。お茶のお代わりを飲んでいってください」
「ああ、ありがとうよ。しかしジジイにも、恥ずかしくなることはある」
お爺さんは顔を手で隠しながら、表への戸に向かった。それをどうしても戻れと、僕に言えるはずもない。
「またお茶を飲みに来てくださいね」
「機会があれば、そうさせてもらおう。君に最愛の誰かが見つかることを祈っとるよ」
またなと出て行く背中に「ありがとうございました」と。お礼を言うことが、これほど心地のいいものとは知らなかった。
「ショタァ」
「えっ、はい」
閉じた戸を見つめる僕に、アーシェさんの声がかかった。振り向けば透明な石を摘み、「ありがと」と僕に見せつけている。
「奥さん、開け方が分かったわ」
「良かったわ、どうすればいいのかしら」
彼女の視線はお婆さんに戻り、透明な石を箱の上に置く。
「これは純粋無垢の水晶。魔女たちが真実を引き出す道具として使ったそうよ」
「真実?」
「ええ。日々の虚実に埋もれた、真実を呼び起こしてくれるはず」
三角形を八つ組み合わせた形が、陽の光に白く輝く。アーシェさんはそれを箱ごと、お婆さんの目の前へ置いた。
よく見ろとも言わないのに、お婆さんはじいっと見つめる。催眠術でもかけたみたいに、表情がぼんやりとした。
「ねえ奥さん。あなたには、とても大切な人が居るわ。心から愛して、その人もあなたを愛した」
「――ええ、二人。一人は息子よ」
「優しい息子さんよね。じゃあ、もう一人は? 名前を教えてくれるかしら」
いよいよお婆さんは、ぐらぐらと頭を揺すり始めた。倒れそうで、僕は慌てて背中を支える。
「レオ。私の夫、レオナルト。愛しているわ、ずっといつまでも」
熱に浮かされたみたいな、ぼんやりした声だった。でも言った途端、金属の擦れる乾いた音が箱から聞こえた。
するとアーシェさんは水晶を取り、その手でお婆さんの額に触れる。
「奥さん、箱が開いたわ」
「ん? 私、なんだかぼうっとして。いえ、開いたの? 開いたのね!」
天へ届きそうなくらいに跳ねた、お婆さんの声。慌てて、慎重に、震える手が箱のてっぺんを外す。
「楽しみだわ、なにが入っているのかしら。きっととても素敵な物よ、そうに決まっているわ」
見る前にそれほどハードルを上げて大丈夫か。僕の心配をよそに、お婆さんは箱の中身を取り出した。
それは紙の束。便箋みたいな、同じ大きさの紙が何十枚も。いや間に、封筒も挟まっている。
「お手紙だわ。ねえ、リリー当てとなっているの。私のことよ!」
「そう、大切な人からの手紙だったのね。見つけられて良かったわ」
お婆さんは上から順に、何枚かを読んだ。一枚ずつにも、かなりの時間をかけて。
「レオナルトという人だわ。私のことを、とても大切に想ってくれているみたい。こんな素敵なことがあるかしら。この歳になって、また新しい出逢いがあるなんて!」
「……ええ、きっとレオナルトも喜んでくれるわ。息子さんが外で待っているから、残りはおうちで読んではどうかしら」
そうするわ。と、お婆さんは椅子を立つ。紙束を箱へ戻し、きっちりと布で包み、赤ちゃんを抱くようにして。
アーシェさんと左右を支え、お婆さんを外へ連れ出した。息子である小父さんが御者席を飛び降り、走ってやって来る。
「母さん。開いたのか?」
「ええ。どうにか」
アーシェさんが答え、お婆さんも頷いた。小父さんは料金を尋ね、銀貨五枚を支払う。
「あれ、お爺さんは」
お婆さんを乗せるのに、馬車の扉は大きく開かれた。中に誰も居ないのが一目瞭然で、外へ出たはずのお爺さんは他のどこにも見えない。
「しぃっ」
「えっ?」
髪と同じ橙色の、アーシェさんの唇へ指が一本押し当てられた。
黙っていろと言われても、ここへ置いてけぼりにされては大変だ。僕は視線で尋ねる。
「あの人たちに、レオナルトの姿は見えないわ」
「見えないって……」
どういうことか考えるうち、馬車は走り去った。お婆さんと小父さんは、何度も手を振ってくれた。
「あのお爺さんとお婆さんは、お互いが分からなくなっても愛し合ってるんですよね」
と聞いたのは、アーシェさんと出逢って半年ほどが経った僕。就寝前のアーシェさんは、まだテーブルに伸びている。
「さあ。人の心がどうかなんて、あたしには分からない。想像することは出来てもね」
「そうだと思います。だから僕は、何度でも同じことを言うんですよ」
「同じこと?」
薬茶で温まったせいか、アーシェさんはうっかり問い返した。すかさず僕は、彼女の心を射止める為の言葉を放つ。
「アーシェさん、僕と結婚してください!」
「だから断るってば」
またきっぱりと断られた。通算で何度目か、記録していなかったのが悔やまれる。
まあいい。また明日、アーシェさんが素直な気持ちになってくれることを僕は信じる。
「なんか腹立つこと考えてそう」
「そんなことはないです」
「そう? それはそうと、あの時あんたの質問に答えていなかったね」
質問とはなにか、思い出せない。首を傾げているのに構わず、アーシェさんは席を立って寝室へ向かった。
「あんたが来て良かったかなんて、分かるわけないよ。一緒の時間を過ごして、ずっと後の感想でしょ?」
ああ、あの時の。思い当たったけど、無情に寝室の扉は閉ざされた。
ただ。その向こうから、僕に嬉しい言葉の聞こえた気がする。
「そうなればいいな、とは思ってるよ」
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