第38話:前夜

 

 王城前広場――〝金杯亭〟


 その小さなな宿屋兼酒場の奥の個室。


「……なるほど。それでその小娘も連れてきたのですね……」


 円卓に座るアドニスの向かいに立つ、銀縁眼鏡を掛けた女性――今はメイド服ではなく、動きやすそうな服を着ている――タレットが、シエンを見てため息をついた。


 カグツチはというとアドニスの隣に座り、円卓の上に置いてあるナイフとフォークを興味深そうに見つめていた。


「あー、まあ、そんな感じだね」

「誰が小娘よ!」


 煮え切らない返答をするアドニスと、不服そうな声を上げるシエン。


 そもそもこの店まで案内してもらったあとは、シエンとは別れる予定だった。しかしアドニスは裏路地に入った辺りから、を感じていた。それは決して追ってきているであろう衛兵や騎士といった者のものとは違う、もっと殺伐とした気配だった。


 まるで裏路地が都合が良いとばかりに、その気配が徐々に近付いてきていた。


 結果として、シエンの案内が的確で、そして彼女の足が予想以上に速かったおかげで、その気配が追い付く前に店に到着することが出来た。


 その時点で、彼女をここで一人にするのはアドニスは危険だと判断したのだ――巻き込むのは本意では無かったが。

 

「衛兵達に見付からずにここまで来られたのは彼女のおかげだから、お礼をしないとだし」

「んー、別にお礼とかいらないけど……ま、ご飯ぐらいなら奢ってくれてもいいわよ!」

 

 アドニスがそんなシエンの言葉に苦笑するも、タレットの表情は変わらない。


「まあいいでしょう。ですがまさかこんな王城のすぐ近くで魔物騒ぎとは……王宮内も大騒ぎですよ。ただですら内輪もめで荒れているというのに。西から帝国が攻めてきている時に何をしているやら」


 疲労が滲み出るタレットの言葉をアドニスが聞き返す。


「内輪もめ?」

「はい。王とキール王子がどうやらベラノ王子の処遇について揉めたようで」

「……僕のせいか」


 アドニスの言葉に、タレットが首を横に振った。


「いえ。遅かれ早かれこうなっていましたよ。あの人は……ミナー王妃が亡くなられた時点で、終わった存在ですから」


 父のことを、〝あの人〟と呼んだタレットに、アドニスは少しだけ違和感を抱いた。タレットは普段からあまり素顔を見せず、何を考えているか今でも分からないが、妙にその言葉には感情が乗っていた気がした。


 何より、母の名前が出てきてアドニスは思わず身構えてしまう。


「ねえねえ、黙って聞いてたけど、もしかしてアドニスって貴族か何か?」


 そんなアドニスの気持ちを知ってか知らずか、シエンが訝しげにそう聞いてくるので、アドニスがタレットへとチラリと視線を送る。


「――構いませんよ。どうせ王都には長居しません、今さらです。もはや小娘がどうこう出来るレベルの話ではなくなりつつありますし」

「だから小娘言うな」


 シエンの抗議をしかしタレットは無視する。


「とにかく話を戻しますが、今の状況だと王に、ドラグレイクに構っている暇はなさそうですね」

「会うのは難しい?」

「……いえ、何とかしてみせます。でないとここまで来た意味もないですし。アドニス様も……色々と聞きたいこともあるでしょう」

「うん。タレットも知っているのでしょ? 母さんの死について」


 しばしの沈黙。


「……はい。すみません……隠していたわけではないのですが、結果的にそうなってしまいました」


 タレットがスッと頭を下げた。その顔にはやはり何の感情も浮かんでいなかったが、それでもアドニスには、彼女が深く悲しんでいることが分かった。


「そんな気は何となくしてたよ。良いんだ、きっと何か理由があるのでしょ。僕にそれを責める資格はないよ」

「いつか……お話出来ればと思います」

「うん。それで、どういう段取りになってるのかな?」

「明日、王が謁見の間を急遽開けるそうです。本来なら来週辺りのはずだったのですが、おそらく出陣する為に予定を早めたのでしょう。そこに、無理矢理アドニス様をそうと言わずにねじ込みます」

「その場で刃を向けられたらどうする?」


 ここでようやくカグツチが口を開いた。それはその事態を案じているというよりは、どうせそうなるから予め指示を聞いておこうぐらいの軽い言葉。


「万が一そうなった場合の脱出案は構築済みです。流石にその場で暴れるのは悪手でしょう」

「そうか。ならいいんだ」


 カグツチが再び口を閉ざした。


「全ては明日、か」

「はい。どうあれ、それがかと」


 アドニスも、そしてタレットも、クロンダイグと和解するという選択肢がないことは分かっていた。アドニスは例え父が泣いて詫びてこようと許すつもりもクロンダイグに戻るつもりもない。


「あはは……なんかフクザツな感じであたしにはさっぱりだけども……あたしはもう帰っても大丈夫?」


 シエンが笑みを浮かべるが、彼女に対するタレットの言葉は無情だった。


「とりあえず貴女の安全も考えると、少なくとも明日の謁見までは行動を共にしてもらうしかないわね。嫌ならば……仕方ない、首を斬るしか」


 まるでそっちのが楽だとばかりに、タレットが冷たい視線をシエンへと向けた。


「こ……行動を共にしまーす! ま、どうせやることも、もうないし」


 表情が固まったシエンの言葉に、タレットがアドニスに向き直り、頷いた。


「それでは、今日はこの酒場の上に部屋を取っております。明日までは窮屈でしょうがそちらで待機を」

「うん、ありがとうねタレット」

「これも仕事ですから」


 そう言って、タレットが頭を下げた。


 話が一段落したのを察してシエンが声を上げる。


「ねえねえ、部屋の外に出たら駄目なのー? 屋台いこうよ屋台。王都名物の串焼きが食べたいなあ」

「部屋から出た時点で敵とみなして首を斬るから、そのつもりで」


 タレットの氷のような言葉に、シエンが泣きそうな声でアドニスに訴えた。


「……アドニス! この人すぐ首斬るとか言って怖いんですけど!」

「あはは……」


 こうして、アドニス達は王都で一晩過ごすことになった。


 それが――王都最後の平穏であるとも知らずに。



☆☆☆



 王都より西方。

 クロンダイグ領レインファッハ地方第二都市ファルゼン――〝旧〟領主の館。


 そこは王都に最も近い都市であり、ここが落とされれば、クロンダイグ王国は喉元にナイフを突きつけられているのと同義だった。


 しかし、ファルゼンは既に――


 月が雲に隠れたせいで街は暗いが、あちこちから湯煙が上がっており、笑い声が聞こえてくる。


 そんな街を見下ろすバルコニーに一人の青年が立って、その景色を眺めていた。夜風に揺れる狐耳に、九本の尻尾。


「おやおや、貴方が物思いにふけるとは珍しい。どうなさいましたか、九渦くか様」

「……ち、お前か。今回はレーヴって名前が付いてんだ、そっちで呼べ」


 青年――レーヴが嫌そうな声を出しながら振り返った。


 そこには、狩衣かりぎぬと呼ばれる、黒一色に染められた、裾が丸く広い独特の民族衣装を着た男が立っていた。その格好は、キサナギにおける魔術師の立ち位置にある陰陽師と呼ばれる者達がよくするものであり、だからこそリダルシア大陸の重厚で豪奢な建築物内で、彼は少々浮いていた。


 だが女性と見間違うほどに長い黒髪に整った顔立ちは、レーヴと並んでも遜色ないほどである。


 その顔には、見る者を悪寒させるような冷たい、造り物めいた笑みが浮かんでいた。


「そういえばそうでしたな……! いやはやそういえば我にも、アゥマという名がありました。我としては真名である渾天こんてんを捨てるのはいささか抵抗がありますが……」


 アゥマが肩をすくめたのを見て、レーヴが舌打ちする。


「姫様が決めたことだ。文句言うんじゃねえよ」

「然り。それで、我の人形ヒトガタを使った偵察の成果はいかほどで? 天魔を……魔王を騙る愚か者は誅したのですかな?」


 粘っこいその言葉を払うようにレーヴが手を振って、眉間に皺を寄せた。


「姫様が奥でふて寝をし始めてから、起きる気配がない。報告しようがねえさ」

「まだ寝ていらっしゃるのですか……やれやれ、王都偵察に反対した我はしばらく恨まれそうですな」

「はん、自業自得だろ。そもそも姫様をどうこう出来る存在が今、この星に存在するか? 後生大事に守るもんでもねえだろうが。好きにさせたらいい」


 レーヴの言葉を、アゥマが否定する。


「レーヴ様は前回の天竜戦争の事をもうお忘れになられたのですか? あの悲劇を」

「言わせるな。もちろん忘れてねえよ。同じ過ちは二度も起こす気はねえ。だがそれとこれとは話が別だ」

「ならば良いのです。ですが、多少は過保護になるのも致し方ないと思ってくだされ」


 アゥマがそう言って、遠くを見つめた。その目には悲しみが宿っている。それを見て、レーヴも悲痛そうな声を出す。


「分かってる……分かってるさ」

「此度こそ……我らの悲願を。その為にも、きっちり準備を行わないと」

「……それで王都を落とすのはいつになる。その話をしに来たのだろ?」

「間もなくかと。姫様は、〝赤き狼煙を待て〟と仰っていましたが……さて何の符号やら」

「はん、こっちはとっくに準備出来ているんだ。さっさと王都を包囲して、その時を待つだけさ」


 レーヴがこの街の周囲の荒野に広がる、帝国軍の巨大な陣地を見てニヤリと笑った。


 その数、五万を上回る〝兵〟が、今か今かと戦いを、血を求めている。


「我は暇すぎて、我が百八ある術式が一つ【湯湧ゆわき】と【檜呼ひのきよび】を使ってしまいましたぞ」

「街に急に檜風呂が増えたと思ったらお前の仕業か……その術式、無駄なやつが多過ぎねえか?」


 眼下で湯を楽しむ部下達を見て、レーヴが呆れたような声を出した。


「この大陸の蛮族共は風呂に入るという崇高な文化を持っていないゆえに姫様がご要望されたのだ。くべるにも困らなくて助かりました。いやはや、大陸人は

「はあ……暢気なもんだ。それで、クロンダイグ軍は動きはどうなっている」

「どうやらクロンダイグ王自ら打って出るとか。早々に手を打つべきではと、童子どうじ様……おっとシュタイン様でしたな。そう、シュタイン様が勇んでおられます」


 アゥマの言葉にレーヴが黙って頷く。あの戦馬鹿ならそう言うに違いないと納得する。


「明日朝には全軍王都まで進軍するそうな」

「はん、軍なんざ動かさなくても、俺らだけで十分だと思うけどな」

「我一人だけでもあの程度の国なら制圧できますが……これは他国へのアピールにもなりますゆえ」

「くくく……覇王とやらがどれほどのものか楽しみだ。前菜になると良いが」

「前菜、ですか?」


 レーヴの言葉に、アゥマが首を傾げた。


「クロンダイグより更に東方に、がいるぞ。今回は中々に喰いがいがありそうだ」


 その言葉に、アゥマが目をスッと細める。そして、その口角を大きく歪めたのだった。


「それはそれは……! 朗報ですな! なればこそ……クロンダイグには盛大に散っていただきましょう。我らが〝天魔〟――百夜様の為に」

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