仙人掌に咒法の心を

涌井悠久

仙人掌に咒法の心を

 俺は今、山に来ている。理由はない。暇過ぎるから散歩してたら近くの山に来ただけだ。

 目の前には、暇人じゃなきゃ気づかなさそうな細い山道。この先には何があるだろう。誰も知らない豪邸があって、そこで不思議な出来事に…なんてことがあればいいなあ。

 望みを胸に俺は夢中でその山道を歩き続けた。昨晩の雨で靴が重くなろうと、枝で皮膚を引っ搔こうと歩いた。

 不意に視界が開けた。突如現れた日光の眩しさに思わず目を細めてしまう。

 かすれた視界の中には草原が広がっていた。タンポポが咲き、モンキチョウが数匹飛んでいる。うぐいすの鳴き声が微かに響き、草原の真ん中には木製の小屋が一つ建っている。

 豪邸ではなかったが、それでも俺は未知の何かに心を惹かれた。未知は蜜の味だ。

 三回ノックして反応を確かめた。…反応なし。それもそうか。こんな辺境の山小屋、とっくに廃棄されてて当然だ。

 俺は興味本位で冷たいドアノブをひねり、重い扉を開けた。

 そこには異様な光景が広がっていた。小屋の中は大量の仙人掌サボテンで埋め尽くされていた。棚も机も床にも仙人掌が敷き詰められている。

 だが、それよりも気になるものが目に留まった。

 入って正面に白いベッドがあった。掛け布団が膨らんでいる。誰かが寝ているのだ。

「客人とは珍しい」

 不意に後ろから声をかけられた。やってしまった。この小屋、誰か住んでるのか。

 振り向くと、玄関の外に緑の着物を着た一人の男が立っていた。身長は俺よりもずっと高い。が、威圧的な雰囲気はまるでない。むしろ儚げで、今にも日光で溶けてしまうんじゃないかとさえ思えるほどだった。

「吸血鬼じゃないんだ。日光で溶けやしないよ」

「――心、読めるんだ…」

「ああ。『夏』に呪われてしまってね」

「…何言ってるのか分かんないんだけど」

「僕が心を読めるのは『呪い』のせいだって話さ」

「へえ。『呪い』って言うにはあまりにも便利だ」

「最初は僕もそう思ったさ。でも辛いよ。人間の汚れて黒ずんだ部分をただ見せられるだけ。そんな時に僕は植物と触れ合った。植物は素晴らしい。嘘をつかず奇麗に白日に生きている」

「そういうものか」

「落胆したかい?」

「まあね。心を読めたらどれだけ楽かなんて、みんな考えることでしょ?」

「はは。君、人間なのにやけに素直だね」

「ところでさ、ここに寝てるのって?」

「ああ。僕が育ててるだよ」

「…は?」

 思わずベッドを覗き込んだ。

 そこには、女性が眠っていた。奇麗な女性だった。目鼻立ちがはっきりしていて、窓から差し込む光を受ける彼女の肌は、白く透明なんじゃないかとさえ錯覚するほどだった。

 しかし、俺たちの会話でも全く起きる気配がない。目をつむったまま微動だにしない。というか、明らかに人なのに植物って――

 そういう事か。

「…

「その言い方は嫌いだね」

 男の顔に怒りとも悲しみともとれる表情が浮かぶ。

「ああ、ごめんなさい。ところでこの大量の仙人掌は?」

「僕は仙人掌が好きなんだ。僕が知ってる心の読めない生物の中で、一番賢い」

「よほど心を読みたくないんだな」

「勿論。汚い所を見て喜ぶのはハエぐらいなものだよ」

「この奇麗な植物の心は?」

 彼の視線の先にはベッドに横たわる女性。

「読めないよ。植物だから、当然。そこが良いのさ。植物には心がないから僕を裏切らない」

 彼は『呪い』を受けてから、人が平気で裏切ることを知ってしまったようだった。だからこんな山奥に住んでいるのか。

「…そうだ、そろそろ罠の様子を見てくるよ」

「へえ、本当に街に下りないんだな。狩猟の許可は取ってる?」

「じゃあ、行ってくるよ。好きなだけくつろいでね」

 男は扉を開けると、少しだけ速足で外へ出て行った。

「絶対に許可取ってないなあ…」

 改めて部屋を見渡してみる。本当に異様な場所だ。クローゼットの上にも、流し台の上にもベッドの上にも、あらゆる場所に大小様々な仙人掌が置いてある。

「これは、異常だろ…」

 ふと、仙人掌だらけの机の上に日光を反射して光る何かが置いてあるのが見えた。それは、3冊も重なって置かれている青いアルバムだった。

 好奇心に背中を押され、俺はアルバムを開いた。

 開いてしまった、と言うのが正しいか。

――中身は全て、植物状態の女性で埋まっていた。めくってもめくっても全て同じ女性の眠っているような顔。几帳面に日付もメモしてある。


「どれも良い写真でしょう?」

「うああ!?」

 不意に声をかけられた。反射的に肩が跳ね、アルバムを落としてしまう。落ちたアルバムを見て初めて気づいた。全身の毛が逆立つのを感じる。

 裏表紙には

『僕の最愛の植物』

 と書かれていた。

「私ね、あの人を心の底から愛してるの。本当に本当に、頭がおかしくなりそうなくらいに愛してるの」

 声の主はベッドで寝ていた女性だった。心を失った植物のはずだった彼女は、心底幸せそうにこちらを満面の笑みで見つめている。彼女は何も質問してないのに愛を語っていた。駅のアナウンスみたいな、一方的な語り口だ。

「でも、結婚までしたのにあの人は私に振り向いてくれなかった。ずっと仙人掌ばっかり見て、愛でて、水を与えて、世話をして――ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと!!」

 鼓膜が痛くなるほどにヒステリックな絶叫だ。思わず耳を塞いでしまう。

「…だからね。私、仙人掌になることにしたの。あの人が愛する、心がなくて賢い仙人掌に。そうすればあの人は私を見るし、愛でるし、水を与えるし、世話をする。そうやって写真まで撮ってくれるのよ」

「…植物人間のフリだなんて、狂ってる」

「貴方には理解できなくていい。あの人への愛が理解できるのは私だけで十分よ」

 あの男の妻は、いつの間にか無表情だった。まるで植物だ。

 俺は黙って小屋を後にした。これ以上あの小屋にはいられない。

 よく考えたら植物人間じゃないのは当たり前だ。テレビかなんかで見たが、植物人間は食べ物を飲み込むことさえ出来ないから点滴で栄養を取り入れる。でもあの小屋に点滴はなかった。つまり普通に生きてる。男を愛する心もある。彼女の心を読めない筈がない。

 畢竟ひっきょうあの男は妻が植物人間じゃないと知っていて世話しているんだ。

 呪われてから人間が怖くなった。人間を愛せなくなり、人間である妻も勿論愛せなくなった。でもああやって妻を植物として扱えば、素直に愛せる。植物には心がなくて、人間みたいに裏切る心配がないから。

 あの呪われた山小屋にあるのは、愛に餓えて仙人掌になった女の異常な愛と、裏切りを恐れて妻を植物と見做す男の異常な愛なんだ。

――いや、夫婦愛の在り方に第三者がとやかく言うもんじゃない。


 『最愛の植物にも心はあった』


 二人の関係は、この言葉だけで十分だろう。

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