第32話

 みるみる顔が赤くなっていく杉山に感化され、一気に血が昇った。

 頬が熱い。

 鼓動がうるさいほどに脈打ち、ゴクリと唾を飲み込む。

 目線を逸らせない。


 動けずにいると、杉山が寄りかかってきた。

 杉山の体重を胸で受ける。軽そうに見えても、それなりに重い。

「杉山」

「はい」

「嫌いなんて俺は言わない」

 そう言うと、杉山は泣き笑いのような顔になった。


 同時に、かすかに甘い香りがした。

 柔らかく甘い。そして懐かしい。人肌の匂いというのはこんなに甘いものなのだろうか。

 母親とふれあい、弟とじゃれ合っていた幼い頃にかいだ懐かしい匂い。

 この匂いをかぐと安心した、遠い匂いの記憶。

 ずっと忘れていた。


 彼の腕を掴んでいた手を放し、杉山の頬に手を置く。

 頬の赤さをそっと親指でなぞった。


 目を閉じた杉山の隈に目が留まった。朝、目覚ましもなくよく起きれたものだ、と、ふと思った。

 三時間だけでも深く寝ることができれば、ある程度スッキリする。寝る時間が短いから眠そうにしていると思っていたけれど、先ほど抱きしめた時の反応と、寝た時間――。


「寝てないのか……?」


 まさかと思って訊ねてみると、眉がピクリと動く。

 開いた目は隼大を見ず、瞬きを繰り返す。

 身を起こすと「小言は受け付けませんから」と、いたずらがバレた時の子どものような顔をした。

 先制されてしまっては、何も言えず、肩をすくめた。

 その代わりに、こう言った。


「小言は言わない。けど、寝られないのは辛いだろう。今日の寝床はソファで決まりだな」

 ニヤリと笑って言うと、情けない顔に変わった。

「川浪さん、それはないです。例え、寝られなくても、隣で寝れるなら三日ぐらい徹夜したって大丈夫です」

「緊張するんだろ?」

「します。しますけど、いいんです。それに、川浪さんの寝顔見れるだけで、最高……、あ、いえ」

 睨んでいるのがわかったのか、最後まで言うまえに口を閉じると「食器置いてきますね」と、背を向けた。


「寝顔ね……」

 人の寝顔など、そんなにいいものだろうか。

 グラスとお皿を並べている杉山をぼんやりと見る。

「そうだな、杉山の寝顔なら見ていた――」

 呟きを最後まで言わずに口を抑えた。

「いやいや、何を言ってるんだ、俺」

 額に手をやり、苦笑する。

 


「川浪さん、どうかされました?」

 心配そうな声。床に目線を落とすと、杉山の足先が見える。

 本当は、なんでもない。と言おうとした。

 けれど、杉山の顔を見ると、別の言葉が口をついて出た。

「一緒に寝るか」

「え?」と、目を丸くした。

 隼大自身も、一瞬驚きはしたけれど、昨日よりも明らかにやつれている杉山を見れば、言ったことも納得できた。

「ご飯は?」

「適当に食べて、さっさと寝よう。眠いだろ?」

「大丈夫ですよ」

「俺が大丈夫じゃない。寝たいときに眠れないない辛さを知っているから余計にな」

「もう少し、起きていちゃ駄目ですか?」

 だだをこねているのではない、もっと切実な何かがある。そんな顔で隼大を見た。

「今日寝ても明日の晩もある」


 しかし、杉山は横に首を横に振った。


 強固な態度に、眉を寄せる。

 その時、隼大の中にあったのは、苛立ちや焦りではなく、愛おしさだった。

 駄目だと思う前に手が伸びた。


 もち肌のような手触りの頬をなでる。滑らかで吸い付くような肌。


 硬直している杉山に隼大は、ただ、頷いた。



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