2話:悪魔にはわからない
それからロゼは、聖也の言いつけを守り彼以外からの吸精をやめた。聖也も約束通り、一日に一度、彼に精気を吸わせた。仕事終わりにロゼの家で、彼の指を少し舐めるだけ。
どうしても都合が合わない日でも、ロゼは決して彼以外の精気を吸わなかった。
その日、ロゼにとっては3日振りの吸精だった。
「今日はちょっと多めに吸わせてもらうからね」
「あぁ」
ソファに座り、尻尾を聖也へ向かわせるロゼ。聖也はその尻尾を捕まえ、ロゼの前にしゃがみ込み、先っぽを咥えて口の中で転がした。
「ん……聖くん……はぁ……生き返る……」
もう良い?と聖也はロゼの顔を見上げて目で問いかける。ロゼは手を伸ばして聖也の頭を撫でながら「もう少し頑張って」と笑う。
不覚にもその妖艶な笑みが、聖也の心臓を飛び上がらせる。お前はこいつに恋をしているんだぞと、聖也に思い出させるように主張した。
「……ねぇ……首噛んでもいい?」
「い、痛いのは嫌だ……」
「じゃあ指でもいいから……血吸わせて……」
ロゼ曰く、血液から摂取する精気が一番味が濃くて美味しいらしい。
聖也は尻尾を口から離し、指を差し出す。ロゼの鋭く尖った犬歯が突き刺さり、鋭い痛みが走った。
「いっ——!こ、これ……首に突き刺すとか……殺す気だろ……」
「死なないし、痛いのは最初だけ。淫魔の唾液には鎮痛効果があるんだ」
「傷は……?」
「すぐに塞がる」
ロゼが指を口から離し、血がたらたらと流れ出る聖也の指にスッと手をかざすと、血が止まった。
「うわ、マジだ……」
不意に、激しい目眩が聖也を襲った。ふらっと横に倒れる聖也を、ロゼは尻尾で支えて持ち上げてソファにそっとおろした。
「……尻尾にそんな力あんだな……」
「便利っしょ。ごめんね。ちょっと吸いすぎちゃったかな。何か食べ物と飲み物持ってくるね。ちょっと待って」
「待って……」
立ち上がろうとするロゼを、聖也は咄嗟に止めた。そして泣きそうな顔で「行かないでくれ」と懇願する。ロゼが大人しく座り直すと、聖也は自分の言動にハッとして、彼から目を逸らした。
「甘えるなんて、かなり弱ってんね。吸いすぎた分、ちょっと返そうか?」
「あ、甘えてねぇよ……。返さなくていい。自分の精気の味とか、知りたくないし」
「美味しいよ?」
「要らん。白身魚の味する液体とか嫌だわ」
「固形にすることもできるけど」
「いらん」
「そっかぁ」
適当な会話をしながら、ロゼは尻尾を操り、台所に置いてあるリンゴに巻き付かせた。そしてそのまま、ソファの近くにあるテーブルの上に運んだ。
続いて、尻尾を使って台所から果物ナイフを取り出し、テーブルの上に置き、聖也の隣でリンゴを剥き始めた。
「……なんでそこまですんの?」
身体を起こし、真剣にリンゴを剥くロゼの横顔を眺めながら聖也は問う。催眠を使い、人間を操り、襲って精気を啜る悪魔のくせに、何故こんなにも優しいのだろうか。
その優しさのせいで、聖也は彼を憎めないでいた。憎むどころか、彼に対する恋慕は日に日に増していく。それが悔しくて仕方なかった。
「無理矢理襲って、二度と吸精させてくれなくなったら嫌だし、気まずくなるのも嫌だから。それに、別に俺、吸わなくても死にはしないし。一生の飢えかゲロ甘な女の精気かって言われたら後者を取るけど、数日の飢えなら前者を取る。それだけ」
「……悪魔ってのは、死なないんだよな?」
「うん」
「じゃあさ……俺が死んだら、お前はどうすんの?」
「……またゲロ甘生活に戻るか……もしくは……」
「もしくは?」
「サキュバスに協力を仰ぐか」
「サキュバス?」
「女淫魔」
「あぁ、催眠かけてもらうのか……」
「うん。まぁ、淫魔って男女仲悪いから、そう簡単に協力してくれないと思うけど。流石に『俺が死んだ後も他人から精気吸うな』とは言わないでね?言われても聞かないけどさ」
「言わねぇよ。俺が死んだ後なら好きにしろ」
「ん。じゃあせいぜい長生きしてくれよ?君は俺の大事な餌なんだから」
「……はぁ……なんで悪魔を好きになっちゃったんだろうな。俺」
「今でも好きなの?」
「……悔しいけど、好きだよ」
「セックスしたい?」
「……絶対嫌」
「ええ?好きなのに?しないの?」
「絶対しない」
「好きな人の童貞欲しくない?」
「要らん」
「マジで?人間の恋ってそういうもんじゃないんだ」
「……はぁ……」
ため息を吐くと、聖也は彼の腕を掴んだ。何?と振り返った彼に顔を近づけ、そして、唇を重ねた。
ロゼにとってそれは、初めてのキスだった。
「……クソ淫魔」
唇を離して、泣きながら呟いた聖也の気持ちも、突然のキスの意味も理解できずにロゼはきょとんとして首を傾げる。
「なんで今キスした?そんな雰囲気だった?」
「知らん。……もういっそ、精気を吸い尽くして俺を殺してくれ」
膝に頭を埋めて、聖也は呟く。ロゼはリンゴの皮むきを再開しながら彼の方を見ずに「それは出来ない頼みだね」と、珍しく真面目な声で返した。思わず聖也は顔を上げて彼を見る。真面目な顔をしていた。
「言ったろ。悪魔の中にはルールがある。そのうちの一つが、人間を殺してはいけないということ」
「……破ったらどうなんの?」
「……肉体を保てなくなって消滅する」
「死ぬってことか?」
「そ。まぁ、罪の軽さによっては生かしてもらえるけどね」
「裁判があるのか?」
「そんな優しいものはないよ。罪状によって、罪の重さはあらかじめ決まってる。どんな理由があったって、同情で罪を軽くしてもらえることはない。人間は人間を殺しても、裁判で刑期が決まるだろ?」
「あぁ」
「悪魔には裁判はないんだ。人間を一人殺した瞬間、問答無用でその悪魔は死ぬ。どんな事情があろうと関係なく……ね。それが、俺たち悪魔が死ぬ唯一の方法。ちなみに、人間を愛した淫魔が愛した人間の死に耐えられず、その人間の精気を吸い尽くして心中した……なんて事例もあるよ」
「……死んだら、どうなるんだ?」
「人間なら生まれ変わるけど、悪魔の生は一度きり。生まれ変わりはない。俺たちはただ、人間の感情が具現化しただけの存在だからね。魂とか無いんだ。心臓も臓器も無いよ。作ろうと思えば作れなくはないけど、別に中身まで作る必要ないし」
そう言ってロゼは自身の胸に聖也の手を押し付けた。手のひらからは、心臓の鼓動も何も伝わらない。
「……食事してるよな?」
「うん」
「食ったものはどこいくんだ?」
「どこにも行かない。そのまま消滅する。人間みたいに栄養だけ取り込んで要らない部分は液体にしたり個体にしたり、そんな器用なことは出来ない。つまり、悪魔はトイレに行く必要がないんだ。便利でしょ」
「……ふぅん。……血が出るのはどういう原理なんだよ」
「あれは人間から吸った精気で作ってる。不意の怪我で血が出ないと気味悪がられるから。もちろん他の体液も同じ原理。俺の血、甘かったでしょ?」
「あぁ……」
「精液とか唾液も同じ味するよ」
「いや、飲まないからな?」
「そんなわけだから、俺とセックスしても妊娠する心配はないよ」
「心配もなにもしないからな?」
「なははー。冗談冗談。はい、リンゴ」
「……要らん」
「ええー?食べて精気回復しないと。明日も仕事でしょう?意地張ってないで食べなよー。ほら」
「んぐ……」
くし切りにしたリンゴを、ロゼは聖也の口に無理矢理突っ込んだ。
美味しい?と聖母のような優しい微笑みを向けられ、聖也の心臓が加速する。
もはや殺意というべき愛憎が、聖也の中に湧き上がる。聖也は噛み砕いたリンゴを飲み込み、ロゼをソファに押し倒した。
「おわっ。な、なに急に。抱きたくなっちゃったの?今は駄目だよ。さっき俺に吸われたばかりだろ?君の体がもたない」
「うるせぇ。抱かせろよ。俺の精気が尽きるまで」
「……つまり、心中したいってこと?」
「もう……嫌なんだよ……お前に心乱されんのは……」
ぽつりぽつりと、聖也の瞳から降り注ぐ雨が、ロゼの服を濡らす。その泣き顔を見た瞬間、ロゼの無いはずの心臓が痛んだ。
「んだよ……その顔……」
「……どんな顔してる?」
「同情してんのか?」
「同情……なるほど。そうなのかもしれない」
ロゼは身体を起こし、聖也を抱きしめる。
「やめろ……触んなクソ淫魔……」
「……そういう割には抵抗しないんだね」
「クソが……」
「……分からないな。どうして君は俺に精気を提供してくれるの?好きだから?」
「嫌なんだよ……お前が……俺以外から精気を吸うのが……」
「……独占欲ってやつ?」
「そうだよ……独占欲だよ」
「好きだから、独占欲を抱くの?」
「そうだよ。悪魔のお前には一生分からんだろうがな」
「……好きは分かるよ。けど、独占欲混じりの好きはわからない。俺は君が好きだけど、別に君を独占したいとは思わないし」
「……餌としてしか見てないもんな」
「人として好きだよ。だから俺は君に正体を打ち明けた。君を信頼しているから」
「……悪魔のくせに人を信じるとか……変なやつ」
「うん。仲間からもよく言われる。……君はどうして俺が好きなの?」
「……知るかよ……声も、表情も、お前の何もかもが、俺の心を掻き乱すんだよ……」
「……それは、性欲と何が違うの?」
「……性欲だけなら良かったのにな。お前から愛されたいなんて、同じ気持ちになってほしいなんて、望まなくて済んだのに」
「……なるほど。俺にも愛してほしいのか」
聖也は答えず、ロゼの背中に腕を回して、壊してしまいそうなほど強く抱きしめ、嗚咽を漏らした。
その姿が針となり、空っぽなはずのロゼの胸にぐさりと刺さる。
かつて、一人の人間と恋に堕ち、その人間と共に散った友人に想いを馳せる。
恋という感情は、時には悪魔をも狂わせる恐ろしいものだと、その時学んだ。
ロゼには分からなかった。何故友人が、個人に対して異様なまでの激しい執着心と依存心を抱いたのかを。理解したかった。だけど、今まさに彼が人間に対して抱いた感情と同じ感情を自分に向ける青年を見ても、全く理解が出来なかった。
何一つ、理解は出来なかった。無いはずの胸が痛んだ理由も。
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