インキュバスが愛した男
三郎
1話:彼が恋した男は
これは、ロゼがリリと出会う数年前の話。
「……うぇ……まっず……」
恍惚と幸せそうな顔で指を舐める女性とは対照的に、ロゼは顔を顰める。
彼は、インキュバスでありながら女の精気が嫌いだった。吸精の時間が苦痛で仕方ないほどに。
悪魔に死はない。故に、精気を吸わなければ、終わりのない飢餓状態が続くことになる。
飢餓で永遠に苦しむか、一瞬の苦しみを取るか、どちらか選べと言われれば迷いはなかった。
「はいはい。もういいから。さっさと出て家帰って」
虚な瞳をした女性はロゼの命令に従い、部屋を出て行く。
誰もいなくなった部屋で、ロゼはベッドに顔を埋めてため息を吐く。
「あぁ……不便な身体……」
普通の食事で腹が満たされる人間が、彼には羨ましくて仕方なかった。
そんなある日のこと。
「ロゼ。俺さ……」
一人の人間の男性から、ロゼは愛の告白を受けた。彼の名前は
「恋人になりたい?」
「……やっぱり、変か?男が男を好きになるなんて……」
「……恋人になりたいってつまり……俺とセックスしたいってこと?」
「セッ——!?」
「えっと……違うの?じゃあ恋人ってなに?」
「お前……恋とかしたことないわけ?」
「うん。無い」
「……の割には、女と一緒に歩いてるのよく見かけるけど」
「あぁ、あればただの餌」
「は?餌?」
「んー……。……まぁ、聖くんになら話してもいいか……ちょっと、時間取れる?ここで話すのはちょっとまずいからさ、うち来て」
「い、今から……?」
「うん。今じゃなくても別にいいんだけど」
「いや、大丈夫。今から行く」
家に聖也を招き入れ、そこでロゼは彼に自身が淫魔であることを話した。
「……インマ……何?」
「人の精気を吸う悪魔」
「はぁ?悪魔?」
何言ってるんだと苦笑いする聖也だが、ロゼの頭からにょきっと生えたツノを見てギョッとする。
「うわぁっ!?」
「尻尾と翼も出せるよー」
にゅるんっと細長くて黒い尻尾が生え、バサっとコウモリのような翼が生える。
「……本物?」
「うん」
「……精気を吸うって、つまり……」
「あぁ、心配しないで。死ぬまで吸い尽くしたりはしないから。人間殺すのは悪魔界では御法度なのよ」
「そ、そう……」
「あと、淫魔は基本、異性からしか精気を吸わないんだ。俺は男の淫魔だから、女からしか吸わないんだけど……」
「けど?」
「女の精気って、クソまずいんだわ」
「は?」
「いや、マジで。食ってみればわかるけど、クッソまずい」
「いや、食ってみればわかるって言われても。俺人間だから人の精気の味とかわからんし」
「味見してみる?」
「はぁ?どうやって?」
「口移し」
「は!?」
「もしくはこっから吸うか」
ロゼが指差したのは自身の股間。
「……は?」
「まぁ、要は、精気ってのは体液に含まれるのよ。唾液、血液、涙、汗、それから精——「わ、わかった。それ以上言うな」
真っ赤になった顔を両手で覆い隠す男性。
「……ピュアだなぁ。成人男性のくせに」
「お前に羞恥心が無さすぎんだよ!」
「淫乱な悪魔と書いて淫魔ですし」
「い、淫魔って……そういう……」
「そういう悪魔だよ。死んだ人間の性欲が具現化した存在だからね。ほら、未練がある人間は死んでも現世に残るっていうだろ?」
「つまりお前は……幽霊ってことか?」
「まぁそうね。似たような感じ。悪魔というか、性欲の精霊って言った方が正しいかも」
「嫌な精霊だな……」
「まぁまぁ、そんなことよりさ、食って見てよ。ほれ」
ザク……と、ロゼは自分の右手人差し指を指を自身の尖った犬歯に刺した。そして血が滴る指を彼に突き出す。聖也は躊躇いながらも、差し出された指から滴る血を舐め取った。
その瞬間、口の中に砂糖のような甘さが広がり、聖也は思わず口に含んだ血を吐き出した。
「うっわ!あっま……!うわっ、なんだこれ!」
「な?ゲロ甘だろ?」
「お前……いつもこんなもん食ってんの……?」
「そうなのよ。悪魔に死はないんだけど、空腹感はあるからさ……いやでも吸わないと飢餓状態が一生続くんだわ……」
「うわ……」
「可哀想でしょ……」
「……俺の精気もこんな味すんのかな」
「んー……男から吸精したことないからわからん」
「ん?男からでも出来るのか?」
「あぁ、うん。人間であれば吸えるよ。性別とか年齢は関係ない」
「けどお前、異性からしか吸わないって……」
「吸精する際に催眠をかけるんだけど、その催眠が異性にしか効かないんだよ。催眠が効かない相手から吸うのはリスクが高いから——」
聖也を見て、改めてロゼは考える。自分に恋心を抱いており、さらに自分が悪魔であることを知っている彼なら——
「なぁ、聖く「絶対やだ」まだ何も言ってないのに……」
ロゼの意図を察した聖也は、彼が言い切る前に要望を断った。
「精気吸わせろとか言うんだろ」
「そう」
「絶対やだ」
「えー。聖くん俺とセックスしたいでしょ?」
「……したくないと言えば嘘になる」
「んじゃしよ?」
「っ……お前なぁ……!」
ロゼに掴みかかる聖也。淫魔であるロゼには、彼が急に怒りだした理由がわからなかった。何故なら淫魔は恋をしないから。恋という感情を理解出来ないから。
「……そうだったな。お前は悪魔だもんな。分からんよな」
きょとんとするロゼを見て聖也はため息を吐き、彼を離して膝を抱えて丸まった。
「……恋ってのは、性欲だけじゃねぇんだよ。強い執着心とか独占欲とか、愛しさとか性欲とか、そういう、綺麗な感情と醜い感情が入り混じった複雑なものなんだよ」
「……ふぅん」
「わかんねぇだろ」
「わかんないね。何が嫌なの?」
「……お前が俺のこと餌としか見てないのが嫌」
「ふむ……」
「……愛のないセックスとか、虚しいだけじゃん」
「……なるほど。そういうものなのか」
「そういうものなんだよ。人間は」
「……そっか。分かった。じゃあ諦める」
「はっ……随分と諦めがいいんだな」
「だって、嫌なんだろ?」
「今まで吸ってきた女達だって同意の上じゃなかったくせに」
「まぁ……うん。けど催眠効いてたし……催眠効いてない人間は面倒じゃん。君とは毎日会うわけだし、会うたびに気不味くなるのはやだよ」
「じゃあなんだよ。催眠効いてたら俺からも無理矢理吸ってたのかよ」
「そんな怒らないでよ。仕方ないじゃないか。俺は淫魔なんだから。人間の君とは価値観も倫理観も全く違う。……だから、俺には、君が怒っている理由が分からない。別に身体に傷をつけたりはしないよ?ただ、ちょっと指を舐めさせるだけ」
「セックスは?」
「したことないよ。言ったろ?精気は体液に含まれるって。唾液に指で触れるだけで十分なのよ。と、いうわけで、俺はインキュバスでありながら童貞なんだ。良かったね。君が初めてだよ」
「いや、しねぇって」
「えー……俺は別にいいのに……」
「俺が嫌だって言ってんだろうが。諦めたんじゃなかったのかよ」
「だってぇ……まずいんだもん。女の精気。……吸わなくて済むなら吸いたくないくらい」
「男の精気が上手いとは限らんだろ」
「だからちょっと味見させてって言ってんの。セックスさせろとまでは言わないからさ、ちょっと俺の指舐めてくれるだけでいいから。もしくは尻尾でも良いよ」
ペチペチと、ロゼの尻尾が聖也の頬を叩く。聖也はため息を吐き、尻尾をガッと掴んで先っぽに噛みついた。
「あぁんっ♡」
「変な声出すな!」
「だってぇ……噛まれるとは思わなかったからぁ……」
「……で?吸えたのかよ」
「若干」
「どんな味だった?」
「んー……例えるなら……白身魚?」
「は?白身魚?」
「淡白な味。ゲロ甘よりは全然マシ」
「なんだよそれ……男と女でそんな違うの?」
「もうちょっとくれない?」
「もうやらん」
「そう言わずにさぁ……ほら。舐めて舐めて」
ニヤニヤしながら、ロゼは尻尾の先で聖也の唇を撫でる。俺が欲しいだろ?と言わんばかりの煽るような表情が腹立たしくて仕方ないのに、聖也は彼を憎めなかった。心臓が、彼への恋慕を激しく主張したから。
「……分かった。吸わせてやっても良い」
「マジで?わーい」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「……俺以外から吸精しないで」
「んー。毎日吸わせてくれるなら別に構わないけど。まっずい女の精気吸うよりマシ」
「毎日吸わないとダメなのか?」
「聖くんだって、毎日3食ご飯食べないと力出ないだろ?それと一緒」
「あぁ……なるほど。……ん?人間の食事は別で必要なのか?」
「ううん。人間の食事は必要ないよ。俺たちの腹を満たすのは精気だけ」
「じゃあなんで飯食ってんだよ」
「不自然じゃん。飯食わないのに飢えない人間」
「あぁ……擬態するためってことか」
「そ。悪魔だってバレると面倒だからね。俺たちみたいな悪魔は昔から人間に嫌われてたから。石を投げられたり、斧で殴られたり、貼り付けにされて火炙りにされたり……死なないとはいえ、痛みはあるからさ……だから、いじめられないように、人間のふりしながらこそこそ生きることにしたの」
「……俺にはあっさり正体明かしたのはなんで?嫌われるとか思わなかったわけ?」
「ふふ。聖くんなら、受け入れてくれる気がしたんだ」
「……んだよそれ……どっから来るんだよその信頼は……」
女性を操って無理矢理精気を吸う悪魔とは思えないくらい可愛らしく無邪気な笑顔に、聖也は調子を狂わされる。
聖也の心臓が、彼に対する恋慕をうるさいほどに激しく主張する。黙ってくれと、聖也は騒ぐ胸をぎゅっと押さえ付けた。
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