擬人化表現から探るライトノベルの真髄
擬人化という手法がある。
昨今では戦艦や競走馬、刀剣などの「擬人化」コンテンツが支持を集め、元ネタにまで興味を持つファンも多い。
ただ、そこで言われる擬人化は本来の意味とは少し違う。
擬人化とは本来、比喩であり見立て表現である。つまり、人ならざるものを人に見立てて表現することだ。
それらのコンテンツも人ならざるものが人の姿を取る理由付けがあるのだろう。彼らがどの程度まで「人間」なのかは作品にもよると思うが、いずれにせよ彼らは比喩ではなく設定のレベルで「人間」に近い存在として描かれている。彼らの人間性は比喩でもなんでもなく、実際のことであり作中におけるリアルなのだ。
それでも、彼らは煎じ詰めれば非人間だ。それは、アニメやゲームという媒体であること、つまり「絵」というデフォルメされた作り物でしかあり得ない彼らの存在感とリンクしている。
「絵」は「絵」だ。人間は「絵」として存在するわけではない。生身の役者が演じる実写作品、ノンフィクションと言い張れなくもない文章表現とはそこが違ってくる。
生身の人間ではあり得ない「絵」としての存在感。抽象性。それが非人間による人間への擬態化という設定と重なってくる。
彼らは「絵」でしかないが、「絵」として生きている。人間に近いが少し違う存在として生きている。絵でありながら、人間が人間に対して覚える親近感や憧れ、思慕を得ることを可能としている。
そもそもは漫画、アニメというメディア自体がある種のアニミズムなのだ。つまり、無機物、非人間に生命を吹き込むことを目的としている。
ストーリー漫画の父、手塚治虫は鉄腕アトムでロボットの主人公を描いた。人間によく似た非人間だ。それは煎じ詰めれば絵でしかない漫画というメディアでいかに読者の心を動かせるかという問いかけも孕んでいたはずだ。
また、アニメーションの分野では、細田守が人間のリアルな動きを模倣することで実写では生まれない感動をもたらすと指摘している。
実写ではなんということのない動作でも、それをアニメーションで再現すると感動が生まれるのだと(同時にいわゆる「不気味の谷」と呼ばれる気味の悪さにも近づくのだが)。
京都アニメーション製作の『けいおん!』はデフォルメされたキャラクターデザインに反して、楽器の演奏や日常的な仕草がリアルに再現されていることが評価された。
なんでもないリアリティに感動が生まれるのは、「絵」というアンリアルが前提になっていればこそだろう。
前置きが長くなったが、ここで小説の話をしたい。
ライトノベルはアニメ、漫画のリアリティを写生したものであると定義したのは大塚英志だ。
つまり、「絵」としての存在でしかないキャラクター、世界を写生したものということになる。
小説の強みは心理描写であると言われる。
小説における「キャラクター」、非人間はその心理描写によって生命を得る。アニメーションが動きで生命を得るように。
漫画、アニメなどの2次創作小説では、しばしば、原作キャラクターの心情が小説ならではの形できめ細かに描写される。「絵」でしかないキャラクターの「リアル」な心情が描かれる。
では、1次創作のライトノベルではどうだろう。
つまり、「絵」を経由せずして、漫画的なキャラクターを描こうとする作品だ。
はたしてどのように「絵でありながらリアル」という逆説を達成するのか。
ゲーム世界への転生などはその一つの答えで、作品舞台をいったん作中作(ゲーム)として相対化することで絵→リアルのギャップを産み出すことができる。言ってしまえば、先述した2次創作の構造に近い。
しかし、そうでない場合はどうか。
ライトノベルに求められる漫画的、アニメ的なキャッチーさとリアリティをいかに峻別し、そして止揚するか。
たとえば趣味ものはわかりやすい。
料理でもキャンプでもいいが、何らかの知識――現実に再現可能なディテールと漫画的キャラクターを組み合わせることで「絵でありながらリアル」を達成できる。これは競技もの、お仕事ものでも応用可能だ。ミステリーなどのトラブルシューティングものも同様だろう。キャラクターは破天荒でも、現実へとコミットする手段がある程度の再現性を伴ったものであればいい。心理描写と同様、何らかの専門知識の説明がしやすいのも小説の利点と言える。
そこまでコンセプチュアルでなくとも、即物的なディテールによってリアリティを演出することは可能だ。ラブコメなどでも、若者の生態や現代社会の描写でリアルを感じさせることはできる。
キャラクター描写も最初は漫画的でありながら、徐々に掘り下げることでリアリティを得ることはできる。
なんにせよ、ライトノベルはまずキャッチーであることだ。ご都合主義的と言い換えてもいい。そうしたアンリアルを前提とすることで、部分的な「リアリティ」が加点評価になる。
ざっくりした比較になるが、「実際にあり得るかもしれない」というのが文芸作品のリアリティとするなら、「実際にはあり得ないけどリアルに感じる」のがライトノベルのリアリティだろう。その摩訶不思議なリアリティはアンリアルとのギャップによってもたらされるというのが筆者の考えだ。
長くなったが、ライトノベルの真髄として、漫画的キャッチーさとリアルな感動をいかに両立するかについて考えてみた。
ここで強調しておきたいのは、やはりギャップだ。アンリアルなキャッチーさ、デフォルメがあればこその、リアルな感動。そのギャップが漫画、アニメ、そしてライトノベルの真髄なのではないかと考える。キャッチーさとリアルさ。その両極を意識し、尖らせることが魅力的な作品作りにつながるのではないだろうか。
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