第16話 ページ57 娘の出産

「雨が、降ってるわ。もう、こんな時に降ってほしくないわね……」


 私、「宮沢可鈴みやざわかりん」五十七才。独り言の様に窓の外を見ながら呟いていた。


 どうしてこんな愚痴めいた事を言ってしまうのかは理由がある。それは、娘の出産が間もなく始まろうとしているからだ。


 娘・美咲は二十二才の時に嫁に嫁いで行った。相手は、美咲の同期入社の藤岡秀一ふじおかしゅういちという。お互いに惹かれ会う物が有ったのだろうか。それとも縁が在ったのか、どちらとも無く声を掛け合う様になり、この二人は付き合うようになった。お互い両親の反対に会うことなく、トントン拍子に式は進んでいった。入社して二年後に結婚だ。

 

 やがて娘は妊娠し、出産を迎い入れる事となった。当然、生まれ育った我家で出産をする事となったのだ。やはり嫁ぎ先での出産は、やはり心細い。自分の親元ならワガママも言えるし、勝手も違う。私も出来る事ならそうしたかった。時代の流れ、いや、風習が変わったのだろうか?今の時代は生まれ育った実家での出産は当たり前の事となったようだ。当然ながら私もその案には賛成だ。私も自分自身の出産では苦い思いがあった。まぁ、その話は過去の遠い思いでなので此処では触れない事にしよう。


 生まれ育った娘はこうして我が家へと一時しのぎで帰ってきた。当時使っていた自分の部屋は二階に有るが、妊婦なので階段の上り下りは結構辛い。辛当然ながら、一階の客間・和室を娘が使う事となった。初産という事もあってか、心細いのは私にもヒシヒシと伝わってくる。そういう訳で娘の隣で布団を敷き、共に寝ることにした。


 予定日までマダ二週間も有るという深夜。隣で寝ている娘の声で不意に、目覚めた。


「お…お母さん…お母さん起きて……」

「う~ん、どうしたの?」

「お腹が、痛いの…陣痛かな? ウッ……痛いょ……」

「ちょっと待って、みーちゃん。だって予定日までまだあるはずじゃない? いや、早産かも知れないから、時間計ってみようか。横になって楽にして」

「う、うん……痛いょ、お母さん」


 眠気眼をこすりながら、娘の隣で私は時間を計り始めた。勿論個人差はあるものの、陣痛は時間が短くなってくる。初めは三十分間隔が、二十分へ。そして、十分、五分となる。五分間隔になれば病院へ目指さないと、そろそろ破水が始まってしまう。時間を計ると、五分間隔となってきた。


 そろそろ行かないと。私は娘を促し娘の着替えを手伝った。かねてから用意していた出産入院準備品の詰まったのバッグを持ち、娘と共に車に乗り込んだ。


 あっ、そうだ。お父さんに言っておかないと……。車のエンジンを回すと不意にそんな考えが頭を過ぎる。朝主人が目覚めて、二人が居ないと心配すると私は思った。再び家に戻り、二階の寝室に上がり、主人に声を掛けてみる。


「お父さん……お父さん、美咲が産気付いたんで、これから病院へ行きますからね」

「う~ん…ああ~……」


 私が話し掛けているのに、主人は一向に起きる気配がない。年をとって目覚めが悪いのは解らないでは無いが、娘の出産が迫って来ているのだ。少しぐらい心配して気を遣ってもいいと思うのだが……。全く、男って者は肝心な時に役に立たない。


 仕方なく簡単にメモを書き、一階のダイニングテーブルの上に置いて家を出た。外は小雨が降っていた。


 再び車に乗り込むと、車の時計を見た。午前三時。今は六月。初夏では有るが、深夜の雨は寒く冷たく感じてしまう。ましてや、妊婦の身体には雨を受ければ体温が下がるので危険だ。後部座席に座っている娘に毛布を掛けて車を静かに出した。


 目指すは掛かり付けの産婦人科。家から病院まで、車で約十五~二十分ぐらいで着く。


 約七~八分走っただろうか。深夜なので道はかなり空いている。湾曲している道路の向こうに、目指す産婦人科が見えて来た。目標が見えてくると、ホッとする安堵感が押し寄せてくる。


 娘に、もう少しだから頑張って!と車を運転しながら語りかける。後部座席では娘は体調不良を訴えている。出産が刻一刻とカウントダウンを始めているからだ。娘の表情が苦痛にゆがんでいる。早く、早く……早く病院へ着かなければ……。その思いだけでハンドルを握る力がグッと強くなる。


 そんな折り、深夜の交差点の信号機に運悪く引っ掛かってしまった。道行く車もまばらな深夜。別に信号を守らなくても良いわけだが、これも車を長年乗り続けた癖でつい車を停めてしまった。


 やがて信号が青になり車を出そうとした。が、車は“プスン” という変な音と共に動かなくなってしまった。スピードメーターの横には見た事の無いエラー表示が出ている。何だ? どうして動かない? キーを回しエンジンを回そうと必死になるが、当の車はウンともスンとも言わなくなってしまった。目指す病院は後もう五分ぐらいで着く距離だというのに……何度も何度もキーを回して見るがエンジンは掛からない。


 車の中から携帯電話で家の主人へ助けを求めるが、一向に電話に出てくれない。


どうしよう? よりによって、こんな時に…不安が益々募ってしまう。後部座席には出産間近を控えている大事な娘が座っているというのに……。


 不意に自分の車の後方から灯りが見える。こうなったら、後続車に助けを求めるしかない! と腹を決め小雨の降る外へ飛び出した。深夜なので後続車の数が限られているのが辛い。


「た、助けて下さい———!」


 両手を振りながら後続車に向かって見るが、車から外に出たタイミングが悪いのか無視されてしまった。しかも相手はタクシーだった。ショック……。


 もう、何でタクシー止まってくれないのよ。もう二度とあそこのタクシーは使ってやらないわ…。と思ってみるが寂しい反感だけでは何も変わらない。


 肩を落としもう一度後方を見ると、もう一台コチラへ向かって来ている。


 今度こそは……自分自身へ気合いを込め、道路の真ん中に立ち手を振った。


“キー・ギュギュー” 車は私に気付いて止まってくれた。一旦その車は止まったものの、私の側にゆっくりと近づいて来た。その車の助手席の窓がユックリと開くその瞬間、私は後悔した。


 車の窓があいた瞬間、車内の音楽が煩く耳に飛び込んでくる。かなり煩い。見るからに、車の車高も明らかに一般車と違って低い。更にマフラーの音は大きくて、煩く低い音が響いている。しまった、相手が悪いかも?


 助手席に乗っている若い男は、私を見て叫んだ。


「オバサン、危ねぇじゃねぇかよ~!何やってんだ、こんな夜中に?」


 私に叫んだ若い男は金髪の短髪だ。よく見れば口にピアスを付けている。最近の若者達の容姿は我々年配者からみれば少しおかしい。男でもピアスを開けたり、髪を赤色や金髪に染めてみたりと、違和感がある。今時の若い者達は……と不信感で彼等を見ている。


 しかしながら、背に腹は替えられない。娘の出産が迫ってきている。懇願する様に彼等に訴えた。


「た、助けて下さい……車が動かないんです」

「エンコか?ったく、しょうがねぇな~……どうする、ヒデ?」

「こんな夜中だから仕方あんめぇ? 可哀相だから、助けてやっか、シュウ?」

「ああ……」


 車の中で掛けている煩い音楽の狭間から、彼等の話し声が小さく聞こえる。


 やがて車は私の車の前に止まり、彼等は自分達の車から降りて来た。


 二人とも背が高い。方や金髪の短髪で、もう方や赤髪の長髪。今で云うロン毛。Tシャツの上から薄手の派手なジャンバーを二人ともだらしなく着込んでいる。私の車のライトに照らされた二人の表情は、お世辞にも好青年とは言い難い。二人とも眉毛が薄く、無いようにも見える。この二人、まるでヤクザか? チンピラか? と想像してしまう。少し怖い……頼んだ相手が悪かったのかも? と、またもや後悔している。


 赤髪の長髪の男が私に話し掛けてきた。


「チョッと、車の中、見て良いか?」

「ええ、どうぞ……」


 赤髪の長髪の男が、そう言うなり私の車に乗り込んだ。


「ありゃ~駄目だ。オーバーヒートだな。こりゃ、動かねぇや。多分、ラジエーター壊れているか、水が無いかだな。オバサン、車、点検してる?」


 私に車の事など分かる筈もない。分かっていれば、こんな事にはならない。


「いえ、私は車の事など、さっぱりで……」

「だろうなぁ~」

「ところで、オバサン、家は何処だ」

「は、はい…中上町です……」

「ん、逆方向じゃねぇか? まあいいか?」

「あの…娘が…いいぇ、娘の出産が近いんです。病院へ連れて行って下さい……お願いします。お願いします……」

「出産だって?」


 そい言うと、赤い長髪の男は私の車の後部座席に座っている娘を見た。娘の美咲は後部座席で唸っている。かなりしんどそうだ。‟う~ん、う~ん” と唸っている。


「おい、早くそれを言わねぇか? おい、シュウ急ぎだ。早くこの二人を病院へ連れて行くぞ」

「……おおょ……」


 二人はそう言うと、自分の車から牽引用の長いロープを取りだして各々の車へ繋ぎ始めた。


「おい、オバサン。何処の産婦人科だ?」

「は、はい。あそこに見える中央産婦人科です」

「ああ、あそこか。近くて良かった。よし解った。急ごう。おい、シュウお前がこのオバサンの車に乗って運転しろ。いいか、急ブレーキを掛けない様にするんだぞ」

「OK。任せろ!」


 そう言うと、金髪の短髪の若い男は私の車に乗り込んできた。


「オバサンは、後ろで座ってな! 娘さんの隣でもいた方がいいぜ」

「ああ、はい。お願いします……」


 やがて、前の車はユックリと動き始めた。私の車は自力では動かない。牽引ロープという細いロープに二台の車は繋がれたまま動き始めた。


「こういう運転は結構難しいんだぜ! 車同士がロープ一本で繋がれているから、結構シャクリが有るんだ。前と後ろの息が合わないと、ギッコン・バッタンみたいになってしまう。今回は、娘さんの出産だろ? 俺達が此処に居合わせて良かったな。大丈夫だ。俺達にまかせろ」

「は、はい…お願いします……」


 後部座席に座っている私に向かって独り言の様に、金の短髪男は喋っている。一方私は頷くしかなかった。ハッキリ言ってまだこの段階では彼等を未だ信じていなかった。何処かに連れて行かれて、金品を取られるかも知れない。怖い。とただ単純に、彼等の見た目だけで判断していた。


 しかしながら、確かに後ろから運転を見ていると、牽引ロープがシャクルまでもなくピーンと張ったままの状態でいる。素人目でみても、この運転は難しいのは解るが、未だ信用は出来ない……大丈夫だろうか……。


 一方、前の車もスピードを出さず30Kmのスピードで進んでいる。速度を上げず、低速のままだ。これも娘を気遣ってくれているのだろうか?


 そうこうしている間に目指す病院の前に着いた。前の車は病院の前に静かに止まる。前の車が止まると、前の車から赤い長髪の男が降りて来た。


「俺の車じゃ、ここの病院の駐車場へは入れねぇ。こんな道端へ動かねぇ車置いてたら邪魔だな? おい、シュウ降りてこの車を中へ押そう」

「ん……だな? しゃぁない……」


 やがて、二人は二台の車を繋いでいる牽引ロープを解くと、私の車を押しだした。


「ウ~ン…オイセ、ホイセ……」


 若い男二人の力は力強い。段々と私の車は病院の駐車場へ向けて動き始めた。段差の坂道。確かに彼等の車高の低い車は通れない。車高が低すぎる為故にこの段差の坂道に彼等の車が入ると、動かなくなってしまうのは私にも解る。


 後部座席に座っている私は、居ても立ってもいれれなくなり、外に出て二人を手伝う事にした。私に気付いた二人が私に声を掛けた。


「おい、オバサンはいいぜ。雨が降ってるから、大人しく車の中に座っていろよ」

「いいぇ、いいんです……」

「そうか?…もう少しだ……」

「…はい……」

【オイセ…ホイセ……】


 三人で車を病院の駐車場へ車を運ぶとようやく、私達は落ち着いた。


「おい、オバサン。ここに車を置いておけば邪魔にはならない。夜が明けたら、知り合いか誰かに頼んでこの車を看て貰った方がいいぜ。じゃあな」

「あ、有り難うございます……あの、お名前は?」

「名乗る程の事はしてねぇよ。なあ、ヒデ?」

「おおよ、シュウ。所で、娘さん・元気な子供が生まれたらいいな? オバサン、俺達の事は良いから、早く娘さんを病院中へ連れて入ったらどうだ?」

「は、はい…有り難うございます」

「じゃあな……」


 私は去りゆく二人に向かって、最敬礼の様なお辞儀をしていた。見た目だけで判断してはいけない。見た目は悪くても、見ず知らずの私達にしてくれたこの行為は、胸が熱くなるのを覚えた。なんと好青年な人達だろう。私は自分の誤った考えに打ちのめされ、心苦しくなり自らを恥じた。見た目の判断に打ちのめされた事とそのギャップの差に感動した私は、知らない内に涙を流していた。


 有り難うございます…本当に、有り難うございます……。


 只、感謝の念で心は溢れていた。


 やがて彼等二人の乗った車は、マフラーから出る爆音と共に、薄暗い夜明け前の街に消えて行った。


 私は彼等の車が見えなくなると、病院内に駆け込んだ。看護婦と共に陣痛で苦しんでいる娘を抱き起こし、病院の中へ入って行った。病室へ着くとすぐに娘の出産が始まった。分娩台のベッドに横たわるとすぐに破水が始まり出産となった。ギリギリセーフだった。 ああ、助かった——。


 娘が分娩台に横たわってから、二時間が流れた。後に分娩室から力強い産声が聞こえた。初産にしては安産だったのは、この病院へ遅れる事無く運び込まれた事が、娘に精神的安定を与えたのかも知れない。元気な女の子が我が家の新しい家族となった。


 娘は覚えているのだろうか? 陣痛の苦しみの中で、私の車の後部座席に座っていたから、虚ろな意識の中だったので覚えていないかも知れない。


 でもいい。私はシッカリ覚えているから。娘が産後落ち着いたら、話してあげる事にしよう……。


 雨の日に白馬に乗った王子様・いやステキな、見た目イカツイ・好青年達の事を……。


 そんな思いのまま生まれたばかりの孫を、娘が抱いたままの姿勢で私は横から覗き込んで見た。女の子だ。両手、両足の指もちゃんと有る。無事に生まれて良かった。


「可愛い……お婆ちゃんですよ。初めまして……」


 不意にそんな言葉が口から出て来るのは、やはり自分の肉親、いや血を分けた孫だからかも知れない。初孫だし、未だ先程の青年達の感動が未だ心に残っていたから、自分が素直になれるのだろう……。


 不意に娘が私に言った。


「ねえ、お母さん。この子の名前、何か良いの付けて?」

「えっ? 私が付けていいの?」

「うん……」

「ミーちゃん、さっきの車の事覚えてる?」

「何となくだけど、お母さんの車が動かなくなった……ってのは、何となく覚えているかな? だけど、お腹痛くて、薄ぼんやりしか覚えていないや……」

「そう。後で、お話ししてあげる。結構いい話なのよ」

「そう、大変だったんだ……」

「うん、うん、お母さん感激しちゃった……じゃあ、ミーちゃんの出産に雨のステキな思い出が出来たから……【美雨みう】ってのはどう? 美は、ミーちゃんの美咲から一字取ったのと美しい雨の思い出の後に生まれた女の子だから、美雨。って、どうかな?」

「美雨か? 藤岡美雨ふじおかみう…いいじゃない……お母さん、私気に入っちゃった……良い名前だわ。お母さん、有り難う。ふふふ、こんにちは美雨ちゃん。私がアナタのお母さんよ。初めまして、これからよろしくね?」

「オギャー…オギャー……」


 娘の問い掛けに答えるかの様に、孫の美雨は力強く泣いた。


「ふふふ、元気な子に育ってね?」

「そうね?」


 私は自分の小指を孫の美雨に握らせながら、そう呟いた。


 分娩室の窓から見える外は、いつの間にか雨が止んでいた。晴れ晴れとして、初夏の爽やかさと感じさせてくれているのは気のせいだろうか。


 やがて孫の美雨は育児室へ。娘の美咲は後産の措置の為、私は分娩室から出た。

主人の昌人に孫が生まれた電話をしなければいけない。それと、私の動かない車の事も合わせて忘れないようにしなければ……。


 病院内では携帯電話は厳禁だ。私は携帯電話を握りしめて、病院の外へ向かって歩き始めて行った。

 

 病院の外は一足早い夏空が両手一杯に広がっていて、これから来る幸せの予感を感じさせてくれた。







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