夢 解れる

 初めて彼女を見た時のこと。なんて弱い子供なんだと呆然としたことを昨日のことのように思い出す。

 その夢の中で、彼女はわんわんと盛大に泣いていて、聞けば幼稚園で先生に怒られたのだという。

「なんだ、そんなこと……」と吐き捨てると、「だってぇ~」と更に泣く。

 彼女が話す涙の理由、そのすべてが本当に些細なことだった。「そんなこともあるさ」と受け流せばいいと思えることでも、彼女はそのひとつひとつに傷つき、涙を流していた。

 初めはなんとなく呼ばれたような気がして、目を凝らした先に彼女を見つけた。慟哭どうこくに近い、あまりの泣き様に、一体彼女の身に何があったのだろうと胸を痛めたのは最初だけ。

 聞けば聞くほど、そんなに泣くほどのことなのだろうかと首をひねりたくなるようなことばかり。

「そんな小さな事ばかり気にしてたら、身が持たないぞ」

 さとしてはみるが、それでも彼女は泣き続けた。

 俺は、なんて弱いんだろうと驚いた。

 こんなに繊細で弱い心では、この先もつらいことばかりだろうと思った。

 今夜だけは楽に眠らせてあげようと、自然と思えた。

「大丈夫だ」

 彼女の小さな、泣きすぎてかされたように熱を持つ頭にそっと手を置く。

 呪文のように繰り返す。

「君は大丈夫だ。もう泣くな」


 それからなんとなく、毎晩のように彼女の夢に顔を出した。

 自分が何者であるかわからないまま彷徨さまよい続けていた俺に、彼女が特段なにかを与えてくれる存在とも思えなかった。

 ただ何となく、そのあまりの悲痛な様子が気になって仕方がなかった。

 そう思える自分の変化が、不思議で仕方がなかった。

 大丈夫と唱えてやると、彼女は安心したように泣き止み、きつく抱きしめていた苦しい悩みだけを手放した。

 一度は泣き止む彼女だが、翌日にはまた悩みを拾ってきては泣いているのだ。

 時は流れて彼女は成長したが、相変わらず毎晩のように泣いていた。

「よくもまあ、毎日毎日悩みの種を拾ってくるもんだ」

「だって……わたしだって誰かの特別になりたいよ~」

 好意を寄せていた人に彼女がいることが判明し、今夜はそのことで泣いていた。

「君は特別さ」

 なぐさめようなどと考えて発した言葉ではなかった。

 それを聞いて、涙に濡れた目を丸くして彼女が聞き返す。

「ほんとう?」

「……君は、誰よりも弱い。繊細過ぎる。このままじゃ、他人のまばたきにすら傷つくんじゃないかと心配だよ」

 無意識に飛び出た「心配」という単語に、自分自身が驚いていた。誤魔化す様に、顔をそむけた。

 その頬を両手で挟み、彼女は俺の目をのぞき込んで、言った。

「だったらずっと、そばにいて」

 ずっと一人だった。

 一人で無明の闇を彷徨さまよい続けていた。自分が何者かも思い出せずに。

 そんな無限なる闇の中で、彼女の中に救いを見た気がした。



 わたしは泣きじゃくっていた。幼い日、あなたに初めて会った時のように。

「ずっとずっと、あなたはわたしを助けてくれた。なのになぜ忘れてしまってたんだろう……」

「すべて夢だからさ。この夢の中に、要らないものだけを手放していくのさ」

 震える手であなたの手を取る。

 懐かしい、あたたかくて優しい手だった。

「恋人ができてからの君は、いい意味でありきたりな悩みを持つようになった。強くなったんだなぁって思ったよ」

 今までの彼女は、繊細が故の、普通では考えられないような些細ささいなことに傷ついては苦しんでいた。

 恋人ができてから、彼女の悩みは一般的な女性が一度は抱えるような悩みへと変わっていった。それを一晩のうちに忘れさせるのは簡単だが、それでは彼女の大切なものを奪うことになるのではないかと愕然とした。

 悩み、苦しんだ先に彼女が得るもの。それは彼女自身の財産となり得るものだ。

 それは何物にもがたく、人から譲ってもらうこともできない、彼女の人生を輝かせるかてとなり得るもの。

「君は大丈夫だ」

「ダメ! ……全然だめなの、わたし……」

 仕事のミスのこと。自分自身が許せない。

 悪いのに、彼に苛立いらだってしまう自分。そんな自分が許せない。

 泣いて泣いて、こんな汚い自分なんか洗い流して跡形もなくなってしまえばいいのに。

 悔しくて情けなくて握りしめていた手を、あなたがそっと包んでくれる。

 わたしは思わず顔を上げる。

 あなたはわたしの目をまっすぐに見つめて言った。

「君の夢をのぞかなくなって、ちょうど一年になるね。……こうして会うのは、これが最後かもしれない」

 わたしは夢中で首を振った。

「いや、いや! 毎日つらいの。眠れなくて、頭痛がして、自分が悪いのに周りの人にイガイガして……そんな自分が嫌なの……」

 また泣き出すわたしの頭に優しく触れて、あなたが言う。

「君は大丈夫。君には彼がいるじゃないか。彼ってば、昨日は誕生日にサプライズの予感がして仕事を大慌てで終わらせてたよ。慌てすぎて、使ったカップも洗わずに帰ったようだし」

 あなたが笑いを噛み殺しながら告げる衝撃の事実に、わたしは息をするのも忘れた。

「……うそ……」

「そうそう。君が訂正し損ねたページ、訂正票を差し込むことで返って目立つし、しかも『message』のスペル間違えてて『マッサージ フォー ユー』なんて逆にいいってさ。君が帰ってから部長さん笑ってたよ」

 わたしは声も出せなくなっていた。

「確かにミスは怖い。でもそれに怯えず、ミスをしてしまったら全力で挽回ばんかいする。君の姿勢はきちんと周りに伝わっているよ」

 なんてやさしい言葉だろう。

 わたしの心がまとっていたよろいのようなとげたちを溶かしてくれる、あなたの言葉は魔法だ。

「君は大丈夫。俺がいなくなっても今までみたいに君が困らないように、当たり前だけど大切なことを教えてあげよう」

 やさしいあなたの声に、次第に意識が保てなくなってくる。

「俺からの贈り物だから、これだけは忘れてはいけないよ」

 あらがいたいのに、まどろみの渦に飲み込まれていく。

「朝、『おはよう。』と言うこと。そうすれば必ずうまくいく。どんなに絡まったように見えている糸も、ほぐれていくよ」

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