現 空回り

 朝目覚めると、呼吸より先に頭痛を自覚する。体が強張り、首が痛い。体からきしむような音を聞きながら、体を起こす。

 寝つきが悪いため、眠りについたのは朝方のような気がする。体が休まった感覚は一切ない。呼吸すら億劫おっくうに感じる。

 のそのそと起き出し、漢方を飲むため白湯さゆを用意する。慢性的な頭痛に悩まされ、漢方を処方されて二か月になるが、いまだ改善の兆しはない。

 一息で飲み干し、漢方の余韻に顔をしかめた。

 最近、何もかもうまくいかないと感じる。

 新社会人として入社した会社では仕事にも慣れ始めていた。わたしの配属先の人たちは「少数精鋭のチームだ!」と団結していて、家族のように仲が良かった。右も左もわからないわたしを温かく迎えてくれた。後輩もでき、やる気に満ち溢れていた。

 けれど、最近は何かがちぐはぐで、空回りしてしまう。抜け落ちてしまう。

 仕事が楽しくなくなり、やる気がないわけではないのに、集中できなくなり、小さなミスが増えていった。新しいことに手を伸ばすたびにミスをしてしまうようで、挑戦することが怖くなった。

 仕事に前向きでないと伝わってしまったのか、アットホームだったチームとも距離を感じるようになった。みんなが後輩ばかり、かわいがっているようにすら感じるようになっていた。

「なにもできないくせに……」

 後輩に向けて呟いたはずなのに、実際はわたしも同じだとうなだれる。

 なにもできないのに、認められたい。

 馬鹿じゃないの? と自嘲するが、認められたいのだ。がんばっているのだと。

 認められたいのに、実力が伴わない。

 頑張っているのに成果が出なくて、認めてもらえない。

 もがけどもがけども、一度溺れてしまったからにはなかなか抜け出せない。

 苦しい。苦しい、苦しい。

 わたしは浅い呼吸を繰り返していることに気づき、深呼吸を意識する。

 玄関で音がした。

 廊下からのぞき込むと、彼が出勤するところだった。

「あ、今日早いんだね」

 わたしが声をかけると、彼は「うん」とうなづいて、

「いってきます」と言ってからドアを開けた。

 わたしは慌てて問いかける。

「待って! 今日は早く帰れるんだよね?」

 彼はぴたりと止まってから、肩越しに振り返ってわたしの顔をじっと見た。

「……漢方飲んだ?」

「あ、におう?」

 わたしはとっさに口元を覆った。漢方は味もにおいも身悶えするほどに強烈だ。

 彼はわたしの顔をじっと見つめたまま、

「うん、早く帰る。いってきます」

 と言って出ていった。

「いってらっしゃい……」

 わたしはその背に声をかけ、ゆっくりと閉まるドアをしばらく見つめていた。

 彼は言葉がすごく少なくて、ときどき変な間がある。付き合う前も付き合ってしばらく経ってからも彼の反応がわからな過ぎて、わたしの中で考察こうさつの時間を設けたほどだった。

 彼とは高校の時から付き合っていて、社会人になるタイミングで同棲を始めた。出勤時間などの生活のすれ違いは多少あるけれど、付き合いが長いのでうまくやっていけると思っていた。実際うまくいっていたのだ。

 でも、ある時から小さなズレを感じるようになった。

 それは仕事がうまくいかなくなった時期とも合致していた。その違和感は少しずつ蓄積し、いまではどうしようもなく息苦しいものになっていた。

「だったらそれって、絶対わたしのせいじゃん……」

 結局この結論に至り、そのたびに盛大な溜息を吐くのだ。



 頭痛はいつものことながら治まることはなかったが、会社には通常通りに出社できた。

 この部署内の繁忙期が過ぎ、今はやっと一息つける時期だ。

 休憩には少し早いが、わたしはお茶を配る。

「部長、お茶どうぞ」

「どうもありがとう。早退するの、今日だよね?」

「はい。三時に上がらせていただきます」

 今日は彼の誕生日なので、ケーキを作ることにした。ごちそうと言えるかは自信がないが、ちょっとしたサプライズのつもりだった。

 最近の自分はイライラしたり気分が落ち込んだりと余裕がない自覚があった。なんとなく彼とぎくしゃくしてしまっている原因は自分にあると反省し、まずは初心に返ろうと思ったのだ。

 もうスポンジは用意してあるので、三時に上がれば十分間に合う。

 部長と軽いやり取りをして、自分の席に戻ろうとしたときに電話が鳴った。

「わたし出ますね」

 その時、ちらりと壁にかかった時計を見た。三時まであと5分ほどだった。

「お電話ありがとうございます。株式会社メロディの……」

「俺じゃ! 部長さん出せぃ」

 名乗るわたしの声は、特徴のある乱暴な口調にさえぎられた。

「は、はい。少々お待ちください」

「はよせいよ!」

 わたしは急いで部長に電話を伝える。

「すごい剣幕で……」

「はい、お電話変わりました」

 聞こえてくるのは部長の「えぇ」とか「はい」とかの相槌ばかり。

 電話の相手は、我が社にとって商品の仕入れ先でもありながらお客様でもあるという会社の専務で、普段からひどく怖い存在だった。この人と対等にやりあえるのは、社内でもこの温和そうな部長だけだった。

 しばらくすると、「確認します。こちらから掛け直しますので」と言って部長が電話を切った。

「どうかしましたか?」

 わたしは堪らず、部長の元に駆け寄った。

「この前の掲載商品、最後の校正で俺が訂正指示したんだけど、覚えてる?」

「はい。わたしがコピー機の前で受け取りましたよね? 覚えてます」

 わたしは最終校正の訂正箇所のコピーを取っていた時にそれを部長から手渡されたことを覚えていた。

「その指示が反映されてなかったらしい。すぐに確認して。それ、確かに送ったんだよね?」

「はい、コピーを取った後に他の指示と一緒に送りました」

 記憶を辿りながら言いつつ、わたしは嫌な予感がしてコピー機に駆け寄る。まさか、とコピー機を確認するが、取り忘れてはいなかった。

 わたしがほっとしたとき、部長の押し殺したような低い声がした。

「……これ、コピー機の裏に挟まってたけど……」

 部長が見つけたそれは、本来印刷会社に送られてなければならない校正の指示書だった。


 その後。

 青ざめて必死で謝るわたしをじっと見てから、部長は「うん」と短くうなづき、電話を数件掛けた。

 わたしは自分の席に戻り、部長の電話が終わるのを待つ間、震える手を握り締めていた。受話器を置いた部長の元へ駆け寄る。

「部長、本当にすみません。わたし……」

「とりあえず、訂正票を該当ページに差し込む形で対応するから。訂正票作ってくれる? できたら俺に見せて。それができたら初版枚数分の発注して」

「……はい!」

 わたしは自分が情けなくて消えてしまいたかったが、この騒動の決着までは責任を持とうと泣くのは我慢した。

 我慢した涙の分だけ胸が苦しくて、息を吸い込んでも酸欠になりそうでむせた。すると余計に涙がこらえきれなくなり、わたしは唇を噛みしめる。

 泣くな。

 わたしにはまだ泣く資格がない。

 わたしにはもう時計を見る余裕はなかった。


 訂正票を作成し、部長に確認してもらったあと、印刷会社に必要枚数の発注をした。

 すでに販売店から発注のかかっている分の訂正票は、印刷会社の方で差し込みしてくれることになった。

「ふぅ。何とかなりそうだね。あ、早退するんだったよね? もう大丈夫だから、帰っていいよ。お疲れ様」

 部長がそう言うのを聞いて、ようやくわたしは時計を見ることができた。時計の針は就業時間まであと僅かな時間を差していた。

「でも……」

「印刷会社に任せたんだし、あとはすることないよ? 俺ももう少ししたら帰るから、お疲れ様」

 わたしは言いよどむが、部長にさっさと背を向けられてしまい、それ以上何も言えなくなってしまった。

「お先に……失礼します!」

 わたしは泣きたくなるのを堪え、深く深く頭を下げた。


 着替えもそこそこに、逃げ込むようにエレベーターに飛び乗る。

 思い出したように息を吐くと、大粒の涙がこぼれてしまった。慌てて袖で顔を隠し、誤魔化す様にスマホの画面に目を走らせた。

 彼からメッセージが届いていた。

『仕事が早く片付きそうだから、終わったら連絡して。迎えに行くよ』

 それを読んだわたしは無性に腹が立った。

 エレベーターから降りて、返信をすることなく歩き出す。次第に駆けるような勢いで前に進んだ。

 腹の奥から熱い何かが沸々と湧き上がるのを感じた。

「人の気持ちも知らないで!」とわめき散らしたい衝動を、駆け出すことで何とか堪えていた。

 嗚咽おえつしながら、頭の片隅ではわかっていた。

 誰を恨むでもない。

 すべて自分のせいだ。

 悪いのは自分なのだ。

 わかっている。わかっているから、それがとても苦しいのだ。


 部屋の電気もつけず、わたしはベッドに突っ伏していた。

 冷蔵庫には張り切って買い込んだ食材がいっぱいだし、キッチンの片隅には昨晩焼いておいたスポンジが出番を待っていた。

「帰ってたんだ。……玄関の鍵、あいてたよ。どうしたの? 具合悪い?」

 そっと顔をのぞかせた彼は、きっと心配そうな目をしているだろう。

 わたしは顔を向けることもできずに答える。

「うん。……疲れてるの、もう寝る」

 彼はしばらく黙っていたが、「わかった。何か必要なことがあれば声かけて」と言って、布団の上から肩の辺りをそっと撫でてくれた。

 彼のやさしさが、自分の不甲斐なさが、ただただ苦しかった。

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