ここから始まる日々

七瀬 橙

 物心ついた時から、朝になれば大抵のことは忘れることができた。

 それはわたしの一種の特技と言えるだろう。

 眠る前にどんなに悩み苦しみ、後悔の念にさいなまれていたとしても、朝目覚めれば不思議とそれは過去のこととして冷静に振り返ることができるようになっていた。

 一番古い記憶は、幼稚園の時のものだ。ひな祭り用の制作をしているとき、わたしの作ったお雛様の顔がなくなっていることに気づいた。隣の子の手元を見れば、見覚えのある顔があったので、それを返してもらおうとした。するとその子は、自分のだと言い張る。

「このしわみたいになってるの、わたしが作ったお顔だもん」

「ちがうよ、それはわたしが作ったんだよ」

 その子が主張する通り、確かにその顔には紙が寄ってできた小さな皴があった。わたしが作ったときにそこに皴が寄ったのを覚えていた。

 そんな押し問答のやり取りを聞きつけて、先生が近づいてきた。

「先生、わたしのお雛様の顔を取ろうとするの」

 主張するその子に、わたしが反論するより先に、先生が言った。

「人のものを取ってはいけません。あなたのはこれでしょう?」

 そう言って差し出されたのは、不格好でいびつで、見覚えのない代物だった。

 話を聞いてもらえなかったこと、正しいことを言っているのに信じてもらえなかったことが悔しい。そして、大好きだった先生が初めて見せた冷たい視線が、何よりも悲しかった。

 うつむいてじっとそれを見つめていると、それが本当に他人のものだったのか、自分の手で作ったものと取り違えていたのはわたしの方だったのか、だんだんと自信がなくなっていった。

 自分でもよくわからない。麻痺するように感覚がおぼろげになる。引き結んでいた口元が弛緩しかんする。

「わたしが間違えました。ごめんなさい」

 わたしが自分の非を認めて謝ると、先生はにっこりと笑顔になった。

 私の大好きな、優しくてかわいい先生に戻ってくれた。

 先生に手渡された紙のそれは、糊でじっとりと重く冷えていて、わたしの心も冷やされていくのを感じたが、無理矢理に笑った。

 無条件にわたしの意見を尊重してもらえると信じていたのに、それを裏切られたような悲しみも、意見を飲み込んで受け入れて、謝罪までして見せたびるような笑顔の自分に感じた汚らわしさも、一晩眠れば忘れることができた。


 でも、最近それがうまくいかない。


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