笑顔

茹りあがるような夏の日。蝉がたえなまなく鳴きわめき、太陽が意地悪く照り付ける。俺はその中を、のろのろと歩いていた。

夏休みなのにもかかわらず英語の補修に呼びつけられ、あまりに効きの悪いエアコンしかない教室で、二、三時間も閉じ込められていたのだ。制服はびしょびしょ、体の中の中から加熱されている気分だ。

「ゆ、う、まぁ!」

突然、後ろから名前を呼ばれた。振り返る間のなく、俺の首に腕が巻き付いた。肩にずっしりと重さがかかる。

「おい琉香お前…ただでさえ暑いのに飛びついて来ないでくれよ」

「えへへ、いいじゃぁん、別に。逆にもっと暑くしてあげよか?」

「やめてくれ」

無防備な、しかし実に朗らかな笑顔で、幼馴染の俺に向かって笑いかけてくる琉香。それを邪険に扱いながらも俺は、自分の根性のなさに内心ほとほと呆れていた。

…まさか、初恋をここまで引きずるとはな。

「勇真、どしたの? ため息なんかついて」

「あ、いや、何でもない」

「ふぅん、悩みがあるならなんでも私に言いなよ!」

自信ありげに胸を叩く、他でもないそのお前で悩んでんだよ。なんてことは口が裂けても言えるものじゃない。

暑さをものともせず、琉香は口笛を吹きながら俺の前をずんずん進む。ついていくので精一杯の俺は、せめて置いて行かれないようにと歩みを進めた。


俺の家と琉香の家に帰るためには一度、長い道路を横切らないといけない。幸い、今日は車通りがさして多くなかった。

「勇真、今ならよゆーで渡れるよ。ほら!」

念のために左右を確認している俺を引っ張るように勢いよく走り出した琉香は、道路の真ん中に立って俺を呼んだ。

ため息とともに、彼女について行こうとした俺は次の瞬間、恐怖で凍り付いた。

迫るトラック。それに気づいていない琉香。

考えるより先に、足が動いた。すべてがスローモーションで動く中、俺は強く、琉香を突き飛ばした。

ブレーキ音、衝撃。そして俺の体は軽く宙を舞い、地面に叩きつけられた。バキッと言う鈍い音。猛烈な痛みが俺を襲う。しかしそれも和らぎ、やがて体が冷えていく。

視界が霞み、ぼやける。その中に、琉香が現れた。俺に向かって何かを言っている。が、体の感覚が薄れ、五感が遠ざかっていく俺には何もわからない。

眠い。瞼が重い。目が霞み、何も見えなくなっていく。

…最期まで、想いを伝えられないなんて、俺はマジでヘタレだな。

じゃあな、琉香…。


規則正しく刻まれる電子音、白い空間、口元の異物感、薬の匂い。

…ここは、どこだ? なんで僕は、ここにいるんだ?

「ユウマ、ユウマ! 起きたのね! よかった、よかった…!」

「奥さん、落ち着いてください!」

誰かを呼ぶ女性の声と、それを制する男性の声。

…ここは、病院か。誰かの家族が目覚めたのだろうか、よかったな…。

「カリノユウマさん、大丈夫ですか?」

突然、眼鏡をかけ白衣を着た男性が僕を覗き込んだ。

…カリノ、ユウマ?

ぱさぱさに乾いた口で、僕は彼に聞いた。

「それ、は、誰、ですか…?」

次の瞬間、場の空気が凍り付いた。その男性は、しばらく僕を眺めた後、手元の紙に何かを書き付けた。

「嘘でしょ、ユウマ? 私のことわかるでしょ、ね? お母さんよ、でしょ?」

半狂乱の女性の声が、僕のすぐ横で聞こえた。ゆっくりと首を回し、彼女の顔を見る。しかし、どう頑張っても記憶の中から彼女の顔を探し出すことはできなかった。

「ね、わかるでしょ? わかるでしょう?」

「やめな。もうわかっただろう?」

「でも、でも!」

落ち着いた男性の声と、半狂乱のまま返す女性。

…彼らは、いや、そもそも、僕は、誰だ?


診断の結果、僕は記憶喪失とされた。常識や学校で習った知識はあるのだが、今まで僕に起こった出来事と人名については、すっぱり抜け落ちているらしい。まぁ、言われても実感はわかない。

「狩野さん、退院おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます」

そんなこんなで怪我も治り、めでたく僕は退院して、学校に戻ることになった。不安は尽きない。が、退院できるのは嬉しかった。何しろ、あの病院のご飯のレパートリーが少ないのだ。味も薄かったし。


「おい狩野、今日俺んち来ねえか? ゲームやろうぜ!」

「え、行きたい! じゃあ、お菓子持ってくね」

「よっしゃぁ、ありがとうな! じゃああと、玲央誘っとくわ」

「よろしくね、隼!」

学校に戻った僕は、何気なく日常を過ごせていた。

最初の方こそ敬遠されていたみたいだけど、今では仲のいい友達もできて、クラスにも馴染めた。前の僕とも仲が良かったらしい隼は、よくその話をしてくれる。

なのだが、一つだけおかしな点があった。僕の隣、常に空席のその席に座っていた、『陽向琉香』さんについてだ。誰も教えてくれないし、触れようともしない。


「あーあ、また負けちゃった」

「やっぱ玲央強ぇな…。悪ぃ、ちょっとトイレ行ってくるわ」

「はーい」

「ん」

放課後。僕は今、隼の家にいた。ゲームもひと段落ついた。

今部屋にいるのは、玲央と僕だけだ。

「行っちゃったね、隼。何してる?」

「…」

極度の無口である玲央は、返事もろくにしてくれない。つまり、二人きりだとすごく気まずいのだ。うぅ、どうしよう…。僕は必死で話題を探した。その時。

「…陽向さんに、会わなくていいのか?」

「え?」

今、玲央は確かに、『陽向さん』といった。今まで誰も触れてこなかった、彼女に。

「何で?」

「何でも何もないさ。お前、ずっと陽向さんの席を見てるじゃねえか。気になるんだろ? それにお前ら、仲良かったろ」

知らない、覚えてない。そのはずなのになぜか、僕の心臓は早鐘を打っている。

「そうなの?」

「傍から見てて恥ずかしくなるレベルだよ。で、お前。その分だとなんで陽向さんが来てねえのか知らねえだろ。それはな、お前が死にかけたからだ。お前は、陽向さんを守ってそうなってんだよ」

「…知らなかった。でも、なんでそれで…」

「ちょっと考えてみろ、目の前で幼馴染が、自分を守って死にかけてる様を。責任を感じずにいられるか?」

いられない、いられるわけがない。

「ってわけだよ。お前、今週中に陽向さんに会いに行ってこい。陽向さんをまた学校に来させられるのはお前だけだ」

いつになく真剣な顔で、玲央は話す。しかし、僕はどうしても、踏み切り切れなかった。

「でも、記憶がない僕が行っても…」

スパァンッ!

鋭い音が響き、僕の右の頬が痛くなった。

驚いて玲央を見ると、彼は僕を睨みつけていた。

「皆までいわなきゃわかんねえかこの鈍感が! いいか、お前はなぁ、陽向に惚れてたんだよ、ずっとな! 何年も何年も何年も何年も初恋引きずってずっと、それでもお前は告白できなかった。自分はヘタレだって落ち込んでたんだ。記憶を失ってなおそれを引きずる気かてめぇは! 昔のお前と変わったことなんざ知ってるわそれでも! 自分の気持ちには自分で整理着けてこい!」

鼓膜が震えるような大声で、彼は僕を怒鳴りつけた。

次の瞬間、俺の脳内に、俺が轢かれたその瞬間がフラッシュバックした。迫るトラック、彼女の笑顔、あの恐怖。

そうだ、そうだよ。俺はこのまま、引くわけにはいかないじゃないか!

「ありがとう、玲央。わかった、行ってくる」

「おう。行ってこい」

にっと笑って、彼はひらひらと手を振った。


「おい玲央。これでよかったのか?」

勇真が出て行ったその部屋。夕方の外をぼんやりと眺めている玲央に、隼は声をかけた。背中を向けたまま、玲央は何も言わない。

「お前、陽向さんのこと、好きだったろ?」

「…だからこそ、だろ。俺はもう振られたんだ。ならせめて、彼女の好きな人との思い出くらい、幸せな分で上書きしておくべきじゃねえか」

『ごめんね。私、勇真が好きなんだ』

いつかの陽向のセリフが、脳内でリピートされる。そのまま黙りこくった玲央の隣に、隼は何も言わずに座った。

橙色だった空は、紫色のベールを纏い始めていた。


どんどん暗くなる空の下、俺はただひたすらに走った。

琉香のもとへ、彼女に思いを伝えるために。

空が紫色で覆われた頃、俺は琉香の家の前に辿り着いた。『陽向』という表札。その隣にあるインターホンを、押した。ピンポーンという間の抜けた音。ややあって、沈んだトーンの声が流れてきた。幾度となく俺の名を呼んだ声。懐かしく、愛しいその声は。

「何で、勇真…」

「琉香、お前に会いに来たんだよ」

マイクの向こう側は、無音。ダメかな…。そう思った。その時。

ガチャリ、という控えめな音と共に、琉香が顔を出した。

「ずっとそこにいるわけにもいかないでしょ…。入りなよ」

弱々しい声。常に浮かべていた笑顔は、どこにも、面影すら、ない。

「うん、お邪魔します」


「それで、会いに来たって? 誰に頼まれたの、先生?」

クッションに顔をうずめ、くぐもった声で琉香が言う。

「違う、違うよ。俺は自分の意志で来たんだ」

「嘘だ。だって勇真、記憶ないでしょ。私のせいで、なくなっちゃったんでしょ」

「まだ全部戻ったわけじゃない。でも、琉香」

「琉香なんて呼ばないでよ! 呼んで良いのは、前の勇真だけなの!」

突然、ヒステリックに琉香が叫ぶ。その瞬間、もう一つの記憶がフラッシュバックした。


『なぁ陽向』

『えー、陽向って呼ぶのやめてよ。前まで琉香ちゃんだったじゃん』

『ちゃんづけできるような歳かよお前…』

『じゃ、呼び捨て。私のこと琉香って呼ぶのは勇真だけ。はい、決定!』

『勝手に決めるなよ』

そうだ、そんな会話もした。あの時は、『俺だけ』っていう特別感で舞い上がったんだっけ。その後、琉香はいろいろな男子と仲良くした。でも、彼女のことを名前では呼ばせなかったし、名前では呼ばなかった。そうだ、思い出した。

ジグソーパズルが徐々に組みあがるように、欠けていた記憶が断片的に現れる。

その記憶に必ずあるのは、琉香の笑顔だ。輝くような、明るい。

…取り戻す。絶対に。


「全部戻ったわけじゃない。でも今、いくつもいくつも出てきた。記憶は徐々に戻ってるんだよ。それに、俺の記憶が消えたのは、断じてお前のせいなんかじゃない。誰のせいでもない。強いて言うなら、俺自身が悪いんだ」

「…」

「俺は、お前を守りたかった。だから飛び出した。お前が道路に立ってたのだって、俺を連れていくためだろ? お前を危険にさらした元凶は、俺。そして、そこからお前を庇って勝手にけがをしたのも、俺。全部俺の自業自得なんだよ」

「…でも、私を見捨てればよかったじゃん。『危ない』っていうだけでも良かったじゃん。なんで? なんでわざわざ助けたの? こんな私を助ける道理なんて」

「お前が好きだからだよ」

返事はない。でも、俺はさらに言い募った。

「思い出すのだって全部、お前のことなんだ。俺には、お前が死ぬのなんて耐えられなかった。お前は、俺に対していつもいつも笑ってくれてたよな。対してとりえもない俺に。俺はそれがうれしかったんだ。それだけで、俺はお前を好きになったんだ。でも、それでも、俺にとってお前は、すごく大切なんだよ。だから頼む、自分を卑下しないでくれ」

返事はない。

「…一人で勝手にしゃべってごめんな。じゃあ」

俺は立ち上がり、部屋を出ようとした。しかしその足は、途中でぴたりと止まった。

琉香が急に笑い出したのだ。

「えっ、ちょっと、琉香?」

「ヒーッ! いやごめん、いやでも大真面目な顔でさッ、無理無理アハハハ! えっ勇真、自分で相当すごいこと言ってるってわかってる? いやわかってないわけないよね? ヒャーッ!」

笑いながら、苦しそうにバタバタ床を転げまわり、バシバシ床を叩く琉香。数秒遅れて、俺の顔がゆであがった。

「えっひどいなお前、俺大真面目に言ったんだぜ? あーもう帰る! 空気ぶち壊しにしやがったどこぞのだれかなんて置いて帰るよじゃあな!」

負けじと大声で叫び、俺はドアを勢いよく開け、出ていこうとした。が、細い腕が首に絡みつき、俺を妨害した。

「…笑ったりしてごめんね、私もだよ」

消え入りそうな声が僅かに耳に届く。その意味を理解したときには、俺は部屋から閉め出されていた。

「…は?」

先ほどの腕の感触は、はっきりと首に残っている。もちろん、言葉だって。

「…嘘だろ」

俺の体が奥までゆだりあがり、俺は思わずその場に座り込んだ。


笑顔は戻った。でも、俺のヘタレは相当治りそうにはない。

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短編集 すいな @karena15

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