極上のスパイス

内山 すみれ

極上のスパイス

 人生には『スパイス』が必要だ。誰かが言っていたこの言葉は、あながち間違いではないと思う。平々凡々な私の人生に彩りを与えてくれるものが欲しくなってしまうのは仕方のないことではないだろうか。

 遠くからでも聞こえてくる黄色い声。私は反射的に物陰に隠れて様子を伺う。大勢の女子生徒に囲まれているのは、皆の王子様だ。ああ、今日も素敵。私は感嘆の息を漏らす。サラサラの茶色みがかかった黒髪に、猫のような丸い瞳、陶器のような肌。極めつけに、眩しいほどの笑顔。見ているだけで幸せな気持ちになってしまう。


「おはよう、凛子ちゃん」

「あ、お、おはよう、ございます!」


 皆の王子様こと諏訪部 優くんは誰にでも分け隔てなく優しい。……そう、この私にさえ優しいのだ。透き通るような綺麗な声に思わずどもりながら挨拶してしまった私に笑みを浮かべて自分の席へと座る諏訪部くん。彼こそが私の『スパイス』だった。彼の斜め後ろの席で彼を見つめる。彼の周りはキラキラと輝いていて、とても綺麗だ。見ていてうっとりとしてしまう。神様を信じたことはなかったけれど、この時ばかりは彼と同じクラスにしてくれた運命の女神様に感謝している。

 授業のことなど放り投げて諏訪部くんを見つめていると、一日はすぐに終わりを告げる。部活へと向かう彼の背中を惜しみながらもそっと見送る。私が向かうのは図書室。そこで勉強をしたり本を読んで過ごす。橙色の空に藍色が混じる頃、決まって綺麗なフルートの音色が聴こえてくる。美しい音色を奏でるのは、諏訪部くんだ。部活の様子も拝みたいところだけれど、楽器を扱うのは苦手だからせめて彼の奏でる音をここで楽しむのだ。

 日がすっかり暮れて、彼の奏でる音が止む。今日も一日彼を堪能して、私は図書室を出る。もうすっかり見慣れた帰り道。辿り着いた家の表札には『諏訪部』の文字。大好きな彼の家だ。家の近くの電柱に隠れて、彼の帰りを待つ。

 諏訪部くんのことをもっと見ていたい、知りたいと思うのは彼の虜になった者ならば誰しも思うことだろう。だって、それくらい彼は素敵なのだから。家に帰る一瞬でいい、彼を見つめていたいのだ。






 大好きな人の視線の先が分からないほど私は鈍感ではない。諏訪部くんの視線の先にあの子がいた。同じクラスメイトの、所謂マドンナみたいな女の子。嬉しそうなあの子と、笑い合う諏訪部くん。それはあまりにも……あまりにも、お似合いで。けれど、不思議と私の胸は痛みを感じなかった。こういう時、嫉妬で胸を痛めるんじゃないの?少女漫画でよく見るような痛みが、全くない。それが私には酷くショックだった。私は諏訪部くんが大好きだったのではないのか。あの気持ちはニセモノだったのか。笑い合う二人とは対照的に、私の心は曇り空のように晴れることはなかった。

 嬉しそうな諏訪部くんは、これまで見たことのない表情をしていた。楽しそうな彼の姿を見ているうちに、不思議と私も嬉しくなっていった。中々あの子に手を出さない彼に、見ていてやきもきしてしまう。どうしてそこで抱き締めてあげないの、好きだって言えばいいのに。頑張って、諏訪部くん。そこまで考えてふと、強烈な違和感を覚えた。どこかで、同じ気持ちになったことがある。考えを巡らせて、ようやく気が付いた。漫画、少女漫画だ。読み進めながら、話の展開にドキドキしていたのを思い出す。そうか、私は諏訪部くんのファンだったのだ。彼が主役の物語のファンなのだ。私は彼の物語の読者にすぎない。そう思うと胸がすっと軽くなって、これからもずっと諏訪部くんを見守っていきたいと強く思いながら彼を見つめた。






「あなたが内川さんね」


 人気のない校舎の裏。私は諏訪部くんの彼女に呼び出されていた。彼女は言った。私が諏訪部くんのストーカーだと知っている、彼が迷惑しているからこれ以上迷惑をかけないでほしい、と。気付かれないようにしていたつもりだったが、どうやらバレてしまっていたらしい。睨みつける彼女の怒りはごもっともだった。ずっと彼を、彼の物語を見つめていたかった。けれどそれも今日でおしまいのようだ。私は頭を下げる。もう彼には関わらないと、そう伝えると彼女は嬉しそうに笑った。少しの間だったけれど、本当に楽しかった。ありがとう、諏訪部くん。どうか彼女とお幸せに。そう思いながら彼女を背に歩き出そうとした、その時だった。


「……どうして余計なことをするのかな」


 目の前には、諏訪部くんが立っていた。その表情は、冷たかった。いつも笑顔だった彼とは思えない表情に、凍り付く。驚いて固まっていると、彼と目が合った。その途端、さっきの表情が嘘のように顔に花を咲かせた。


「凛子ちゃん、ちょっと待っててね」


 凍てつく空気に似つかわしくない甘く優しい声色が鼓膜を撫でる。私に残された選択肢は待つ、ただそれだけだった。諏訪部くんは彼女の元まで歩くと、何か耳元で囁いた。ビクリ、と彼女の身体が強張り、大きな瞳にじわりと涙の膜を張る。


「……内川さん、ごめんなさい!さ、さっきのは冗談なの!許して……!!」


 私の手を握って、顔を真っ青にしながら震える唇で必死に許しを乞う彼女の様子は尋常ではなかった。私はこくこく、と頭を縦に動かす。


「ああ、よかった。分かってくれたみたいだ。凛子ちゃん、怖い思いをさせてしまってごめんね」


 どちらかと言えば怖いのは諏訪部くんの方だった。先程の様子といい、脳内で危険信号が鳴っている。できることなら今すぐにでも逃げてしまいたかった。


「さあ、行こうか」


 けれど逃げ出したい私の手は彼の手に掴まれて叶うことはなかった。






「最初からこうすればよかったんだ」


 遠回りさせてしまったね、と笑みを絶やすことのない諏訪部くん。私にはさっぱり状況が読めなかった。それから、私たちは着実に彼の家に向かっているような気がするのは気のせいだろうか。一体私はどうなってしまうのだろう。ストーカーに制裁、というやつだろうか。握られた手が酷く恐ろしい。


「僕、君に意地悪していたんだ。君に嫉妬してもらえるように。君はとても優しい女の子だから我慢していたんだよね。でもこれからは大丈夫だよ」


 諏訪部くんに腕を引かれて、私は彼の胸の中におさまる。ドッドッと脈を打つ心臓。私は恐怖に耐えられなかった。思い切り彼の胸を押した。驚いた顔の彼を尻目に、私は逃げ出した。今はただ、この恐怖から逃げ出してしまいたかったのだ。






 諏訪部くんに会うのは怖いけれど、学校を休むわけにもいかない。私は深呼吸を一つして、玄関を開けた。


「おはよう」


 それから、閉めた。え、どうして?何故私の家を知っているの?どうしてそこに立っているの?数々の疑問符を打ち消すようにインターホンが鳴った。心臓が跳ねる。怖くて仕方がない。どうして、家の前に諏訪部くんがいるの?


「あらあら凛子。彼氏が出来たなら言いなさいよ。水臭いわねえ」


 暫く息を殺していると、にこにこと笑いながら母親が言った。ああ、しまった。インターホンに母親は出てしまったのか。何故母親を止めなかったのか、そう思ったがもう遅かった。


「ほら、彼氏が迎えに来てくれたんだから早く行きなさいよ」


 母親が背中を押す。崖の下へ突き落されるような心地がした。


「おはようございます。お義母さん」

「まあ!お義母さんだなんて……!諏訪部くん、凛子をよろしくね」

「勿論です」


 にこにこと人の好さそうな笑顔で母親と話す諏訪部くん。その様子は昨日と別人のようだった。彼は母親と話し終わったのか、私に手を差し伸べた。


「さ、凛子ちゃん。行こうか」


 笑顔で私を見送る母親。耳元で、諏訪部くんが囁く。


「ほら、凛子ちゃん笑って。お義母さんを心配させちゃうよ。ああ、それから。昨日みたいに恥ずかしいからって逃げたらダメだよ。折角恋人同士になったんだからね」


 もう逃がさないよ。甘く囁く声はまるで悪魔の声のように鼓膜を撫でた。


Fin.

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極上のスパイス 内山 すみれ @ucysmr

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