第2話 レッスン室で

 百貨店などの大型商業施設の土日臨時休業で、ピアノのレッスン日以外は、うんざりしながら、ステイホームを続けていた私の元に返信が届いたのは、それから1週間後のことだった。

 パソコンのメールアドレスに、テレビのコマーシャルなどでもよく耳にする有名なメロディーが書かれた楽譜が添付されていた。それから2週間ほど練習時間が与えられ、私は、先生と共に、割り振られたパートの練習に励んだ。

「他の楽器に負けないくらい、しっかり音を響かせて!」

 この先生は絶対に、「ダメ」とは言わないけど、私は、先生と連弾した時の経験から、もっと大きな音で弾かなきゃ、自分の音が、他の楽器に負けてしまうのは分かっていた。

「優しい感じでいいとは思うんだけど、もっとはっきり弾いて!」

 弾いててゆったりした感じはするけど、弾いてる時は必死で、とてもじゃないけど、ゆったりなんてしていられない。

 することが増えるほど、渋滞するし、決して、音楽を楽しんでいないわけじゃないけど、私は苦戦していた。

 人前で弾かなくても、聴いてて心地いい音を出すように気をつけてはいるけど、すぐに音がバラバラになってしまうし。

 先生のナビがなければ、すぐに音が貧しくなってしまう……。

 何度も同じことを繰り返している気がして、私は自分が情けなかった。

 一曲仕上げることに比べれば楽でもなかったし。

 2週間後、全くやり切った感じがしないまま、先生と最後の確認をした後、換気のために、窓を開けたままのレッスン室で、私は撮影を終えた。

 撮影はスマホで、個人を特定できないように、手元だけだったけど。

 発表会にも長いこと出てなかったし、ちょっと失敗したかな?と思った。

 やっぱり、緊張したし、一度弾いたことがある曲とはいえ、片手で弾くのは初めてだったし、発表会のように人に聴かせられるレベルまで練習できなかったので不安だった。マスクをしてピアノを弾くのは、いつまで経っても苦行のようだった。

「これ、どんな風につなげるんでしょうね……」

 私が不安を隠さず尋ねると、まだ若い先生は少し困ったように笑ったように見えた。白の不織布のマスクの上に、カラーマスク、先生はベージュの不織布のマスクを重ねているので、目元の表情で判断するしかない。

「う~ん、私も、まだ他の楽器の生徒さん達の演奏を見てないから分からないけど、伴奏は私が弾くし、YouTubeにクラシックをアレンジしてアップしている先生達も沢山いるから、何とかなると思いますよ」

 と言った。

 コロナじゃなければ、参加者が集まって一緒に演奏したはずだけど。コロナじゃなければ、生まれなかった企画でもある。そう思うと、私は少し複雑だった。

「何かモヤッとしますね……」

「モヤッとする?」

「はい。ウクレレの生徒さん達みたいに、合奏したかったわけじゃないんですけど……」

 ソーシャルディスタンスを保って、みんなで楽しくレッスン!も大変そうだった。

 ロビーで見た限りでは、グループレッスンは、まだ、元の6~7人くらいに戻すわけにはいかず、3~4人くらいでやっているようだった。元のクラスを2つに分けてしまったみたいで、別の曜日に移って先生が替わったり、しばらくお休みすることにしたりした生徒さん達もいたようだった。

 土曜日朝のウクレレ上級クラスの生徒さん達は、みんな歴が長く、仲がよいことで有名だった。

 私も何度か、ロビーで、レッスン前や後に、先生とお喋りしたり、「ギリギリまで削ってもらった」と言って、楽器を見て貰ったりしていたおじさんや、演奏会の衣装に皆でつける小物を手作りしていた女性たちを見たことがある。みんなで、先生のライブに行ったりして楽しそうだった。

「コロナ以前も、バイオリンとかで、参加者を募って、合奏してたのは知ってますけど。まさか、こんな形で、自分も参加することになるとは思ってもみませんでした」

 ピアノもグループレッスンがないわけじゃないけど。楽譜を読むのも苦手で、弾きたい曲があった私は、仲間と弾く楽しさより、個人でやる方を選んだのだった。

 学生時代、ひどいイジメを受けたことはなかったけど、集団に馴染めなくて、学校に行くのがしんどかったこともある。

 大人になって、またピアノを始めたのは、一人で出来る楽器だったから、ということもある。

 私には、私の事情があって、今に至るわけだが、リレーや合奏に全く興味がなかったわけじゃないので、それが、こんな形で叶うなんて。そう、それは、まるで、ネットで見たピアノのラのオシロスコープのように、小さな波形を描いており、私を複雑な気持ちにさせた。

「でも、楽しかったでしょ?雑な言い方かも知れないけど、楽しかったんなら、私はそれでいいと思うの。教室の方も、安全な方法で始めた企画なんだし、気にすることはないと思いますよ」

 先生の言葉で、霧が晴れたようだった。むかし、まだピアノを再開して間もない頃、友だちだった人に、「ピアノは、メソッドが確立してるから」と嫌味を言われたこともあったけど、子どもの頃、ピアノを習っていた先生は、私がちゃんと練習をしてこなくても、何も言わなかった代わりに、何も聞いてもくれなかった。

 親が私にピアノを習わせていたのも、「小学校までの通学路が長くて心配だから」で、クラシックが好きだったからでもないし、私が、「ピアノの先生を変えたい」と言った時も、「中学校に入ったら、部活動とかで忙しくなるから、もういいと思って」とスルーされた。

 些細なことかも知れないし、よくあることかも知れないけど、大人になって習い事を始めるまで、私は習い事を楽しいと思ったことがなかったし、こうして、今回の企画に参加してみようとも思わなかった。

「先生」

 レッスン時間の残り時間を気にしながら、私は思い切って言った。

「新しい楽譜に入ったばかりですけど、また、『愛の挨拶』が弾きたくなっちゃいました」

「じゃ、また連弾する?」

「はい。したいです」

 コロナで、今は緊急事態宣言も延長されているので、1台のピアノでの連弾は適切ではないかも知れないけど。Secondoが上手く弾けなかったこともあり、もう少しやってみたい気持ちの方が強かった。

 私より年下かも知れない先生は、音大を出てからずっと、この教室で講師をしてきたらしいが、誰が見てもすぐどこのブランドか分かるようなものは身につけていなかったし、オードトワレの匂いもしない。厳しいことも優しく言える稀有な先生だった。

 この先生とも、いずれ別れることになるのかな?

 私は、急いで楽譜を鞄にしまいながら、先生の左手にはめられたダイヤが一粒埋まったリングをチラリと見やると、「じゃあ、また来週」と笑顔でいう先生に、「ありがとうございました」と言って、鞄を抱えるようにして、レッスン室を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る